私は日々のウォーキング以外の運動としては週1回テニススクールに通っているが、ゴルフは基本的に仕事の付き合い程度しかしない。稀にプライベートでゴルフをする場合、最近はスコアをつけずにラウンドすることにしている。これが実に心地良いのでゴルフを楽しむには、スコアを付けずにプレイする事をお勧めする。

 

スコアを付けなくなってから、青い空や白い雲、朝陽に映えるゴルフ場の木々の緑にも目が行くし、移動中も綺麗な花々や珍しいキノコや鳥のさえずりを楽しめるようになった。以前は終わったホールのスコアを確認したり反省したり次のホールのコースガイドを見たりして、コースの美しさを楽しむ余裕などなかったからだ。

私はボールが思った方向に飛ばないので丘や谷にも行くし殆どカートにも乗れないので逆に草や土の感触を踏みしめウォーキング+トレッキングになり、いろんな景色が楽しめる。スコアを気にしないとバンカーでは心穏やかに何度でも打てるし「アンプレアブル(+1打)」宣言すれば技術的に無理な場所から打たなくても済む。

 

ここまで読んで「あれ?」と思った読者も居られるのではないか?お前は「目的」実現における「目標(設定)」の効用を説き、万歩計を付けて目標歩数を設定してウォーキングしているのにゴルフはスコアを付けないのは単に下手で悪いスコアを見たくないから開き直ってるんじゃないか?言ってる事が矛盾しているぞ、と。

 

確かにこのブログで何度も申し上げているように、私は歌や朗読に限らず“何事も本格的にやらない”主義なのでご推察の通り、ゴルフも練習場には全く行かないし下手だ。上手な人や上達することが楽しい人ならスコアを付けることでモチベーションも上がるだろうが、私の場合は「また120を切れなかった」と落ち込むだけだ。

 

そして実は「目的」が違うのだ。私の場合、ゴルフは歌と同じく「下手より上手い方がいいが上達は目指していない」のだ。勿論、パーや奇跡的にバーディなどが取れた時は嬉しいが「トータルで100を切ろう」等とは考えないので大叩きした時は忘れる。この歳でまだゴルフができる事や歩く事や大自然に身を置く事が「目的」だ。

まだ若くて上達する事やコンペで好成績を収める事が「目的」だったら、スコアは「目標(設定)」として有効だし「上手くなる事が楽しい」という人は、スコアを付ける方が楽しめるだろう。そういうケースでスコアを付ける事は大いに結構だし私もそういう時期はあった。ただ必ずしもそうでない人もスコアを付けていないだろうか?

 

とかく日本人は「皆がそうしているから自分も」という事が多い。ゴルフでは「皆がスコアを付けているから」と付けているのではないか。勿論コンペ(競技会)だったらスコアを付けない訳にはいかないし私も仕方なく付けるが、コンペでなければ付けない。但し、正直に言うと「付けない」ことには、私も少々勇気が必要だった。

 

実際には誰も何の圧力もかけてないのだが協調圧力というか「皆がしていることをしない」だけでも心理的な抵抗があり、それを振り払うには“小さな勇気”が必要だった。「スコアを付けても自分が気にしなければいいのでは?」とも思ったが、ウォーキングの例で書いたように記録を付けてしまうと、そう出来ない性格なのだ。

ランニングやジョギングも同じで何気なくタイムを計っていないだろうか?「より速く走りたい」「フルマラソンに出たい」など上達意欲に目覚めたランナーなら結構だが「朝の空気が美味しい」「身体を動かすだけで気持ち良い」から続けているだけなのに何故かタイムを気にして苦しそうに走っている人は居ないだろうか?

 

多くの人にとってゴルフもジョギングも仕事ではないから「楽しむことが目的」だろう。だったら苦行僧のようにではなく楽しんでやればいいのに皆タイムやスコアのせいで苦しそうにやってないか?「上達しないと楽しめない」という人以外は、タイムもスコアも付けない“小さな勇気”が“大きな自由”をもたらすかも知れない。

 

Saigottimo