年の瀬だ。年末年始になると「来年(今年)こそ」という言葉に続いて、良い人(婚活)や良い仕事(就活)や良い住居(住活)が「見つかりますように」などの願掛けをする人も多いだろう。私は人事部長をしていた頃、大学から「学生に就活のアドバイスをして欲しい」と頼まれると学生さんには必ずこんな話をしていた。
私が言いたいのは全く当たり前の事で、もし財布を落として遺失物センターに行ったら数ある遺失物の中から自分の財布を「探す」だろうし、無いことも含め必ず「探せる」だろう。何故なら自分の財布はどういうものか分かっており中身等で確証が取れるからだ。つまり「探す」ことが出来るのはそういう状況である。
ところが就活では「自分に合った仕事(会社)」はどんな仕事(会社)なのか明確ではない。だからいくら探しても、具体的にはA社がそうなのか、B社か、いや、もしかしたらまだ出会っていないC社かも、となるし確証も取れない。つまり、そもそも「探す」ことなど出来ない状況なのだ。出来るのはただ「選ぶ」ことである。
婚活も住活も全く同じで、赤い糸でも繋がっているなら手繰ればいいが当然そんなものは無いから、いくら「探し」ても見つかるはずがない。ここでも出来ることは就活と同じで、限られた期間内に限られた選択肢の中から「選ぶ」ことによって「自分で決めるしかない」のだ。結論は「探すな!選べ!」ということだ。
これはちょっと考えれば誰でも気が付く勘違いだが、何故そんな勘違いをするかと言うと多くの人は無意識のうちに「どこかに必ず答え(正解)がある」と思うからそれを探すのだ。「人生に正解は無い」という格言通り人生で生じる問題には予め決まった正解など無いのに何故か学校の試験等と同じだと思ってしまうのだろう。
最近は広告でも、住まい探しではなく「住まい選びのお手伝い」というコピーも出てきた。勿論、選択肢が全く無ければ先ずは探すしかないが、いくら探して多くの選択肢を提示しても客が選べなければ成約しないので不動産屋は儲からない。恐らくそういう客は「どこかに正解があるはずだ」と信じているのではないか。
「自分が気が付かないだけで本当は必ず正解があるはずだ」とどこかで思っているから、神様や占い師等にその答え(正解)を教えてもらおうとするのだろう。でも自分の人生なのに「自分はそう思わないけど〇〇が言ったからそう決めた」という生き方は果たして本当に自分の人生を生きていると言えるのだろうか?
Saigottimo
