慌ただしい日々を送っていたが、ついに復活祭1週間前の「枝の主日」、イエスのエルサレム入城を迎えた。
ローマ典礼はルカの福音であったが、ミラノのアンブロジアーノ典礼はヨハネの福音(11:55-12:11)であった。
>マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。・・・
主任司祭は、説教の中で、マリアの態度は「愛の浪費」(sprecare l’amore)と言った。普段ならNon Sprecare xxxx 時間を無駄にしてはいけない、食べ物を粗末にしてはいけない、などに使われ、耳にする単語を肯定的に使うのか...と思った。
つまり、「愛の浪費」とは、聞こえは良くないが、心の豊かさや心の余裕なのだろうか?
教会のミサは、多くの参列者の何かしらの奉仕によって成り立っている。それは社会の縮図であって、本来世の中はそう言った「愛の浪費」に成り立っているのではないだろうか?
ところで、イエスがエルサレムに入城した際、「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と歓待した人たちは、数日後には豹変し「(イエスを)殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ。」と叫ぶ。
なぜ、人々は簡単に豹変してしまったのだろうか?それは、イエスが自分らが思い描いていたメシア(救世主)ではなかったからであろう。ユダの裏切りとて同じことだろう。
ある日、一躍人気になったインフルエンサーや芸能人がちょっとしたことで、叩かれて世間に顔を出して生きられないようになるほど人を叩く世の中が存在。
恐ろしいことだ。
人の言葉や思い、考えは変わることもある。しかし、神のことば、神の思い、考えは変わらない。
何を信じて生きていくのか。
無駄。役に立たない。
それは世の中の基準なのか?
有益なもの、役に立つものは尊ばれ、益にならなければ、役に立たなければ捨てられる。...それが人間に適応されてしまう現実。有能な人、有益な人だけが偉いのか?
けれど、イエスの言葉、イエスの救いによって神の存在を知るならば、その価値は全て変わる。
苦しむことも、失敗することも無駄ではない。遠回りすることも、休むことも大切なのだと。
自分は価値がない、という事はあり得ない。
群衆の心理の中で、本当の真理とは何なのか?考えるミサであった。
今日の一句
神の恵み 思い巡らす 聖週間

