自然界と人間界の調和のはざまで
私は動物のドキュメンタリーを見て、
自然界の調和がいかに純粋で当たり前のものであるかを感じた。

自然界では、生きるための摂理が淡々と流れていて、
それが純粋な調和として存在している。

私の内側にも、男性性と女性性が静かに調和していると気づいた。
そこは、自然の摂理そのもののように、ただ「ある」がままの状態だった。

しかし、人間社会に目を向けると、
感情や思惑が絡み合い、調和はあっても自然ではないという感覚がある。
調和は確かにあるけれど、自然とは少し違う。
それが、私の中に生まれた新しい感覚でした。

この問いに出会った瞬間
この問いに出会ったのは、
動物たちの生態を追った、あるドキュメンタリー番組だった。

そこに映っていたのは、
けがをした仲間を見捨て、
育てられない子を置いていく姿。

人間の感覚で見れば、
「なんて冷たい」「可哀想」と感じてしまうような行動。
でも、それはただ、生きるための選択だった。

誰かを犠牲にしたいわけじゃない。
でも、そうしなければ、群れ全体が危うくなる。

その姿はあまりにも淡々としていて、
そこに“悪意”も“悲しみ”も見えなかった。

ただ、「そうするしかない」。
それだけが静かに流れていた。

私はそのとき、
“感情”で裁く視点の外側にあるものを、見た気がした。

生きるという現実
群れの中で、
けがをした仲間を見捨てざるを得ないときがある。
育てられない子を置いていくこともある。

それは「非情」ではなく、「選択」。
生き残るための、命の選択。

それは“冷たさ”や“残酷さ”ではなく、
命というシステムの中での、純粋な自然の摂理。

人間以外の動物たちは、それを「善悪」で裁かない。
ただ、選ぶ。
そのとき、必要な行動をする。

それが、生きることの潔さ。

では、人間はどう生きるのか?
私たちは、「感情」や「思考」を持つ存在。
だからこそ、問いが生まれる。

「可哀想だから」と引き受けることが、ほんとうの優しさなのか?

そして時に──

引き受けたことで、自分が力尽きてしまう。
その“善意の暴走”が、逆に誰のためにもならなかった。

そんな痛みも、人間だからこそ起こる。

人間は、動物でもある。
けれど、理性や共感を持った、
ある意味「境界線上の存在」。

だからこそ、
自然界の“潔さ”と、
人間界の“やさしさ”や“感情”とのあいだで、
どこにバランスを置くのかが、
一人ひとりに委ねられている。

それは「正しいか、正しくないか」ではない。
どんな選択であれ、自分のいのちに誠実であること。

私が大切にしてきた、
「自分への矢印」が、ここでの核心にある。

問いを生きる
人間として“ある”とは、どういうことなのか?
自分が“できること”と“できないこと”を、どう見極めるのか?
本当のやさしさとは何か?

この問いも、
いのちを生きる旅の一つの問いになる。

 

 

 

問いを生きること。それが、いのちを生きるということ。 

どうか、自分の内側に耳を澄ませてください。



 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますようにキラキラ