自分と向き合わなくていい人なんて、いるのだろうか?

「自分にやりたい事がないから、人のためにしか動けない」という人がいる。
それはとても素晴らしいことだし、否定するつもりはまったくない。
人の役に立てることに喜びを感じ、そこに生きがいを見出しているのなら、
それはその人の大切な、尊い在り方だと思う。

けれど、時々こんな声を耳にする。

「自分のやりたいことがないから、自分と向き合う必要なんてない」
「“自分はどう生きるか”なんて問い、ほっといてほしい」

そうした言葉を聞くと、私はどこか引っかかってしまう。
それは、私の中にある、静かで確かな違和感。

本当に、自分と向き合わなくていい人なんて、この世に存在するのだろうか?


人のために動くことと、自分を知ることは別のこと
自分にやりたいことがないから、人のために動く。
そういう行動は、尊くて、美しい。
けれど──それはあくまで「行動の方向性」の話で、
「自分と向き合わなくていい理由」とは、また別の話だと思う。

なぜなら、
「人のために」と動いているつもりでも、
それが、外側に向いているエネルギーだとすると、自己犠牲になり、その人にとっての「存在意義」や「安心」になってしまっている場合があるから。

本当のその奥には、
「罪悪感」や「自己否定」、
「役に立たなければ愛されない」
「“いい人”でいなければ居場所がない」
そんな想いが隠れていることも、少なくないんじゃないかと思う。

それ自体が悪いことだとは言わない。
ただ、そういう動機に気づかないまま動き続けていると、
やがて無理がきたり、虚しさが顔を出したり、心が枯れてしまうことがある。

そしてこの状態が続くと、
自分が本当は何を感じているのか、わからなくなる。
他人の期待に応えないと、自分には価値がないと錯覚してしまう。
「自分を生きている」という感覚が、どんどん薄れていく
ってことが起きやすい。

だからこそ、
「なぜ私はこれをやっているんだろう?」
「その奥にある想いはなんだろう?」
と、自分に静かに問いかける時間が必要なんだと思う。

やりたいこと探しと、自分を知ることも、全くの別モノ
「自分と向き合う」と聞くと、
多くの人がすぐに “やりたいことを見つけなきゃ” と思ってしまう。

つまり、「向き合うこと」=「何かを見つけて、決めること」だと思っている。

だから逆に、「やることがない=見つけることがない=向き合うこともない」と、つながってしまっていたりする。

 

でも、それはある意味で自然な反応なのかもしれません。


私たちが育ってきた社会には、「向き合う」という行為を、未来の目標を立てることや、役立つ自分になるための手段として捉える風潮がある。

たとえば学校や職場では、「将来どうなりたいか」「何を目指すか」という問いかけはされても、
「いま、どんなふうに感じているか」「その感覚はどこから来ているか」を深く尋ねられることは少ない。

だからいつの間にか、「やりたいことがないなら、向き合っても意味がない」と思ってしまうのも自然なことなのだと思う。


自分と向き合うこととは、
「あり方の深まり」の話。
“自分がいま何を感じ、思い、どんな癖や反応パターンがあるのか” を観察し、認めて、受け入れていくプロセス。

一方で、やりたいことを探すことは、
世の中に役立つことでなきゃダメとか、立派な目標を掲げなきゃいけない、と思い込んでいる人も少なくなくて、
“未来に向けて何をするか”という行動や目標を考えることとして捉えられがちで、

「やりたいこと=未来を描くこと」として理解されることもよくあります。

この2つは似ているようで、焦点がまったく違う。
にもかかわらず、混同される場面をよく見かけるように感じます。

そして私は、やりたいことって、本来はもっと日常の中にある、
“今この瞬間に何をしたいか”という小さな選択の積み重ねから、
少しずつ輪郭を帯びてくるものだと思っている。

たとえば
今、ちょっと散歩したい。
今、誰かに話を聞いてほしい。
今、この本が気になる。
今、静かに一人になりたい。
こういうささやかな「したい」という感覚を丁寧に拾って、
「うん、それやってみようかな」と応じていくことで、
いつの間にか「私、こういうのが好きなんだな」と自分だけの道が形づくられていくんだと思う。

やりたいことは、
過去や未来のどこかに“見つけにいく”ものではなくて、
“今”を感じることの延長線上に、静かに育っていくもの。

だから、
「やりたいことが見つからない」と悩む前に、
「今、自分は何をしたいと感じている?」
と、今この瞬間の自分の感覚を大切にすることのほうが、
ずっと大事なんじゃないかと思う。

感情がある限り、自分と向き合うことは避けられない。
人間である以上、感情は必ずある。
喜び、怒り、悲しみ、不安、恐れ、安心…
これらの感情は、自分という存在の豊かな表現だ。

だからこそ、感情がある限り、
自分と向き合うことは避けられない。
感情は、私たちに「今ここで私に何が起きているか」を教えてくれる大切なサイン。

もし感情を無視したり抑え込もうとすると、
心の中にしこりやわだかまりが生まれ、
やがて身体や行動にも影響を及ぼすことがある。

向き合うことは、感情をジャッジせずに感じきって、認めて、受け入れること。
それは決して簡単なことではないけれど、
自分を知り、生きやすくなるためには不可欠なプロセスだと思う。

自分と向き合うことは、生きることとつながっている。
私たちは毎日、何かを感じ、選び、動いている。
それはすべて、「自分という存在」としてこの世界を生きているということ。

けれど、自分の内側に意識を向けずにいると、
気づかぬうちに、誰かの期待や社会の常識に沿って、
「なんとなく」で生きてしまう。

だからこそ、自分と向き合うことは、
「自分の人生を、自分のものとして生きる」ために、欠かせない。

それは時に、痛みや不安を伴うかもしれない。
面倒と感じることもある。

でも、いつも内側を見つめて、
湧きあがる感情を受けとめていくことで、
少しずつ、自分自身とつながり直していける。

そうやって、自分に還っていくことが、
“自分の人生を生きる”ということなんだと思う。

「自分と向き合うこと」は、
“今ここ”の自分の感覚に耳を澄ませて、
その感覚、一つひとつを丁寧に扱っていくこと。

それこそが、「生きる」という営みそのものと、深く結びついている。

どんな在り方も、どんな歩みも、
すべては、自分の内側から始まっている。

私はこの先も、この行動を続けていく。