以前このブログで「人は苦手な領域では失敗しない」と書いたが、ここで言う「失敗」とは自分の地位や身分を危うくするような、取り返しのつかない大失敗のことを指している。しかし我々が仕事や生活で日常的に犯すミスのような身近な「失敗」は、むしろ余り得意でない領域か未習熟な領域で起きる方が多いだろう。

 

「トライ&エラー」という言葉があるように、人は何かに挑戦(トライ)して失敗(エラー)することによって経験値を積み成長していく。取り返しのつかない大失敗をしたら終わってしまうが、小さな失敗を重ねることで人は成長する。その失敗が成功に繋がるかどうか分からないが、少なくとも「失敗は成長の素」である事は確かだ。

 

そう考えれば「失敗(エラー)」は「成長」のためには必要であり、そのためには「挑戦(トライ)」も必要不可欠なはずである。最近、各分野のトップが「若手に挑戦せよ!と言っているが誰も挑戦しない」という嘆きを聞くが、これは「人が育たない」という声と一対であり、挑戦しなければ成長しないのは当然の事だろう。

 

では何故、挑戦しないのか?それは日本が「失敗を許さない社会」だからだ。役人から政治家、企業人、芸能人まで日本では「失敗」したら終わりか大打撃を受ける。政治家も芸能人もそうだが、企業でも社員が挑戦しないのは、失敗が処遇に響く評価制度だからで、トップが「挑戦せよ!」と言ってもしないのは当たり前だ。

【by fujiwara from (写真ac)】

 

起業に至っては、日本では事業資金に個人保証が必要な事が多く、倒産したら個人が借金を背負って自己破産したりするので「失敗したら人生お終い」となりかねない。一方、米国では何度も融資を受けて起業しては倒産させたベンチャー起業家の方が経験値が高いと見做されて資金が集まり易いともいうから大違いだ。

 

以前このブログでも紹介したNHK「奇跡のレッスン」で、大阪なおみをNo.1に導いたサーシャコーチが、最終日の試合で負けて泣いている生徒にこう言った。「試合の結果に“負け“なんてない。“勝つ”か“学ぶ”かだ。君は今日は学ぶ日だったんだよ」私はこの言葉に大きなポイントが、そして日米の彼我の差があると思った。

 

試合=挑戦と考えれば、勝利=成功であり、敗北=失敗だろう。でも彼は「“負け”なんてない」と言ったのだ。敗北(負け)ではなく学習する(学ぶ)機会、つまり「敗北≠失敗⇒学習」という図式である。大切なのは敗北などの失敗から「どれだけ多くの事を学べるか」という点であり「失敗から学ぼうとする姿勢」なのだろう。

 

エジソンが電球の発明で最も苦戦したフィラメント素材は最終的に日本の竹で成功するが、そこまでに何万もの素材を試した。後に「よく何万回も失敗して挫折しませんでしたね」と聞かれた彼は「私は1回も失敗などしてない。この素材はフィラメントに適さないという発見を何万回もしたのだ」と答えたという。まさに学習したのだ。

 

人は成功からも学ぶが、失敗からは成功より多くを学ぶ」と言われるように「失敗」は「学習の好機」であり「成長の源」である。だが、もし「失敗」から学ばないのであれば「失敗」は忌むべき存在でしかない。実に残念な事ではあるが、日本が「失敗を許さない社会」なのは、日本が「失敗から学ばない社会」だからである。

 

「失敗の本質」は、組織論の大家、野中郁次郎教授らが貴重な労作で示した、旧日本軍が第二次世界大戦において繰り返し犯した信じ難い数々の失敗の研究である。同著を読むと、恐ろしいことに現代においても、そしてどんな規模の組織でも、これらの失敗は容易に再発し得ると認めざるを得ず、実に悔しく悲しい限りだ。

 

 

これは我々が「敗戦」という「失敗」を忌み嫌ってここから学ぼうとせず、全ては最早現存しない“軍部という組織の不見識と粗暴のせい”と決めつけ、それを許した日本の内政、外交、言論、倫理、世論、報道等を含む「民族/国家/社会全体が構造的に抱える問題」を直視せず学ぼうとも変えようともしなかった証左だ。

 

誰でも成功したいし失敗したくないし「失敗してもいい」なんて思わない。だから本人の成長を願うなら「失敗してもいいよ」という姿勢で挑戦させるべきで「失敗するな」と言ってはいけない。結果として失敗したらそこからしっかり学ばせればよい。結果から学ぶ姿勢さえあれば、成功しても失敗しても挑戦は成長に繋がる。

 

では「無謀な挑戦」にも失敗はないのか?いや、成功が絶対に望めないと思うなら、また失敗が当然で何も学べないなら、それは挑戦とは呼べない。つまり挑戦とは成功する見込が皆無ではなく、成功しなかった場合にはそこから何か学べる事が条件だ。この条件を満たす限り、挑戦には成功か学びしかなく失敗は無い。

 

Saigottimo