一瞬に宿す、私の存在。
人生は流れているように見えて、
実は「一瞬一瞬の選択」の重なりでできている。
映画のフィルムのように、
ピンボケのカットも、暗いシーンも、
その一枚があるからこそ、次の一枚が意味を持つ。
それは決して流れ作業ではなく、
「意図なき選択の連なり」が、
私たちに“ただ流れているように”錯覚させていただけ。
つまり、惰性や無自覚が日常を“作業”に変える。
「このままでいい」と思っていた私の中に潜んでいた慢心。
“わかったつもり” “できてるつもり” こそがズレを生んでいた。
その瞬間、“どう在るか”の方が、人生全体の波動を大きく左右する。
その気づきは、私にとって大きな転換点だった。
「動こうとしなかった」のではない。
“いつもの日常”の中にこそ、私の答えがあったのだ。
気づいたのは、動く前の“ゆるし”がなかったということ。
外に出るという、その一点の許可。
それがなかったから、私は動けなかった。
動く前にある「存在の肯定」。
この深いゆるしが、次の一歩の震えを可能にする。
誰かの評価のために、未来のご褒美のために“いま”を選ぶなら、
それは「いま」を犠牲にするということ。
いま という一瞬が、本当はどれほど創造的かに気づけば、
未来に託す必要はなくなる。
一瞬一瞬は、繋がっていない。
それぞれが、常に新しい世界の始まり。
だからこそ、
いまこの瞬間に宿る意図が、唯一確かな創造になる。
“なんとなく”動くとき、私たちは選ばされている。
でも、一瞬に意図を宿したとき、私たちは選んでいる。
そうすると、人生はただの舞台ではなく、
私という存在が舞う聖域に変わっていく。
本質の声は、薄くて、小さくて、見逃しやすい。
でもその声だけが、他人の声でもなく、過去のデータでもなく、
本当に「今ここ」の私から立ち上がってくる。