司祭による説教の前の福音朗読の前に、普段は「アレルヤ唱」が歌われるが、復活祭前の四旬節では「詠唱」といって、朗読、または節をつけて朗読するが、木曜日はその部分を、土曜日は詩編を歌う。
フラット3つの変ホ長調。音の下がり方がかなり不安定で、譜面を見ていても、字余りで舌は噛むわ、リズムについていけないわで、毎回自信がなく、それでいて本番には歌えるのだが、四旬節に入ると不安になる。苦笑 何度も練習をするが、頭の中は♪ジューダー、ジューダ…とユダの名前が繰り返され、この時期はどうしてもユダのことばかり頭に浮かんでは消える日々となるのだ。
CANTO AL VANGELO (Lc 22, 52-53. 47-48) « Siete venuti a prendermi / armati di spade / come fossi un ladro! Ogni giorno ero in mezzo a voi / ad insegnare, / e non mi avete arrestato! Adesso mi consegnate perché sia crocifisso! » Mentre ancora stava parlando, / ecco arrivare la folla ed anche l’apostolo di nome Giuda / si avvicinò a Gesù per dargli un bacio. «Giuda, Giuda, con un bacio / tradisci il Figlio dell’uomo, perché sia crocifisso! ».
詠唱 (ルカによる福音書 22:52-53.)
52それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。 53わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。
ユダ、ユダ、口づけをもって 人の子を裏切るのか、十字架につけられるために…
ユダよ、なんでそんなことをしてしまったのだ...
しかし、イエスは「友よ。何のために来たのですか」と言われる。自分を裏切る者がいることを知っており、しかも「友よ」と言うなんてありえるだろうか?
ローマのカエサルは「ブルータス、お前もか?」と言った。Et tu Brute...
裏切り者はどこにでもいる。しかし、イエスは最後までユダを信じていた。つまり、最後までユダの悔い改めのチャンスを与えていたのだ。
「確信犯」のように、ユダは平気な顔をして、「先生、お元気ですか」と言って、口づけをした。その時、ユダはどう感じたのだろう?罪悪感か?それとも快感か?
聖木曜日、聖金曜日、そして聖土曜日の聖歌を歌い続け聖週間のクライマックスが歌と共に脳裏をかすめる。
イエスの弟子のペトロもイエスを3度も知らないと言ったし、他の弟子たちも逃げてしまった。その後彼らは悔いた。ユダもイエスの判決を聞き、絶望し、祭司長に「私はとんでもない罪を犯してしまった。罪のない人の血を売ったりして」と言ったが「今さらわれわれの知ったことか。かってにしろ」と言って相手にされず。
彼らの大きな違いは、たとえ師を裏切り、それによって深い後悔をしても、回心するか、絶望し「死」を選ぶか...それは大きい。
私たち一人ひとりの中に、忠誠か利害かという選択の時に自分の中に持つ「小さなユダ」を持っているとパパ様はおっしゃる。
裏切る能力、売り渡す能力、自分の利益のために選択する能力を持っている。...お金や財産や将来の繁栄への愛に誘われる能力...。
"ユダよ、どこにいる?" Giuda, dove sei...
誰もの中にいる「小さなユダ」。自分に問いかけられている。
カラヴァッジョ 「キリストの捕縛」
ユダの口づけにより、イエスをとらえようとする兵士、逃げる弟子が一枚に描かれている。一番右側にいるのはカラヴァッジョのようだ。
今日の一句
立ち返れ 悪しき道から 聖水曜日
四旬節は紫。紫は王様の色。そして、悔い改めの色



