「くやしい」の奥にあったもの
最近、男性のトークライブを聴くことが増えた。
聴いていると、心がザワザワしてくる。
そして、そこから逃げ出したくなる。

なぜなら、「本当はわかっていること」を突きつけられるから。
それを感じてしまうと、これまで自分が選んできた道のすべてが、
ひっくり返ってしまうような気がして、怖くなる。

だから私はいつも、そこで止めて避けてきた。
けれど、もう避ける意味を見出せなくなってきた。
 

昨日は、ザワザワを抱えたまま、その場に留まった。

「避けたい」という行動には、感情がある。
けれど、あまりにも長く感じないようにしてきたから、
その感情が何なのかさえ、分からなかった。

静かに湧いてきたのは、「くやしい」という想いだった。

私も、そうしたかった。
できるなら、今でもそうしたい。
でも、それを言葉にしてしまうと、
今までの自分の選択を否定してしまう気がした。

最善を尽くしてきた自分を、守るために。
私は私を、ずっとそうやって、「かばってきた」
 

そして、その思いやりが「くやしさ」を封印してきた理由でもあった。

「くやしい」を感じることは、
まるで「今までの私は間違っていた」と言われるようで、怖かった。
だからこそ、“あれが最善だった”と証明し続けることで、
ようやく自分を保っていたところがあった。

でも、本当は――
私も、そうしたかったんだ。


けれど、そうしてこなかったことは悪いことじゃない。
それは、私の“最善”だった。
自分を責めたくなるけれど、責める必要はない。
誰も、なにも、悪くない。

けれど、「くやしい」は、ある。

そのくやしさは、
長年あたためてきた“願いの核”のようなものかもしれない。
ただの比較や嫉妬ではなく、
私が本当は知っている「やりたかったこと」「生きたかった形」の記憶。

「くやしい」という感情は、
まだ終わっていない夢の声。
それは、「私には、まだこの夢が生きている」証。
そして、
「ここからが本当の出発点だよ」と教えてくれる、魂のサイン。

私はいま、「くやしい」を感じても、
過去の私を否定しないと決めた。

どんな選択をしても、私は私を受け入れる。
だから、「なにを選んでもいい」と思えるようになった。

最善が「一択」ではなくなった瞬間、
私の中に新しい可能性が生まれた。

私という世界には、限りない選択肢があっていい。
どれも、私を育て、私を照らす道になっていく。

旅は、まだ続いている。
でも今日、たしかに私は、自分の足で地面を一歩 踏みしめた。

そして、「くやしい」と共に歩き出している。

 

未来ちゃん~川島小鳥 写真集より~

 

 

最後まで読んで下さり
ありがとうございますラブラブ

 
読んでくださったあなたには
さらなる幸福が訪れますようにキラキラ