前回このブログで「フール・サッチ・アズ・アイ(A Fool Such as I)」というカントリーの曲を採り上げた際「米国の(魂の音楽といわれる)カントリーと日本の(魂の音楽ともいえる)演歌の対比は両国の文化や気質にも関連して興味深いので稿を改めて詳述する」とお約束したので、忘れないうちにここで果たしておきたい。

 

「こんな女に誰がした」とは演歌によく出て来そうなフレーズだ。時代が変わったとはいえ、未だ“男尊女卑”社会といわれる日本における魂の音楽、演歌のメインテーマは「男に尽くして翻弄される“女の恨み節”」である。では、その“男尊女卑”と対極を成す“レディーファースト”の国、米国はどうかというと?


これが全く笑っちゃうくらい真逆!米国における魂の音楽、カントリーのメインテーマは、なんと「女に尽くして翻弄される“男の恨み節”」なのだ。そしてその典型的な例は、エディ・アーノルドの「I Really Don't Want to Know」(1953年)と、それを原曲として菅原洋一の歌で1967年に日本で大ヒットした「知りたくないの」である。

【左:菅原洋一、右:エディ•アーノルド】

 

「知りたくないの」は演歌ではなく歌謡曲だが、歌詞は、なかにし礼によるもので、歌詞サイトにある通り「(私は)あなたの過去(の女性遍歴)など知りたくないの」で始まり「早く昔の恋は、忘れてほしいの」という健気な女の心情を綴っている。では米国のカントリーの原曲の歌詞はどうだったかというと・・・

 

タイトルは「I Really Don't Want to Know」で全く同じ意味だが、歌詞は男女がひっくり返って男の心情を生々しく歌っている。例によって原詞は専門の歌詞サイトに譲るが、翻訳Webを駆使したナンチャッテ和訳でご紹介すると...。

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「知りたくないの(I Really Don't Want to Know)」

作詞:Hバーンズ、作曲:R.ロバートソン

訳詞:Saigottimo

 

何本の腕が君を抱き締めて放そうとしなかったか、

何本の腕が?ああ僕は本当に知りたくない

いくつの唇が君とキスをして心をときめかせたか、

いくつの唇が?ああ僕は本当に知りたくない

 

僕はいつも、どうしても知りたくなってしまう

だけど、どうか僕が聞いても教えないで欲しい

僕は君の事を愛しているんだよ、だからどうか

僕が聞いても秘密のままにしておいて欲しい

だって、僕は本当に本当に知りたくないんだ

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原曲の歌詞をこうして和訳してみると、単純に男女をひっくり返しただけではないなかにし礼の日本語詞が如何によく出来ているか分かる。「君が何人の男とキスしたかなんて僕は知りたくない!」と自分に言い聞かせないとやってられないくらい知りたいんだろうなー、うん、分かる気がする。

 

私は“人は見た目と逆”だと思っている。例えば“愛想の悪い奴に悪人は居ない”というのも私の持論で、他人に対して悪い事をしようと企んでいる奴は、それを隠すために必ず他人に愛想良くするはずだからである。よく言われる“弱い犬ほどよく吠える”のも、弱者は自分が弱いことを隠すために強がるからであろう。

 

昔、ビートたけしが言っていたが、女性に面と向かって「ネエちゃん、良いケツしてるなあ」とあからさまに言う輩は最も安全。何故なら『もう自分にはチャンスがない』と諦めてるからその場でクチエッチしちゃうのであり「まだ何とかなるかも」と思ってる奴ほど紳士然と振る舞うから危険だと。これはまさに男として納得だ。

 

つまり表面上“男尊女卑”の日本で、実際に強いのは女であり、その傾向が強い地域(“九州男児”とか)ほど実権は女が握っている。逆に表面上“レディーファースト”にしている米国は、開拓時代の残滓か実権を握っているのは男であり、両方ともその負い目ゆえ、表面上は実態と逆を装っているように思えるのだ。

 

そしてそのそれぞれの社会における”魂の音楽”は、その社会で強くあらねばならない者の苦しさからの弱音や愚痴、恨み節になる、ということかも知れない。

 

Saigottimo