コロナ渦でも2021年は始まった。一昨晩(大晦日)、NHK紅白歌合戦を観ていたら紅組のあいみょんが、歌う前に「(司会者に「無観客ですが」と振られて)緊張感を持って歌いたいと思います」と言ったのが新鮮で印象に残った。よく「緊張しないように歌いたい…」などとは聞くが「緊張感を持って…」とは初めて聞いた。

 

ステージでパフォーマンスをすれば規模に関係なく緊張するもの。ましてや「NHK紅白歌合戦」といえば日本の歌手にとってはトップ・オブ・トップ、これ以上緊張する状況はない最高の舞台である。そんな中で「緊張しないように歌いたい」ではなく「緊張感を持って歌いたい」という彼女の心意気に、「おお、」と思ったのだ。

 

プロの歌手や役者などは常に多くの観客や聴衆を前に仕事をしているので慣れてしまって緊張などしないのではないかと思うが、必ずしもそうではないようだ。昔、日生劇場で毎年リサイタル(独演会)を開いていた越路吹雪は幕が上がる度に凄く緊張したそうだし、あの豪放なイメージの和田アキ子も緊張すると言っている。

 

【あいみょんのTweet】

 

ビジネスにしろ趣味にしろ「人前に立つと緊張してしまって思うように実力を発揮できない」というケースは多い。私は仕事のプレゼンテーション等で、この「緊張」について考察した結果、ある結論に達した。それは「『どうしたら緊張しないか』という問い自体(考えの方向性)が、そもそも間違っている」ということだ。

 

どういうことかと言えば「緊張(すること)」自体は必ずしも悪いことではない。むしろ緊張は集中力に繋がって良い結果を生むことさえある。問題なのは「緊張する」ことではなく、「アガッて」しまい心身がガチガチになって本来のパフォーマンスが出来なくなることである。だから問題は「緊張」ではなく「アガって」しまうことだ。

 

「アガッて」いる時は必ず「緊張して」いるが、逆に「緊張して」いる時は必ずしも「アガッて」はいない。例えば、地震などの災害時は誰でも身構えて「緊張する」が「アガッて」はいないだろう。だから人前では「緊張しないように」するのではなく「アガらないように」すれば良いということになる。

 

そして次の3条件が揃った場合に「アガる」ことを発見した。

 ①.自分が試されると思っている

 ②.失敗は許されないと思っている

 ③.失敗するかもしれないと思っている

上記の3条件のうちの1つでも満たさなければアガる事はない。

 

例えば結果が自分の評価に影響しないなら他の2条件が揃ってもアガらないし、失敗しても構わない状況だったら他の2条件が揃ってもアガらない。また(飛び越えるハードルの高さがたった10センチ等)失敗の可能性が皆無なら他の2条件が揃ってもアガらない。つまりこの3条件のうち1つでも欠ければアガらないのだ。

 

そして既にお気付きかも知れないが、この3条件には一つ共通点がある。それは全て主語が「自分」のことばかりなのだ。つまり「アガる」ということは、意識が自分側に向いている時に起きるということであり、「我(自分)を忘れて無我夢中」で何かをしている時などは、上記の3条件に関係なく人はアガッたりしないのである。

 

プレゼンテーションもそうだが最も大切なのは受け手の「お客様」であって送り手の「自分」ではないことはMCの記事で書いた通り。だから真剣に「お客様」に意識を向けている間は自分に意識は向かない。つまり「アガる」というのは、お客様より自分(の出来)が気になる“自意識過剰で不真面目な状況”なのである。

 

よく「あなたは(図々しいから)人前でアガらなくていいですね。羨ましいですぅ...私は(謙虚で控えめだから)アガッてしまうんですぅ」と抜かす奴がいる。まあ私が図々しいのはその通りだからいいとして「人前でアガるお前は謙虚じゃないぞ。ただ自分を良く見せたいだけのドスケベだからなー」と、思いながら黙っている。

 

「自分がカッコ良く」ではなく、自分のなりふりなど構わずお客様に意識を向けていれば絶対にアガらない。あいみょんが、今回のように「無観客」でお客様に意識を向けにくい状況でも敢えて「緊張感を持って歌いたい」と言ったのは、日頃から意識をお客様に集中して歌うからだろう。今回の紅白での歌唱も素晴らしかった。

 

Saigottimo

今年(2020年)もコロナ禍のまま遂に大晦日を迎えた。例年は深夜から「二年参り」の初詣客で神社仏閣はごった返すが、午前中なら大晦日でも大抵ガラガラで気持ちが良い。私は今年のように家内の里(長野)に帰省しない年末は大晦日の朝に明治神宮に一年間の感謝のお礼参りに行くことにしている。

 

【今朝の明治神宮】

【上:西参道側広場】
【今朝の本殿】

 

今年は帰省や旅行も自粛モードだが「お正月休み」はやはり長期休暇、フランス語ではバカンス(vacance)、米語ではバケーション(vacation、英国ではholidaysだが)で、これらの語源は飛行機のトイレ表記「vacant(空き)/occupied(使用中)」にもある通り「空っぽ」という意味である。

 

「こんなに長い休みなのにスケジュールが空っぽだぁ」と嘆く人が居るが、実はそれこそ「正しいバケーションの過ごし方」ではないか。日本人は海外旅行でも観光等の予定をタイトに詰め込んでしまうが、リゾート地に行くと欧米人はビーチやプールサイドでのんびり寝転がってクロスワードパズルなどをして過ごしている

 

「お前らどんだけパズル好きなの?」と思っていたが、もしかしたら欧米人は昔から「正しいバケーションを過ごさなければ」という強迫観念から予定を「空(カラ)」にするためクロスワードパズルをしているのかも知れないとすら思える。とはいえ最近は日本でも「何にもしないをしよう」等という広告コピーも出てきたが…。

 

でもスケジュールを「空(カラ)」にすることは出来ても頭の中を「空」にすることはなかなか難しい。禅の高僧でもない限り、暗い静かな場所で瞑想しても頭の中は「空」や「無」にならない。悩みや煩悩が去来するばかりでストレスは一向に減らないが、私はこれらを撃退して頭を「空」にする方法を身を以て発見した。

 

思えば40年程前、突然右手が使えなくなった。就職したばかりで妹はまだ小学生だった時期に親が急逝し、相続やら事業承継で奔走して半年後のこと。右手は1週間で治ったが空腹感と満腹感が無くなった。今思えば重度のストレスによる“自律神経失調症”、でも当時は名医にも「仮病では?」と診断される始末だった。

 

そんな時に客先の先輩に誘われ軽井沢のテニスツアーに参加した。未経験者で女の子目当てだった不純な私は参加者が男ばかりで仕方なく黄色いボールだけを終日追いかけていたら、なんと夕食時に半年ぶりの空腹感そして食後に満腹感が戻ってビックリ!以来テニスは毎週継続している(なのに下手のまま)。

そう、私が身を以て発見した“ストレスを撃退して頭を「空(カラ)」にする方法”とは“何かに夢中になること”だ。私にとってテニスをすることは、正に「無心」になってボールを追うことであり、それが寝ても覚めても頭のメモリのどこかに常駐していた悩みや心配事等のストレスを一時的にフラッシュしてくれたのだろう。

 

舞い散る落ち葉を掃き続ける禅の修行もあるそうだから、あの欧米人のパズルも“全身全霊で非生産的な作業に没頭する”という意味では禅の一種かも?小刀で鉛筆を削るのも焚火の炎を眺めるのもクッション材(プチプチ)を潰すのも、文字通り「無心」になれる点では同じ。きっとストレス解消効果があるはず。

 

さて今年は本編にて“書き納め”、拝読ありがとうございました。

2021年はパンデミックも終息して良い年となりますように!

 

Saigottimo

既に弘田三枝子の追悼記事は書いたが、今年も、ジャズのマッコイ•タイナー、シャンソンのジュリエット•グレコ、カントリーのケニー•ロジャース、ロックンロールのリトル•リチャード、映画音楽のエンニオ•モリコーネ、POPSのヘレン•レディなど音楽界でも多くの有名人が鬼籍に入られた。皆さんきっと天国に召されたことだろう

 

ユダヤにはこんな話があるそうだ。死んであの世に行くと神様は「君は何故、モーゼではなかったのか」とは問わず「君は何故、君ではなかったのか」と問われると。ユダヤ人にとってのモーゼは日本人なら聖徳太子の様な理想の人物像だから「何故もっと自分らしく生きなかったのか?」と突っ込まれるという事である。

【左:モーゼ、右:聖徳太子】

 

我々は、幼い頃から常に「良い子」でいるよう諭されて育つので、この世では聖人君子のような一生を送るべきだと思いがちだ。しかし神様の思いはそうではなく、全員に他人とは違う個性を持たせてこの世に送り込んだのだから、我々は「他の誰でもない、その人ならではの一生を送るべきだ」という訓話である。

 

結婚や就職のような人生上の問題には「正解は無い」と書いたが、人生そのもの(生き方)にも理想的な「正しい生き方」など存在しないなら、そんなものを探したり聖人君子を目指して生きる必要も無いではないか。ただただ「自分らしい生き方(人生)」をすれば良いということになり、少し肩の荷が下りる気もする。

 

しかし「自分らしい生き方」をするのは簡単ではなさそうだ。まずは自らの個性を正しく認識しなければならない。それをしっかり煮詰められればオリジナリティに昇華できることは既に「じゃあオリジナリティって何?」「オリジナリティは個性と違うか」という記事で書いた通りだが、そもそも「自分」がよく分からないし…。

 

但し間違ってもここで”自分探しの旅”などに出てはいけない。何故なら、そもそも人生自体が旅だから旅に出る必要などないし、また以前書いたように就活や婚活と同じくこれも「探す」状況ではないので探しても見つからない。つまりここで必要なのは「自分探し(探索)」ではなく「自分選び(選択)」だということになろう。

 

では「自分らしい生き方」をするための「自分選び」とは何をすればいいかというと「ピンチとチャンスは同時に存在」で書いた様に、ただ普通に生活すればよい。日常は「今日は何を着(食べ)ようか」など選択の連続だから自然に「自分選び」を繰り返せる。でも何も考えずにボーっと生活しているだけではダメなのだ。

人は何も考えずに生きているとチコちゃんにも叱られるし、知らず知らず周囲の空気に流されるので「自分選び」にはならない。だから日常のどんな些細な選択も「これは本当に自分の意志に沿ってるか?」と自問し、その結果を振り返って「やっぱり少し違ったかな」等と反省し軌道修正する「試行錯誤」が必要になる。

 

日本語で「試行錯誤」と言うと何か良くない事のように聴こえるが、本当は極めて重要な行為であり「人生とは試行錯誤だ」と言っても過言ではない。英語では「try&error」と言うが「チャレンジには失敗なんかない」で書いたように、まさに「try(挑戦)」しなければ「error(失敗)」どころか何も始まらないと言ってもよいだろう。

 

つまり「自分らしい生き方」をするため「自分選び」を繰り返して試行錯誤することで、実は「自分造り」をしているとも言える。人生はそうした一瞬一瞬の積み重ねだし、どのみち「正解は無い」から試行錯誤を繰り返すしかない。そうやって「自分らしい生き方」を模索しているうちに、みな寿命が来て死んでしまうのである。

 

でも死ぬまで「自分選び」を繰り返して失敗したり納得したりしながら生きていれば一生何の結論も得られなくても、少なくともあの世に行った時に神様に「君は何故、君ではなかったのか」とは問われずに済むかも知れない。何故なら人生とはある意味「生まれてから死ぬまでの時間の過ごし方」なのだから

 

Saigottimo

年の瀬だ。年末年始になると「来年(今年)こそ」という言葉に続いて、良い人(婚活)や良い仕事(就活)や良い住居(住活)が「見つかりますように」などの願掛けをする人も多いだろう。私は人事部長をしていた頃、大学から「学生に就活のアドバイスをして欲しい」と頼まれると学生さんには必ずこんな話をしていた。

【横浜中華街の関帝廟
 
「皆さん、就活で自分に合った会社を探してませんか?」多くの学生が当然だと言わんばかりに頷くのだが、次に私がこう言った瞬間、驚いたような顔になる。「いくら探しても、絶対に見つかりませんよ」と。え、一体どういうこと?この人事部長は何を言いたいの?我々にケンカでも売るつもりなの?という表情だ。

 

私が言いたいのは全く当たり前の事で、もし財布を落として遺失物センターに行ったら数ある遺失物の中から自分の財布を「探す」だろうし、無いことも含め必ず「探せる」だろう。何故なら自分の財布はどういうものか分かっており中身等で確証が取れるからだ。つまり「探す」ことが出来るのはそういう状況である。

 

ところが就活では「自分に合った仕事(会社)」はどんな仕事(会社)なのか明確ではない。だからいくら探しても、具体的にはA社がそうなのか、B社か、いや、もしかしたらまだ出会っていないC社かも、となるし確証も取れない。つまり、そもそも「探す」ことなど出来ない状況なのだ。出来るのはただ「選ぶ」ことである。

 

婚活も住活も全く同じで、赤い糸でも繋がっているなら手繰ればいいが当然そんなものは無いから、いくら「探し」ても見つかるはずがない。ここでも出来ることは就活と同じで、限られた期間内に限られた選択肢の中から「選ぶ」ことによって「自分で決めるしかない」のだ。結論は「探すな!選べ!」ということだ。

 

これはちょっと考えれば誰でも気が付く勘違いだが、何故そんな勘違いをするかと言うと多くの人は無意識のうちに「どこかに必ず答え(正解)がある」と思うからそれを探すのだ。「人生に正解は無い」という格言通り人生で生じる問題には予め決まった正解など無いのに何故か学校の試験等と同じだと思ってしまうのだろう。

 

最近は広告でも、住まい探しではなく「住まい選びのお手伝い」というコピーも出てきた。勿論、選択肢が全く無ければ先ずは探すしかないが、いくら探して多くの選択肢を提示しても客が選べなければ成約しないので不動産屋は儲からない。恐らくそういう客は「どこかに正解があるはずだ」と信じているのではないか。

 

「自分が気が付かないだけで本当は必ず正解があるはずだ」とどこかで思っているから、神様や占い師等にその答え(正解)を教えてもらおうとするのだろう。でも自分の人生なのに「自分はそう思わないけど〇〇が言ったからそう決めた」という生き方は果たして本当に自分の人生を生きていると言えるのだろうか?

 

Saigottimo

既に12/24がX'masイブ(前夜祭)ではない事は書いたが、やはりこの時期はヴォーカリストとしてX'masソングも歌いたいし、これは「ヴォーカリスト&朗読家のブログ」だ。そこで私Saigottimoの「歌と朗読によるX'masコンサート」を下記に展開させて戴くことにした。

スタートは「ジングル・ベル」!毎年NHKのX'masのニュース映像のバックに流れているビリー・ヴォ―ン楽団盤で!

 

◉ソロ・ヴォーカルによるX'masソング

1.ザ•クリスマス•ソング(The Christmas Song)

ジャズのX'masソングの定番は、何といっても白人男性随一のjazzシンガーと言われるメル•トーメが1944年に作ったこの曲だろう。この曲が出来た経緯など詳細は既に記事化した通り。

 

♪ザ•クリスマス•ソング(The Christmas Song)♪ by Saigottimo

 

バックのピアノは、下記のYoutubeカラオケです↓

そしてお耳直しはナット・キング・コール↓

 

2.ホワイト・クリスマス(White Christmas)

ポピュラーX'masソング最大のヒットは、アーヴィング•バーリンが1940年に作り、ビング•クロスビーの歌唱でギネス世界記録の歴代売上(彼のシングル盤だけで5千万枚超)を記録したこの曲。

 

♪ホワイト・クリスマス(White Christmas)♪ by Saigottimo

 

この美しいピアノの伴奏は、下記のYoutubeカラオケでした↓

そしてお耳直しは私の大好きなビリー・ヴォーン楽団盤↓

 

 

3.ブルー・クリスマス(Blue Christmas)

デビュー前からなにかとビングを意識していたエルビスは、ビングがWhiteならBlueで行こう!とばかりに、このカントリー界のX'masソングを徴兵前年の1957年にリリースし大ヒットさせました。

 

♪ブルー・クリスマス(Blue Christmas)♪ by Saigottimo

 

このバックの演奏は、下記のYoutubeカラオケです↓

お耳直しはエルビスとマルチナ•マクブライドの合成Duet動画で↓

そして私の大好きなビリー・ヴォーン楽団盤も↓

 

◉朗読による「イエスの誕生」

第1章 生誕 「イエスの誕生」を朗読しました(約4分半)。以前このブログで「ルカ伝の記述では(イエスの生誕は)真冬ではない様子」と書いた根拠もここに記されています。

 

★「ナザレ派のイエス」からイエスの誕生(抜粋)★

 

◉デュエット/トリオ・ヴォーカルによるX'masソング

1.聖夜(きよしこの夜) Duet with 牧かおる

讃美歌からはやっぱりこの曲、1818年にヨゼフ•モールが作詞し(日本語詞は由木康)、フランツ•グルーバーが作曲した讃美歌109番「きよしこの夜」。牧さんの伸びやかな高音に癒されて下さい。

 

♪聖夜(讃美歌109番「きよしこの夜」) ♪2018年11月30日

 都内某スタジオ・・・同年のX'masランチライブの練習音源

 

2.あわてん坊のサンタクロース Trio with joejii&牧かおる

日本のX'masソングからは、吉岡治:作詞/小林亜星:作曲の愉快で可愛いこの曲。聴くと思わず温かい気持ちになるのはピアノ演奏しながら1番を担当したJoejiiの歌唱によるところ大!

 

♪あわてんぼうのサンタクロース♪2018年11月30日

 都内某スタジオ ・・・同年のX'masランチライブの練習音源

 

☆では皆さま、Merry Christmas!

(キリスト教徒ではない方には)Happy Holidays!☆彡

 

Saigottimo

一昨日(12/16)はベートーベンの満250歳の誕生日だったそうだ。私は幸いにも異なる弦楽四重奏団で今月2回もベートーベン•プログラムを聴くことができたが、世界中で予定されていた記念コンサートは軒並み中止となっているようだ。今年は日本の“年末の風物詩”とも言われる「第九」演奏会もどうなることやら...。

 

【左:Quartet Serioso(12/6•加賀町ホール)】

【右:カルテット カオス(12/17•浦安音楽ホール)】 

 

「第九」といえば、玉川学園の音楽祭は小中高大一緒で大学1年生は毎年全員が「第九」の合唱をする。私は中高生の時は聴いていて全くつまらなかったが、大学で何ヶ月もパート別練習をするうちに面白くなって好きになった。自分が演ることで初めて良さが分かる曲もあるという事をベートーベンの「第九」で知った。

 

年末の第九もそうだが、特に日本での評価が高いベートーベン。以前このブログで、クラシック音楽とは“どんな時代にも愛好され、いつまでも残る良い音楽”という大町陽一郎氏の定義を紹介したが、生誕から250年経っても世界中でこれだけ愛好されるベートーベンはまさに“クラシック界のスーパースター”だろう。

 

そしてベートーベンは天才作曲家として数々の名曲を世に残しただけではなく、別の意味で大きな業績を残している。それは社会における音楽家の地位向上である。私も晩年に親交があった作曲家にしてヴァイオリニストの玉木宏樹氏も生前「作曲家という職業を確立したこと」でベートーベンを高く評価していた。

 

ベートーベンより前の音楽家は楽師として宮廷や有力貴族に仕え、彼等をパトロンとして演奏をすることで生計を立てており作曲だけでは独立した経済的価値を生まなかったようだ。ベートーベンは貴族のみに頼らず一般大衆を相手に演奏家とは独立した作曲家という職業を確立した点で以降の音楽界に大きく貢献した。

 

この点では“柔道の父”嘉納治五郎も同様である彼は日本古来の柔術を「柔道」というスポーツに昇華して世界中に普及させ第二次世界大戦前にオリンピック招致の偉業を成し遂げNHK大河ドラマ「いだてん」でもフィーチャーされたが、実は柔道整復師の法制化にも尽力して柔道家に職業選択の道を拓いている。

 

スポーツも音楽などの芸術も、人類にとって素晴らしい価値があることは皆知っている。しかしそれを人々に示し、伝え、享受させるのもやはり人である以上、そうした先導者(トップランナー)や指導者(インストラクター)を育てることはとても大切だ。だから、その人達の生業を確立することはさらに凄い事ではないだろうか。

 

【左:ベートーベン、右:嘉納治五郎】

 

関東大震災後の帝都復興院総裁だった後藤新平は晩年、遺言のように「いいか、後世にカネを残す奴は下だ、事業を残すのは中、ヒトを残すのが上だ」と語ったという。でも1人の人間が直接育てられる人数には限りがある。その点でベートーベンや嘉納治五郎の様に職業の道を拓いた人の貢献度は計り知れない

 

作曲家として芸術作品を生み出す事も尊いが、「作曲」という仕事を一つの職業として確立するという事は全く違った社会的な価値がある。私は一音楽愛好家であると同時に国家資格2級キャリアコンサルティング技能士として、この点でもメモリアル・イヤーにベートーベンはもっと評価されて良いと思う

 

Saigottimo

もしも〜し、このブログを読もうとしている貴方、タイトル誤読してませんか?今まさにX'masシーズン、もしやあの松任谷由美の大ヒット曲の話じゃないか、と思ってたりして…。そういえばまだスマホもLINEもない時代に好きな女の子にラブレターで「僕の変人になって下さい」と書いてフラれたなんて笑い話もありました。

 

私のX'masの想い出としては、もう20年近くも前、町内会の集会所でのクリスマス会」でサンタクロース役を仰せつかったことがあった。今春社会人になった次男がまだ未就学児で、他の子供達と一緒にプレゼントを手渡しても気付かなかったので、ホッとするやらガッカリするやら「ま、そんなもんか」と思ったものだ。

長男の同級生のママが同行してくれたからよかったものの、数百メートルとはいえ休日の白昼にこの格好で住宅街を歩くのはさすがに抵抗があった。幸い小雨模様で通行人も居らず目撃されずに済んだが、もし誰かに見られたら「これがホントの『変人(てか不審者)がサンタクロース』」になっていたに違いない

 

Webで「笑える誤字」などでググると「部外者以外立入禁止」という看板からスーパーのPOPまで「変人」どころではない抱腹絶倒の誤字が出て来て、死ぬほど笑えた。昔と違って最近は誤変換モノが多いが、しばらく眺めても気付かない誤字もある。これは我々の脳の「思い込み」や「先入観」があるからだろう。

 

ま、人は誰しも「思い込み」や「先入観」があるものだが、それが知らぬ間に自身の能力や可能性を奪っているとしたら問題だろう。心理学の実験で、24個の単語が並んだリストを見せ、その後に別の単語リストから「先ほどのリストにあった単語をすべて挙げて下さい」というテストを2つのグループに分けて行ったという。

 

グループAには「これから心理テストを行います」と説明し、グループBには「これから暗記テストを行います」と説明したところ、グループAでは若者も高齢者も正答率に差がなかったのに、グループBでは高齢者だけ正答率がAの半分!人は「歳をとると記憶力が落ちる」と信じている(「思い込み」「先入観」)かららしい。

 

【クイズ形式で楽しい心理学】

 

これは行動科学や心理学の世界では「プライミング効果」と呼ばれ、消費者の購買行動分析や広告プロモーションなどマーケティングの世界では広く知られている理論だという。私はたまたま講演を聴いた池谷裕二氏の著書「ココロの盲点」で知った。この本には目から鱗のエピソードがクイズ形式で目白押しなのでお薦めだ。

 

これから年末年始。GO TOキャンペーンも停止になって旅行や帰省もままならない中で歌番組やグルメ番組ばかりのTVを観て太っちゃいそうだと心配でしょ?この手の本を図書館から借りて「ここで、問題です!」と家族とワイワイ盛り上がるというのも、お金のかからない楽しみ方ではないかと思うのですがいかがでしょう。

 

♪あわてんぼうのサンタクロース♪2018年11月30日 都内某スタジオ with joejii&牧かおる・・・同年のX'masランチライブの練習音源

【え、逃げて来ちゃったの?】

Saigottimo

コロナ禍の第三波襲来により、今年はクリスマスも年末の帰省も大晦日もお正月も大幅に自粛ムードになりそうだ。例に漏れずヴォーカリストの私も例年ならこの時期、X'masライブやセッションに参加してX'masソングを何曲か歌っている頃だが、残念ながら今年は歌えそうにないので、思いの丈をこのブログに書く。

 

「X'masは12/25、前日(12/24)の夜がX'masイブ」。これはもはや日本人の常識といえるだろう。だって「イブ」は前夜祭などを指すから大晦日をニューイヤーズ•イブと称してパーティ等で盛り上がったりするしね。でも違うのだ!12/24はX'masイブ(前夜)ではない。えー、そうなの?と、心の中で密かに驚いている貴方!

 

今こそ全ての日本国民に問います。X'masがいつなのかも知らずに「あー12月のジャム•セッションまでに新しいX'masソングを仕込まなきゃ」等とほざいているヴォーカリストの何と多い事か。そんなことでは、チコちゃんに叱られますよ!でも、チコちゃんは知っています・・・かどうか分かりませんがぁ

NHKの公式番組ページから】

 

イエスが生まれた2千年前のユダヤなど砂漠の民は“1日の終わりは日没”、つまり24日の日没時から25日が始まる。従って24日の夜はイブ(前夜)ではなくX'mas当日なのだ(*)。讃美歌106番「あらののはてに」の歌詞は「荒野の果てに夕陽は落ちて妙なる調べ天より響くグローリア!」ね、日没からX'masが始まるでしょ?

(*:イブはEveningの略なので当日の夜をX'masイブと言うのはアリ)

 

さらに言うと、12/25はキリストの誕生日でもない。え、まさか?と思うかもしれないがイエスの誕生日は月日どころか年すら特定できてない。赤道近辺は常夏とはいえルカ伝の記述では真冬ではない様子。では何故12/25かというとローマ帝国がキリスト教を国教にした際“既存の冬至の祭りを降誕祭にしたから”だ。


「お前、そんなこと書いてキリスト教徒に怒られないか?」との心配はご無用。これらは本家本元、キリスト教会の公式Webにもwikiにも記載の公知の事実なのである。驚くべきは“そんな公知の事実を殆どの日本人が知らない事”の方だ。それほど日本の学校教育では宗教に触れる事をタブー視しているのだろう。

 

でも宗教抜きでは国際情勢のニュースが理解できるか怪しい。勿論、経済(おカネ)は世界的な共通言語ではあるし文化的な背景も重要だが宗教(信仰)はある意味命より大事にされるから経済や文化の奥にある宗教的背景を全く理解していないと海外の映画作品だって本当に理解できているとは言い難い


う~ん、これではマズイな」と思った方にお薦めなのは、宗教社会学者の橋爪大三郎氏の本。例えば「世界がわかる宗教社会学入門」などは文庫化もされているし、図書館で無料で借りることもできるだろう。これらを読むと、宗教についての基礎知識がない我々でも世界の宗教事情が分かるように易しく書かれている。

そして私の中学一年の担任でもあった恩師、故・前島誠先生の「ナザレ派のイエス」もお薦めしたい。先生は愛する女性と結婚するために命懸けでカトリックの神父を辞して教師になった変わり種。日本においてはユダヤ教の権威として数々の著作をものし、晩年には前出の橋爪氏にもインタビューを受けたそうだ。

 

旧教(カトリック)は神父、新教(プロテスタント)は牧師だが、神父は飲酒可で妻帯不可、牧師は飲酒不可で妻帯可。これを前島流に「酒か女かどっちかダメなんだ」と教えて下さった。「俺がもしイエスに会えたら『先生イッパイやりましょう!』って誘って一緒に呑みてえんだ」と語った時の先生の嬉しそうな顔が忘れられない。拝。

 

♪聖夜(讃美歌109番「きよしこの夜」) ♪2018年11月30日 都内某スタジオ with 牧かおる・・・同年のX'masランチライブの練習音源

 

Saigottimo

前回このブログで「フール・サッチ・アズ・アイ(A Fool Such as I)」というカントリーの曲を採り上げた際「米国の(魂の音楽といわれる)カントリーと日本の(魂の音楽ともいえる)演歌の対比は両国の文化や気質にも関連して興味深いので稿を改めて詳述する」とお約束したので、忘れないうちにここで果たしておきたい。

 

「こんな女に誰がした」とは演歌によく出て来そうなフレーズだ。時代が変わったとはいえ、未だ“男尊女卑”社会といわれる日本における魂の音楽、演歌のメインテーマは「男に尽くして翻弄される“女の恨み節”」である。では、その“男尊女卑”と対極を成す“レディーファースト”の国、米国はどうかというと?


これが全く笑っちゃうくらい真逆!米国における魂の音楽、カントリーのメインテーマは、なんと「女に尽くして翻弄される“男の恨み節”」なのだ。そしてその典型的な例は、エディ・アーノルドの「I Really Don't Want to Know」(1953年)と、それを原曲として菅原洋一の歌で1967年に日本で大ヒットした「知りたくないの」である。

【左:菅原洋一、右:エディ•アーノルド】

 

「知りたくないの」は演歌ではなく歌謡曲だが、歌詞は、なかにし礼によるもので、歌詞サイトにある通り「(私は)あなたの過去(の女性遍歴)など知りたくないの」で始まり「早く昔の恋は、忘れてほしいの」という健気な女の心情を綴っている。では米国のカントリーの原曲の歌詞はどうだったかというと・・・

 

タイトルは「I Really Don't Want to Know」で全く同じ意味だが、歌詞は男女がひっくり返って男の心情を生々しく歌っている。例によって原詞は専門の歌詞サイトに譲るが、翻訳Webを駆使したナンチャッテ和訳でご紹介すると...。

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「知りたくないの(I Really Don't Want to Know)」

作詞:Hバーンズ、作曲:R.ロバートソン

訳詞:Saigottimo

 

何本の腕が君を抱き締めて放そうとしなかったか、

何本の腕が?ああ僕は本当に知りたくない

いくつの唇が君とキスをして心をときめかせたか、

いくつの唇が?ああ僕は本当に知りたくない

 

僕はいつも、どうしても知りたくなってしまう

だけど、どうか僕が聞いても教えないで欲しい

僕は君の事を愛しているんだよ、だからどうか

僕が聞いても秘密のままにしておいて欲しい

だって、僕は本当に本当に知りたくないんだ

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原曲の歌詞をこうして和訳してみると、単純に男女をひっくり返しただけではないなかにし礼の日本語詞が如何によく出来ているか分かる。「君が何人の男とキスしたかなんて僕は知りたくない!」と自分に言い聞かせないとやってられないくらい知りたいんだろうなー、うん、分かる気がする。

 

私は“人は見た目と逆”だと思っている。例えば“愛想の悪い奴に悪人は居ない”というのも私の持論で、他人に対して悪い事をしようと企んでいる奴は、それを隠すために必ず他人に愛想良くするはずだからである。よく言われる“弱い犬ほどよく吠える”のも、弱者は自分が弱いことを隠すために強がるからであろう。

 

昔、ビートたけしが言っていたが、女性に面と向かって「ネエちゃん、良いケツしてるなあ」とあからさまに言う輩は最も安全。何故なら『もう自分にはチャンスがない』と諦めてるからその場でクチエッチしちゃうのであり「まだ何とかなるかも」と思ってる奴ほど紳士然と振る舞うから危険だと。これはまさに男として納得だ。

 

つまり表面上“男尊女卑”の日本で、実際に強いのは女であり、その傾向が強い地域(“九州男児”とか)ほど実権は女が握っている。逆に表面上“レディーファースト”にしている米国は、開拓時代の残滓か実権を握っているのは男であり、両方ともその負い目ゆえ、表面上は実態と逆を装っているように思えるのだ。

 

そしてそのそれぞれの社会における”魂の音楽”は、その社会で強くあらねばならない者の苦しさからの弱音や愚痴、恨み節になる、ということかも知れない。

 

Saigottimo

“自虐ネタ”というものは古今東西あるものらしい。私がレパートリーにもしている「フール•サッチ•アズ•アイ(A Fool Such as I)」という曲もその一つ。直訳すると「私のような愚か者」、正式な曲名は「(Now and Then There's) A Fool Such as I」だから「ときどき、俺みたいなバカが居るんだよね」といったところだろうか。

 

私がこの曲を知ったのは、例によって大好きなビリー•ヴォーン楽団の演奏バージョンだったので、どんな歌詞かも、その意味も全く知らなかった。でもヴォーカリストとして、“歌う一人ビリー•ヴォーン楽団”を標榜している私は、ただただこの美しいメロディに魅せられて「この曲を歌いたい」と思ったのである。
 

最初に譜面を探したが、ジャズのスタンダードではないので「スタンダードジャズのすべて(通称:赤本/青本)」にはなく、ポップスとしてもそれほどメジャーではないせいか「永遠のポップス」にも無い。探していったら「1001(通称:センイチ)」と呼ばれる曲集に載っていることが分かり、ようやく入手することができた。

 

次は歌詞の意味である。例によって原詞は専門の歌詞サイトに譲るとして、その内容をナンチャッテ和訳してご紹介するとこうなる。

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「フール•サッチ•アズ•アイ」

作詞•作曲:ビル•トレイダー

 

別れ言葉に僕が感傷的になっても許してね

別れに際に僕が泣いてもどうか怒らないで

君が去り時が過ぎても僕はまだ夢を見るよ

きっと君との夢を少しだけ見ているだろう

 

ときどき、僕のようなバカがいるんだよね
愛を教えてくれた君がもう終わりだと言う

僕はバカ、きっと死ぬまで君を愛すだろう
ときどき、僕のようなバカがいるんだよね

 

訳詞:Saigottimo
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なんとまあ未練タラしくもウジウジした男の泣き言の連発!これを今の日本女性が別れ話をしたカフェとかで聞こうものなら「もう終わりよって言ってんだろがっ、このボケ!」と、コップの水でもぶっかけられそうだ。調べると、この曲はカントリーの大御所、ハンク•スノウのナンバー(1952年)だった

カントリーといえば雄々しいカウボーイ姿で歌ったりするのに、こんなメメしい歌詞なのかと驚くが、カントリーは米国の魂の音楽だから日本だと演歌かな?この両者の対比は文化や気質にも関連して興味深いので稿を改めて詳述するとして、う~ん、ちょっとこのカントリーの2beatでは歌いにくいなぁ...。

 

と思っていたら、若い頃はカントリーを中心に歌っていたプレスリーが1959年に全米2位にしていた。これは全然テイストが違ってカントリーというよりもロックンロールだが、ビリー•ヴォーン楽団盤のロカ•バラードのリズム、つまり三連(4拍×三連符=12beat/小節)にすれば、うん、何とか歌えそうだ、とレパートリーにした。

昔も今も米国ポピュラー界の王道はカントリーだから、日本で“歌がヘタな演歌歌手”があり得ない様に米国では“歌が下手なカントリー・シンガー”は存在できないだろう。だから後に黒人のR&Bと白人のカントリーを融合させたロックンロールを確立したプレスリーも、当初はカントリー界で実力を示していったのだ。

 
 

【左:ハンク•スノウ、右:エルビス•プレスリー】

 

てことは今の日本に置き換えると、演歌界で実力を示して他の分野に羽ばたく...あ、氷川きよし?彼は当然、下手じゃないし、演歌界のプリンス”と称されるなど、オバ様方等ファン層をがっちり獲得した上で、今はアニソンなど新たな境地を開拓しようとしている。うん、もしかしたらこのあと、プレスリーみたいに化けるかもよ?

 

Saigottimo