人間は, 最期の瞬間まで生きる意味を見つけようとする存在だと思う。人との関わりを求め続け、さらには大いなる存在(神、仏)とのつながりを考えることも多くなってくるのではないだろうか。
若い頃は、自分が年をとることなど考えることさえないけれど、実際年をとると(その途中でも)経済的な問題や病気、孤独感などぬぐい切れいないものが降りかかってくることもある。
ところで、この春に単身帰国し、父の様子を見てきたが、その2ヶ月後。頭はしっかりしているものの、あまりにも歩けない姿を見て愕然とした。入院しているのならいざ知らず、家にいても結局は歩いていないから筋肉は落ちるのみ。家の中とはいえ、あまりにも転ぶので体はあざだらけ。一度は目の周りも椅子の背もたれにぶつかり真っ黒で、ひどい時は、お風呂の中で椅子から倒れ、水道の蛇口におでこをぶつけ切れてしまい、流血していたこともあったから家族は慌ててしまった。
検査をしても、内臓や骨にも異常はなく、また認知症、脳血管疾患さえもない。ただただ筋力の低下で立つことも不自由。歩くことも、座って靴下を履こうとしても後ろに倒れてしまいがち。
父は何も言わないが、骨折や怪我がなくとも、転倒により自信をなくしたり、自力で動くことにかなり恐怖心を持っているようで、筋トレをしようよ、といってもやっても無駄だ、と言ったり、下手に言えば、人の気も理解していないと不機嫌になるばかり。
ところで、空手の全国大会では50歳以上は「シニア」というカテゴリーになりシニア、ミッドシニア、グランドシニアと分けられる。どうも、気分的によろしくない。とはいえ、人生、思春期、青年期、中年期、高齢期...などといずれかの年齢区分というか名称で呼ばれるのならば、やはり高齢期または老齢期、というのは人生における集大成であるべきなのかもしれない。よくも悪くもその人そのものがむき出しになってくるのだ。
話は飛ぶが、私の帰国直前に、大腿骨を骨折し手術をして入院、退院して養老院に戻ったシスターPは私の出発前に、次に会う時は、杖をついて歩けるようになっておくから、とおっしゃっていたが、リハビリも順調に進み、みるみるうちに歩行器を使いつつも歩けるようになり、杖で歩くことも可能になったというから驚いてしまった。
意思の強さもあるだろうし、やはり女性は強いなあ、とつくづく思ってしまった。また、ミラノに戻り、すぐにシスターに会って来たが、とくかく「嬉しい」という言葉を連発し、「ありがとう」と感謝の言葉を述べられる。そういう心がけは、聖職者だからなのだろうか? いや、もともとの前向きな姿勢と普段からの心がけがそうさせるのだろう。
「人の振り見て我が振り直せ」、ではないけれど、やはり自分の将来を考える時、老齢期というのは、人生最後の修行の場なのだなあと思う。体が思うように動けなくなり、記憶にも問題が出てくることだろう。そういった諸々のハンディキャップを抱え、どう乗り越えていくか、本当に難しい。実際受け入れられるのか?それさえも自信がない。
けれど、また母の立場や同じような状況で世話をする人のことを考える時、介護や支援、援助は同情や憐みからするのではなく、やはり相手に対する敬意と尊敬は忘れてはいけない。これまた修行の場なのだなあとつくづく思いながら、ミラノに戻ってきた。
常に思う。Quality of life。何に重きをおくか。結局は若い頃からの心がけと前向きな姿勢でありつつ、年を重ねていくものだと。
人生は贈り物であり、時間も贈り物。両親や周りの人の老いを見つつ、自分の「老いのレッスン」も始まっている。