怒りの質が変わった日

以前、私の怒りは「悔しさ」や「虚しさ」から生まれていました。
それは過去の経験や記憶と深く結びつき、ときには自分の中で膨れ上がってしまうものでした。

たとえば、戦争という出来事に対して。
自分の非力さ、無力さも含めた怒り。
その怒りは、まるで自分の骨の奥にまで染み込んでいるような感覚でした。

先日、曼荼羅舞踏を通してその感情を全身で感じ、号泣しました。
それは頭で理解することではなく、体を通して解放される体験でした。
涙と共に、何かが昇華された感覚がありました。

そして先日、何気なくザッピングしていたTVで、戦争を描いた映画の一場面に出会いました。
空軍の若者たちが出立の前に、いつものご飯屋さんでお酒を飲み、おかみさんの作る温かい料理を食べる。

「行きたくない」「行かせたくない」という命の声がありながら、笑顔で「行ってきます」と言う場面。

以前の私なら、大号泣していたはずです。
その両方の無念さが、私の中に確かにあったから。

でも、その日は違いました。
涙も出ず、胸にこみ上げるものもない。
それは、感情が枯れたのではなく、曼荼羅舞踏であの怒りが昇華されたからだと感じました。

怒りはなくなったわけではありません。
ただ、その質が変わったのです。

今の私にある怒りは、「自分のいのちを丁寧に生きる」という情熱のようなもの。
過去の無念や虚しさから生まれる怒りではなく、未来を照らすための火になりました。

火そのものは変わらない。怒りもなくなってはいない。
でも、何を燃やし、何を温めるために使うのかが変わったのです。

そして、この変化を通して、私は「自分を丁寧に生きる」ということをより深く意識するようになりました。
 

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
 

 

 

この先はnoteにて、私が感じたもっと深い洞察や実践のヒントを綴っています。

 

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