世界中がコロナ禍で翻弄された2020年も既に師走である。12月に入った途端「解禁!」とばかりにジャズ•ヴォーカリストはクリソン(クリスマス•ソング)を競って歌い出す。欧米なら年末年始休暇中は1月でもクリスマス•シーズンだが日本は12/25まで。なので、どんなにたくさん名曲があってもこの1ヶ月弱しか歌えないからだ。

 

実際にはX'マスと関係はないがクリソン同様にこのシーズンによく聴く曲に「星に願いを(When You Wish Upon A Star)」がある。ディズニーランドのイメージもあると思うがそれもそのはず、この曲は1940年(昭和15年)のディズニー長編アニメ映画「ピノキオ」の主題歌として作られ同年のアカデミー歌曲賞も受賞している。

 

つまりこの曲は、クリソンを自分のレパートリーに持ってないヴォーカリストがX'マスシーズンに歌える曲というだけでなく、映画音楽特集でもOK、ディズ二―・ソングなので子供向けやファミリー向けでもOK、そして誰でも知ってるスタンダードとして(本来X'マスとは関係ないから)真夏に歌ってもOK、という実に便利な曲なのだ

私もレパートリーにしているが毎回歌う際に「願い」が単数か複数かで迷うのだ。もし「願い」が複数ある(Dreams)なら、When you wish upon a star your dreams come true. だし、単数(Dream)なら、動詞のcomeに「三単現(三人称/単数/現在形)のs」が付いて、When you wish upon a star your dream comes true. となる。

 

普通に考えれば、人間は複数の夢を持っているだろう。初詣でも「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」など複数の「願い」をかけるから複数形で歌うのが自然な気もするが、“恋する乙女”のように「今はただ彼との恋が成就しますように」と一つの願いだけを抱いている時なら、単数形で歌うのもアリ、な気もする。

 

星にかける「願い」が単数か複数か、つまりDreamとcomeのどちらに「s」を付けて歌うか、迷いながら歌い始めた挙句、どちらにも「s」を付けなかったり両方に付けてしまったりすると、英語で歌っている以上、恥ずかしい。もし迷うのが嫌な人は日本語詞で歌えば「願い」となってどっちともとれ、「s」の呪縛から解放されるが…。

 

こうした悩みを持つのも歌詞を操るヴォーカリストならではのことで、楽器のミュージシャンは全く考える必要もないし、こんなことで悩むなんて考えられないだろう。ということで、様々なアーチストの演奏の中でも歌入りバージョンに絞って、有名なヴォーカリスト達がどのように考え、歌っているのかを参考にしてみたい。

 

これだけ有名なスタンダードなので様々なアーチストが歌っているが、いったいどっちで歌っているかというと?サッチモことルイ•アームストロングは複数、ジュリー•アンドリュースは単数、ロッド•スチュアートは複数、ペリー•コモは単数、マイケル•ジャクソンは複数、リンダ•ロンシュタットは単数、ビリー•ジョエルは複数…。

う~ん、こうなったらやはり本家本元である映画「ピノキオ」がどうだったのかである。ピノキオは「人間になりたい」という1つの夢を持ってたから単数だろう。オリジナル・サウンドトラックでジミニ―(コオロギ)役のクリフ•エドワーズは…え?マジか!複数だ!

おいおい、ピノキオ、お前、ちょっと欲深過ぎないか?

 

♪When You Wish Upon A Star Duet with 牧かおる 2019年12月6日・渋谷「SEABIRD」にて♪・・・1コーラスのみでリフレインして(リタルダンドせずに)終わるはず(譜面)だったのに…(この時は「単数形」)。

 

Saigottimo

ジャズヴォーカルを始める場合、女性は男性と違って「移調(による譜面の書き換え)」というハンデがある。大抵のスタンダードは作曲者が男性だからかオリ譜(オリジナル譜面)が男声音域で書かれているので男性はそのまま使えるが、女性はオリ譜を女声音域に「移調(音階を何度か上げるか下げるか)」しないと使えない。

 

最近は女声用に移調したスタンダード曲集のような売譜(市販の楽譜)もあるし、キーの移調も簡単に出来るスマホアプリもある。とはいえ、やはり曲数は限られているので「この曲を歌いたい」と思っても、メジャーでない曲は女声キー用売譜にもないし、アプリのライブラリにもない。今回ご紹介するのもそういう曲だ。

 

ユー・ドント・ノー・ミー(You Don't Know Me)」はレイ・チャールズ1962年全米2位エルビス・プレスリー1968年全米44位のカントリー系スタンダード。私は“音楽の達人”から「きっと貴方に合う」と、なんと!手書きの譜面を頂戴した。以前「他人から勧められる歌は経験的にほぼ間違いがない」と書いたが、今回もそうだった。

それにしても、私が敬愛する“音楽の達人”は(日頃から私の歌は聴いていたとしても)、けっしてメジャーではないこの曲を、私に合う曲としてどういうきっかけで見つけたんだろう?と疑問に思ったので直接聞いてみたところ「知人女性に頼まれてマイケル・ブーブレの音源から譜面を起こした」のだという。

ブーブレはスタンダードを意欲的に歌うカナダの中堅男性歌手で甘い歌唱が魅力的だ。ん、女性?ということは、まず(男性歌手の)ブーブレの音源から起こした(男声キーの)譜面を、女声用に「移調」したはず。そっか、その「移調」後の譜面を知人に渡すと残る、最初の(男声キーの)譜面を(男性の)私にくれたワケね。

 

ま、でも経緯はどうであれ、結果としてこの曲は私にピッタリだったので“音楽の達人”さんには大感謝である。だって、あの讃美歌496番だって米国人に勧められたあの曲だって、“音楽の達人”さんのお陰で譜面にすることが出来、私のレパートリーになったんだから。私にとって“音楽の達人”さんの存在は非常に得難いのだ。

 

原詞はいつものように歌詞サイトに譲るが、自動翻訳を駆使して私なりにナンチャッテ和訳をすると、こんな内容だ。

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貴方は私に手を差し出し「ハロー」と言う
私は心臓がドキドキ、話すことすら難しい

貴方は日頃から私の事をよく知っている

誰にでもそう言っているらしいけれど、

でも、貴方は私のことを知らない


毎晩、貴方の夢を見て、キスすることを

切望し抱きしめたがっている人の存在を

貴方は知らない。貴方にとって私は友達、
でも、これが今まで私が思ってきたこと
そう、貴方は私のことを知らない

貴方への愛で、どんなに心を痛めても

私はそれを成就させる術を知らなかった

怖いし恥ずかしいから私は望みを諦める
望みとはいつか貴方も私を愛してくれること

貴方は私に手を振って「またね」と言い、

貴方と一緒に居られる幸運な人と立ち去る
私はその後ろ姿を見送るだけ

貴方はおそらく永遠に貴方を愛するその

人の存在を知ることはないだろう
ああ、貴方は私のことを知らない
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自分が愛している相手は、自分の事を友達としか思っていない。だから「貴方は(本当は貴方を愛してる)私のことを知らない」という歌なのだ。まー、古今東西を問わず“男女間あるある”なのかも知れないが実にやりきれない、なんとも切ない歌詞である。

 

この曲、レイ・チャールズはソロで歌っているほか、ダイアナ・クラールと男女で「デュエット」もしている。といってもほぼ交互に歌っているので「掛け合い」に近い。一緒に歌う部分もハーモニー(和音)ではなくユニゾン(同じ旋律)なので比較的易しいため、「True Love」と共に大津晃子さんとのデュエットネタにしている。

因みに、このデュエットは男声女声のどっち側のキーかというと、ダイアナ・クラールがレイ・チャールズのキーに合わせている。「女性ヴォーカリストはデュエット時にキーを半音1個たりとも譲ってくれない」というイメージがあるが、ダイアナは声域が広くて低い声も出るから、きっとレイに合わせることが出来たのだろう。

 

♪You Don't Know Me with Catswing 2017年4月7日 渋谷「SEABIRD」一金ライブにて♪…大津晃子さんとのデュエット

 

Saigottimo

ライブステージにおいて曲紹介をしたりメンバー紹介をすることを「MC(エム・シー)」という。このMC、ヴォーカリスト以外のミュージシャンは嫌いというか苦手な人が多い。マイクを使い慣れてないからか演奏に専念したいからか、余りやりたがらないのだ。一方で、逆にMCでやたらベラベラとムダに喋りたがる輩もいる。

 

「MCしないのもダメ、喋り過ぎてもダメ?じゃ一体どうすればいいの?」と思った人は“HowTo病”だ。どうすればいいか(HowTo)は、それが何(What)で理由(Why)は何かを考えれば自ずと分かる。これ(What)はステージパフォーマンスだから、MCをする理由(Why)は「お客様のステージへのニーズに応えるため」である。

 

 

ステージパフォーマンスで最も大事な「お客様」が、もし事前に某交響曲を演奏すると分かっているなら、ステージでは全くMCなど不要で全楽章を次々演奏すればいい。でもそうではないならお客様も演奏してる曲目くらいは知りたいだろう。CDにはMCは入ってないがジャケットやライナーノートには曲目一覧があるはずだ。

 

もしファンの集会なら聴衆全員がその演者に触れたいので、歌や演奏のみならずMCで近況や内輪話を喋るのもお客様のニーズに合っているが、そういう場でなければNGだ。お客様の耳に入れる意味ある情報がないなら無音の方がマシであり、演奏準備のための“間つなぎ”とか“賑やかし“のMC等はお客様に失礼だ。

 

TV番組や各種イベントの司会進行役を指す「MC」の語源は、Master of Ceremony(式典の主人、司式者)。「皆さんこんにちは」という挨拶ひとつでもMCの語調や表情で雰囲気は全く変わってくる。本当はその語源の通り、MCは場の空気を支配する重要な役割なのだが一般的にはそんな認識は余りないようだ。

 

私は仕事で広報業務を長く担当したので、MC経験は日常的にあった。メディアからの個別取材や記者会見、都内のホテルで50人を超える証券市場関係者&メディア関係者を招いて経営陣がプレゼンする決算説明会のMCも嫌と言うほど担当し、散々鍛えられた。だから大勢の人前で話す事になっても緊張はしない。

 

よく「お前は人前で話すのが得意だからいいよなぁ」等と言われるが、その恐さも自分の能力の限界も知っている。だからどんな短い発言機会でも事前に聴衆の数や属性を確認し自分が話す内容を原稿にし音読し時間を計る。「私は人前で話すのが下手でね」という奴に限ってそういう準備を何もせずにグダグダになる。

 

ステージ上で歌モノは1曲せいぜい3~5分だがMCも最低1~2分はかかる。歌は散々練習し、出来も気にする癖にMCは準備も練習もしないのは何故だろう。「たった1、2分だから」と思っているなら勘違いも甚だしい。時間が短かいほど準備や原稿が必要だ。何の準備もしないから余計な言葉も多くなり時間も浪費する。

 

私にとってMCの師匠は音楽仲間の大津晃子さんだ。彼女は「自分は何故この曲が好きなのか、どんな想いで歌うのかはMCで伝えられるし伝えるべきだと思う」と教えてくれた。「ジャズ詩大全」の様な専門的な曲解説や和訳等ではなく、アマチュアこそ“自分がこの曲を歌う理由“をMCで話すべきだと常々心している。

 

歌い終わってステージを降りる際に「いやあ、MC、さすが上手いねえ!」と褒められることがたまにある。まあ、何にせよ褒められるのは嬉しいことではあるが、私の場合、MCは本業で散々経験し生意気を言えば上手くて当り前なので、こう応えることにしている。「ありがとー!・・・で、歌は?」

 

Saigottimo

私がホームグラウンドのように出演させてもらっているジャズ•スポットの渋谷•SEABIRDはライブ演奏時もノー・チャージなのでレギュラーメンバーは皆アマチュア•ミュージシャンである。年齢も様々、職業も会社員から大学教授、自営業者など様々だが、皆ジャズが音楽が演奏が「好き」、文字通り「同好の志」が集っている。

 

プロのミュージシャンなら、好きじゃない曲でも意に沿わないメンバーとでも「仕事だから」あるいは「生活のため」に演ることはあるだろう。でもアマチュア•ミュージシャンは「仕事だから」とか「生活のため」という事情はなく純粋に「好きだから」という動機しかない。そこがプロとアマチュアの一番の大きな違いではなかろうか。

 

「南国土佐を後にして」「学生時代」などのヒット曲で知られるペギー葉山は洋楽が大好きで、第5回紅白歌合戦ではディーン•マーチンの「In The Chapel In The Moonlight(月光のチャペル)」等も歌っている。しかしどこに行っても「『南国~』を歌って!」と言われ、嫌だったものの結局プロとしてファンの期待に応えたという

 

 

プロとは、自分が好きであろうがなかろうが「お客様のために」歌う(だからお客様からフィーをもらえて仕事になる)もの。一方、アマチュアは仕事ではなく好きだから、つまり「自分のために」歌うのだから、私はアマチュアである以上は「お客様が好きな曲」ではなく「自分が好きな曲」を歌うべきだと思っている。


たまに「私もヴォーカルを始めたいのですが、まずどんな曲を歌えば良いでしょうか?」等と聞かれ困惑する。本人は初心者向けのカリキュラムとして知りたいのだろうが、お稽古事の発表会ならともかく、そんな歌を聴かされる店の客こそ“良い面の皮”だ。私は「歌いたい曲がないなら歌わなきゃいいのに」と思ってしまう。

 

「自分は感動せずに聴衆を感動させる」のがプロだとしたら「自分が感動して聴衆も感動させる」のが上級アマチュアで「自分は感動するが聴衆は感動しない」のがトホホなアマチュアだろう。いずれにせよアマチュアである以上は自分が好きな曲を歌い、少なくとも自分が感動しないなら聴衆の前で歌うべきではなかろう。

 

こうした私の考えに、やはりアマチュア•ミュージシャンである音楽仲間の一人は「私も自分の好きなように音楽を楽しんでいます♪自分の表現を披露し共感してもらうためにお金をもらわないと生活していけないのがプロ。お金をもらわなくても自分の演奏を聴いてもらえるのが一番幸せですね!」と呼応してくれた。

 

芸事でもスポーツでも自分が好きな事を職業にできるのはごく限られた人なのでプロへの憧れや尊敬はある。でも上記の音楽仲間の様に職業とせずに好きな事をアマチュアとして続けられる事は幸せだと思うし先の記事の様に「一番好きな事を職業にしない」という選択もあるアマチュアである事に感謝と誇りを持ちたい。

 

Saigottimo

以前このブログでも紹介したが、学園祭の講演で世界的に有名な指揮者の山本直純氏が「皆さんは合唱やブラバン等で音楽を楽しんでいて実に羨ましい。私は一番好きな音楽を職業にしたので心から楽しめない。皆さんは二番目に好きな事を職業にして下さい」と語った。私はそんな人は実際に居ないと思っていたが…

 

新卒採用業務をしていた頃、私は学生さんに「記憶の限り小さい頃、何になりたかったですか?」と必ず質問した。そしてそれが歳と共にどう変遷して現在に至るかを聞くことで職業観を探るのだが、その回答で驚かされた学生さんがいた。彼は幼い頃「パイロットになって大空を自由に飛びたい」と思っていたらしい。

 

それが高校でも大学でもグライダー部で毎週末飛び続け、そのまま現在に至ると言う。「え、ではなぜパイロットに応募しないの?」と聞くと「それが・・・グライダーに出会った事でパイロットはもういいかな、と」「え、どういうこと?」聞けばグライダー仲間は老若男女様々で、なかにはプロのパイロットまで居るというのだ。

 

グライダー仲間のプロパイロット氏曰く、自分も「パイロットになって大空を自由に飛びたい」と思ったが実際には決まった時刻に決まった航路しか飛べず「パイロットは自由に大空を飛べない」事が分かったので週末グライダーに乗りに来るという。自分は既にグライダーに乗れるので、プロのパイロットになる必要はない、と。

 

「うーん」と私は唸った。なるほど!職業観として筋は通っている。自分が幼い頃から憧れていた一番好きな事(大空を自由に飛ぶ事)は職業にしなくても、いやむしろプロのパイロットになるよりも毎週末グライダーに乗る事で実現出来るのだ。まさに山本直純氏が言ったように「一番好きな事を職業にしない」ケースがあった。

 

 

数々の賞を取った「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一/講談社現代新書/2007)は、著者のポスドク時代を綴ったエッセイだが、その中でニューヨークの研究室で働くスティーブ・ラフォージという奇妙な男が出てくる。彼は研究者として成功するに充分な資質も経験もありながら実験専門員という地味なスタッフに徹しているのだ。

 

ある日著者は偶然、彼がNYのソーホー地区で有名なセッション・ピアニストだと知る。著者のボスが出世して研究室ごとボストンに栄転が決まるがスティーブは「NYを離れることは考えられない」と引っ越さずにNYで同じ仕事を続ける。彼は山本氏の言う通り「一番好きな事(音楽)」ではなく二番目(?)を職業にしていたのだ

 

私は音楽に限らず「自分が一番好きな事」を職業に出来るのが最高だと思っていたし事実そういう人もいる。一方で山本氏が学生の我々にアドバイスしたように、敢えて「一番好きな事を職業にしない」という生き方も実際にはあることを上記の本や体験で知った。人生はいろいろ、人それぞれ、なのかも知れない。

 

確かに上記のスティーブのようにピアニストを職業にしなければ契約や生活のために意に添わない音楽や演奏スタイルを強いられることはない。自分が演りたい音楽を演りたいように演る。彼のようなミュージシャンをアマチュアと呼んでいいかどうか迷うが、少なくともプロじゃない分だけ自由だとは言えるだろう。


Saigottimo

私はウォーキングは万歩計で歩数目標を決めて達成を目指す一方で、ゴルフはスコアを付けないことを推奨している。では、ステージパフォーマーとして歌や朗読をする際、自らのパフォーマンスを録音したり録画して後から振り返るのか、またそうすべきなのか、というのが本記事のタイトルとなっている問いかけである。

私の答えは明白にYes!であり、可能な限り録音や録画をして振り返る事にしているし、誰しもそうすべきだと考えている。何故なら、そのパフォーマンスをお客様に聴かせ、その姿をステージで晒しているからだ。思い出したくないほど酷い出来だったとしてもお客様に見せておいて自分だけ耳目を塞ぐのは無責任極まりない

 

 

ウォーキングで「目標」歩数を設定するのは「目的=健康」でその実現に向けて歩くための有効な「手段」だからであり、私がゴルフでスコアを付けないのは歌や朗読と同様「目的=楽しむ事」で上達は目的ではないからだ。ならば歌や朗読もゴルフ同様に楽しければ良いから上達のための録音や録画は不要ではないか?

 

その通り。自分の上達のための録音や録画(やその振り返り)は不要なのだが「上達のため」ではなく、お客様に晒しているパフォーマンスをしっかり「自ら認識するため」に必要なのだ。それを自分で振り返った結果「これじゃ恥ずかしくてダメ」とプライドが許さないなら許せる状態になるまでステージに立つべきではない。

 

プロから素人までレベルに関係なく、ステージパフォーマーにとって自らのパフォーマンスを録音や録画で振り返るのはとても辛く苦行である事が多い。でも、それをお客様に晒しているという現実はしっかり直視すべきであり、その上でお客様(や共演者)に感謝して続けるのか、ステージパフォーマンスをやめるのか、である。

 

録音や録画で振り返ると大抵の場合は「酷い」と感じるはずだ。何故なら日常的に見聞きしているパフォーマンスはプロのレベルであり、それと自分のパフォーマンスを比較してしまうからだ。もし自分のパフォーマンスがプロレベルなら「酷い」とは思わないだろうが、私などは当然、「やっぱ、ヘタだなー」と毎回自覚させられる

 

「こんなにヘタでゴメンナサイ」と心の中で詫び、聴いて(観て)下さるお客様や一緒に演じて下さる共演者に感謝しつつ、それでも歌も朗読も“自分が楽しむために続けたい”と思っているのだから本当に図々しいことこの上ない。それを自覚し、自覚し続けるために録音録画をして振り返り続けるべきだとすら思っている。

 

その一方、ステージでは「私はプロじゃないんで~、今回が初演なんで~、ヘタなんですけど~」等の言い訳は一切無用!と心している。これは私をステージに導いてくれたSEABIRD一金ライブ初代バンマス和田氏の薫陶「ステージではプロもアマもないよ」からである。判断するのはお客様、演者は黙ってベストを尽くせばよい。

 

上記の覚悟の下に、自らのパフォーマンスを振り返って来て気付いた事がある。それは「今回は最悪だ~」と思った時の録音を嫌々聴くと意外とそれほど酷くないのだ。一方で「今日は良かったぞ!」と思った時の録音を聴くと、これまた思ったほど良くないのだ。やはり演じている側の感触は主観的だからなのだろう。

 

ギャラリーが居るプロのアスリートは別として、我々がするゴルフやジョギングは自分が上達したり楽しんだりすればいいだけだが、ステージパフォーマンスは「お客様がいてナンボ」である。自分自身が演者として主観的にどう感じようが、お客様の視点で客観的に振り返るには、やはり録音や録画は有効なのだと私は思う。

 

Saigottimo

私は日々のウォーキング以外の運動としては週1回テニススクールに通っているが、ゴルフは基本的に仕事の付き合い程度しかしない。稀にプライベートでゴルフをする場合、最近はスコアをつけずにラウンドすることにしている。これが実に心地良いのでゴルフを楽しむには、スコアを付けずにプレイする事をお勧めする。

 

スコアを付けなくなってから、青い空や白い雲、朝陽に映えるゴルフ場の木々の緑にも目が行くし、移動中も綺麗な花々や珍しいキノコや鳥のさえずりを楽しめるようになった。以前は終わったホールのスコアを確認したり反省したり次のホールのコースガイドを見たりして、コースの美しさを楽しむ余裕などなかったからだ。

私はボールが思った方向に飛ばないので丘や谷にも行くし殆どカートにも乗れないので逆に草や土の感触を踏みしめウォーキング+トレッキングになり、いろんな景色が楽しめる。スコアを気にしないとバンカーでは心穏やかに何度でも打てるし「アンプレアブル(+1打)」宣言すれば技術的に無理な場所から打たなくても済む。

 

ここまで読んで「あれ?」と思った読者も居られるのではないか?お前は「目的」実現における「目標(設定)」の効用を説き、万歩計を付けて目標歩数を設定してウォーキングしているのにゴルフはスコアを付けないのは単に下手で悪いスコアを見たくないから開き直ってるんじゃないか?言ってる事が矛盾しているぞ、と。

 

確かにこのブログで何度も申し上げているように、私は歌や朗読に限らず“何事も本格的にやらない”主義なのでご推察の通り、ゴルフも練習場には全く行かないし下手だ。上手な人や上達することが楽しい人ならスコアを付けることでモチベーションも上がるだろうが、私の場合は「また120を切れなかった」と落ち込むだけだ。

 

そして実は「目的」が違うのだ。私の場合、ゴルフは歌と同じく「下手より上手い方がいいが上達は目指していない」のだ。勿論、パーや奇跡的にバーディなどが取れた時は嬉しいが「トータルで100を切ろう」等とは考えないので大叩きした時は忘れる。この歳でまだゴルフができる事や歩く事や大自然に身を置く事が「目的」だ。

まだ若くて上達する事やコンペで好成績を収める事が「目的」だったら、スコアは「目標(設定)」として有効だし「上手くなる事が楽しい」という人は、スコアを付ける方が楽しめるだろう。そういうケースでスコアを付ける事は大いに結構だし私もそういう時期はあった。ただ必ずしもそうでない人もスコアを付けていないだろうか?

 

とかく日本人は「皆がそうしているから自分も」という事が多い。ゴルフでは「皆がスコアを付けているから」と付けているのではないか。勿論コンペ(競技会)だったらスコアを付けない訳にはいかないし私も仕方なく付けるが、コンペでなければ付けない。但し、正直に言うと「付けない」ことには、私も少々勇気が必要だった。

 

実際には誰も何の圧力もかけてないのだが協調圧力というか「皆がしていることをしない」だけでも心理的な抵抗があり、それを振り払うには“小さな勇気”が必要だった。「スコアを付けても自分が気にしなければいいのでは?」とも思ったが、ウォーキングの例で書いたように記録を付けてしまうと、そう出来ない性格なのだ。

ランニングやジョギングも同じで何気なくタイムを計っていないだろうか?「より速く走りたい」「フルマラソンに出たい」など上達意欲に目覚めたランナーなら結構だが「朝の空気が美味しい」「身体を動かすだけで気持ち良い」から続けているだけなのに何故かタイムを気にして苦しそうに走っている人は居ないだろうか?

 

多くの人にとってゴルフもジョギングも仕事ではないから「楽しむことが目的」だろう。だったら苦行僧のようにではなく楽しんでやればいいのに皆タイムやスコアのせいで苦しそうにやってないか?「上達しないと楽しめない」という人以外は、タイムもスコアも付けない“小さな勇気”が“大きな自由”をもたらすかも知れない。

 

Saigottimo

欲しい物を買うために貯金をする。この場合の「目的」は欲しい物(の購入)で「手段」は貯金だ。人は「目的」を実現するために数ある「手段」の中から有効と思しきものを選択し、組み合わせたりする。例えばその貯金をするためにアルバイトをするなら、今度は貯金が「目的」となり、アルバイトが「手段」の一つとなる。

 

よく「手段が目的化してしまっている」などと問題視されるが、「目的」と「手段」はこの様に順繰りに連鎖するから、どんな「手段」も下位の「手段」にとっては「目的」になり得る。但しその上位に「目的」があるなら、その「手段」は「最終的な目的」にはなり得ない。だから手段を「最終的な目的」と勘違いすることが問題なのだろう。


では「目標」とは何だろう?「何かを成し遂げようとするなら具体的な目標を設定せよ」などと言われる。仕事上でも個人や組織単位で一定期間毎に「目標」を設定するケースが多い。私も仕事として、各部門毎に立てさせた計画を予算(計数)化し「目標」としてその達成を促し評価する「予算統制」業務を担当したことがある。

【by 紺色らいおんさん from (写真ac)】

 

人は「目標」を設定するとそれを達成しようとするものだ。それ自体は健全だが目標を達成するために無理をして不健全な行動に走ることもある。それらの弊害も考えると私は心の底では「必ずしも100%達成しなくてもいいんじゃね?」とも思っていたが、その後「目標」の有効性を実感させられる個人的な体験をしたのだ。

 

実はこの9年間、1日8千歩(当初は1万歩)として月単位で目標歩数を設定して歩き、毎月達成してきた。しかし数年前の大晦日、残り1日で2万歩不足していた。「無理して目標達成しても健康になる訳じゃなし」などと葛藤の末、結局、私は目標達成のため大晦日の昼間にカミさんの実家近辺を3時間半も歩いた。バカだ。

 

その時、私はこの「目標(設定)」というものが、人間の心理上で如何に大きな意味を持つかという事を思い知った。と同時に、「目標」とは(一見、字も似ているので混同しそうだが)決して「目的」ではなく、「目的」を実現するための有効な「手段」だと知った。だから「目標」こそ「最終的な目的と化してしまう」のは問題だ。

 

元巨人の桑田真澄投手が現役終盤にメジャー挑戦したが怪我をしてリハビリ中にインタビューでこう聞かれた。「まだ日米通算200勝は目指すんですか?」私は「残酷な質問だ!(残り27勝など)無理に決まってるだろう」と思ったら、彼は「勿論、目指しますよ」と即答し、さらに「でも200勝できなくてもいいんですよ」と言った。

 

「なーんだ、本気で達成する気はないのか」と私が思った瞬間、彼はこうも言った「逆に200勝したって何も意味はないんです」えーっ、何だって?そして最後にこう加えた。「僕は何か目標を掲げてそれに向かって努力している自分が好きなんです。だから目標自体に意味は無いので達成してもしなくてもどっちでもいいんです」

 

桑田氏にとっては「目的=ひたむきに努力する自分」であり、その目的を実現するための「手段=努力に値する目標を掲げる事」と明確に認識していたのだ。だから単なる“手段である目標”自体を達成しようがしまいが意味は無いと分かっている。但しそれに向かって努力する気にならない「目標」は「手段」にもならない。

 

つまり「目標」は、人にそれを達成しようと思わせることにおいて心理的な意味はある。しかし達成したとしても、その「目標」自体は、その人が本来求めている「目的」だと勘違いしてはいけない。「○歩以上歩く」という「目標」を達成しても、それは「健康を保つ」などの「目的」を実現する「手段」の一つでしかないからだ。

 

「目標」を達成した途端“燃え尽き症候群”の様に無気力になる人は「目標」を最終的な「目的」と勘違いしているのだろう。桑田氏のように「目標」は(「目的」を実現するための有効な)「手段」だと認識していれば、「目標」を達成しても、その先にある「目的」を見失わずに新たな「目標」を立てるはずだからである。

 

Saigottimo

“喜劇王”と呼ばれたコメディアンで映画監督のチャールズ•チャップリンは音楽の才能にも恵まれていた。両親が芸人だった彼はバイオリンを弾きこなしたが譜面を読んだり書いたりは出来なかったという。それでも彼が作曲した「スマイル(Smile)」や「ライムライト(Limelight)」は今も映画史に残る名曲とされている。

 

特に「スマイル(Smile)」は、ジャズ•スタンダードになっている(青本に掲載)し、ドラマのテーマ曲(2002年フジTV「空から降る一億の星」)となったエルビス•コステロマイケル•ジャクソン(1997年)などジャズ以外のミュージシャンも数多くカバーしており、今やポップス界におけるスタンダードと言えよう。

 

「スマイル(Smile)」の原詞は歌詞専用サイトに譲るが、例によって“歌わないナンチャッテ和訳”を試みてみるとこんな感じになる。

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スマイル

 

心が傷ついていても、微笑んでごらん

心が折れても、微笑んでごらん

 

空一面が雲で覆われていたとしても

君が哀しみや不安の中から微笑むなら

望みはきっと叶うから

 

微笑んでごらん、そうすれば、きっと

明日は太陽が君のために光り輝くよ

 

歓びで顔を彩り哀しみの跡を消そう

いつも涙が溢れそうになるだろう?

そのときがまさに頑張り時なんだよ

だから、微笑んでごらん

泣いたってどうにもならないじゃない

 

君が微笑みさえすれば、まだまだ人生

捨てたもんじゃないって、わかるから

 

(作詞:John Turner and Geoffrey Persons)

(和訳:Saigottimo)

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この「Smile」、実はチャップリンは作詞をしていない。チャップリンがこの曲をサイレント仕立ての映画「モダン•タイムズ」(1936年)用に作曲した当時は題名も歌詞もないBGMだったが、1954年にジョン•ターナーとジェフリー•パーソンズがこの歌詞とタイトル(Smile)を付け、ナット•キング•コールが歌ってヒットしたのだ。

映画のラストシーンではチャップリンとヒロインの少女が手をつないで旅に出る。チャップリンがふと足を止め失意と不安の表情で歩くヒロインを見て左手の人差し指で自分の唇の端(口角)を上げてごらん、とスマイルのサインを出す。すると彼女は微笑み、2人は再び手を携えて歩み出し、そこにエンドマークが重なる。

 

【ナット•コール盤でチャップリン映画の名場面が見られる動画↓】

 

映画「モダン•タイムズ」は極度に機械化され人間性が失われた現代社会を風刺したが、これによってチャップリンは資本主義を否定する共産主義者だと糾弾する“赤狩り”に遭い、後にハリウッドを去る。彼は戦前にナチスを風刺した映画「独裁者」(1940年)も作っているが私は彼に政治思想的な意図があったとは思えない

 

彼が一貫して描いたのは、弱くてずるくて残酷で優しい、愛すべき人間性であり、その人間性を蝕む全体主義(ファシズム)や過度な商業主義(コマーシャリズム)を揶揄し警鐘を鳴らし続けたのだと私は思う。つまり彼はコミュニスト(共産主義者)ではなく、言うなればヒューマニスト(人間主義者)だったのだろう

 

人生は理不尽で辛く悲しい事ばかりだけど、微笑みながら仲間と手を携えて希望に向かって共に歩もう”というのが彼のメッセージだろう*1。機械やAIには無い人間の唯一最大の武器は“微笑”かも知れない。だから私はこの「Smile」という5文字で構成される単語に彼の人生哲学が凝縮されている気がするのだ。

 

♪Smile 2008年6月7日・渋谷SEABIRD開店25年記念ライブ♪

 

*1:ここまで書いて気付いたのだが、これは私の母校、玉川学園のモットー↓と全く同じメッセージだった。

【小原國芳総長筆 玉川のモットー】

 

Saigottimo

私は“スタンダード・ヴォーカリスト”などと格好を付けて名乗っているが、要するに“古い歌しか歌えないジジイ”である。一般的なジャズ・スタンダードは1920年代以降のミュージカル等が中心だし、私が好きなのは1950年代~60年代初頭のポップスのスタンダード、いわゆる“オールディーズ”と呼ばれる音楽である。

 

つまり、私はビートルズ以降(1960年代後半以降)の、ロックをベースとした音楽にはどうも馴染めないのである。例外的に1970年代のロックオペラ「ジーザス・クライスト・スーパースター」のアリア「私はイエスがわからない」が好きで学生時代から歌っていたことは既にこのブログでも書いた通りだが、基本的にロックは苦手である。

 

では、そんな私にとっての“最新のレパートリーは何なのか”というと、あの盲目のシンガー・ソングライター、スティービー・ワンダーの「ステイ・ゴールド(LIFE ~ Stay Gold)」である。この曲はシングルカットもされてないが日本のベストアルバムには収録されており、テレビCMなどで何度も使われたのでご存じの方も多いだろう。

この曲は映画「アウトサイダー」(1983年)の挿入歌として監督のフランシス・コッポラの父親が作曲し、スティービー・ワンダーが作詞と歌を担当したらしい。原詞は歌詞サイトをご参照戴くとして、歌詞がとても詩的で美しいので、私は歌う前に例によってナンチャッテ和訳詞を“歌わない訳詞”として朗読することにしている。

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「人生 ~ 輝きづつけて(LIFE ~ Stay Gold)」

 

つかまえよう、遠い昔のあの瞬間を
あっという間に、とても若くて天真爛漫な君がそこにいる
そして君は気付くだろう、あの頃がとても輝いていた事に

あの頃に戻ろう、全てが永遠に続くと思っていたあの頃に
でも、やがて知ることになる、どんなに輝きつづけていても
変わらぬものなどこの世にはない、天気のように

本当にそうなのか、こんなに鮮やかに見えている思い出も?
でも、君がそうだと言うのなら、きっとそうなのだろう
あんなに輝いていた太陽でさえ、光を残して消えていくように
一日は去っていくのだから・・・

人生、それは、ほんの瞬(またた)くほどの時間だけど
想像できないくらい、哀しみと慈しみにあふれている
起こり得る全てのことは、みな古くなっていくものだ
それがどんなに美しく、どんなに輝いていたとしても

(Stevie Wonder & Carmine Coppola, 訳詞:Saigottimo)
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どこかでこの曲を歌った際、若い人(といっても30代?)に・・・

「あ、この曲、知ってますよ!」と声をかけられた。

「そうですか」(お、やっぱり若い人なら知ってるんだな)

「なんて言ったかな、あのぅ、ほら、有名な“懐メロ”ですよね!」

「え…?」と私は一瞬、絶句してしまった。

 

だって私としては、あのマイケル・ジャクソンとも共演したスティービー・ワンダーの曲だから“超”最新ヒットだと思っていたのに。でも、考えてみれば1980年代のヒット曲だからその当時でも既に30年以上前。う~ん、30代なら自分が生まれる前だから1920年代だろうが1980年代だろうが、まあ、「懐メロ」と思うのは仕方ないか。

 

「ええ、『ステイ・ゴールド』ですよ、あはは」と笑って答えたけどね。

 

♪Stay Gold 2003年4月4日SEABIRD第一金曜ライブでの録音・・・橋本さんのギターが素晴らしいです♪

 

Saigottimo