途中、ふと通りがかった「平田神社」。
祭神は、平田篤胤。
御神徳は「世直し」!!
なんかすごいタイミング。
不思議な社紋。手裏剣にも見えるし、風車にも見えるし、十字と言えなくもない。
なぜか今日はわたしが住んでいた場所を歩くことになっているみたいだ。
3月に引っ越して以来、くるのは初めてだ。
わずか半年ほど前のことなのだが、今となっては、すごく昔のことのように思える。
しかも、この街に暮らしたのは、11月から3月までのほんの、4ヶ月だけのことなのに。
それは、とても濃密な時間だった。
時間に質量があるとでもいうのだろうか。
時の川を横切るような、そんな感覚であった。
毎日亀好きの元ダンナがメールをくれ、自死遺族仲間でもあるプロのカウンセラーに話を聞いてもらってなんとか精神を保たせて、今思えば、その期間限定の付き合いになった人たちと交流した。
その頃は海軍関係の人たちと不思議なくらい縁があった。
それは平清盛の縁でもあるようで、厳島とか、音戸(おんど)の瀬戸に行くことになった。
月読釣人さんとも、月読さんを紹介してくださった大阪の溝咋神社をご一緒した(みしまの先祖をたどる旅・旅の最後は伏見稲荷へ)方とも、不思議なくらい、その時期にしか会っていない。
その後、コロナがきたから、と言ってもあまりにも不思議すぎる。
他の人とは交流が戻ってきているのに、その人たちとはまるで交流の扉が閉ざされたみたいに、ピタリと会えなくなってしまった。
逆に、伊勢平氏おじさんは、その間だけわたしの前から忽然と姿を消していた。
昨年の秋、わたしは「天気の子」の舞台である、代々木に引っ越した(真名井の縁の伊勢神宮〜橿原神宮〜罔象の女神〜大神神社に続く旅まとめ【その1】)。
内藤新宿、多武峰神社のある新宿御苑エリアも工事が始まっている。
ここもまた、何かが変わろうとしている。
テレビをつけたら、懐かしい景色が飛び込んできた。
アフリカだ!!
ビクトリアフォールズ。
そしてケープタウン。
懐かしくて泣けてきた。
声を上げて泣いた。
アフリカ。わたしはあの大地に生きるひとたちに癒された。
わたしが持っている悲しみの体験など、彼らにとってみれば、手の届かないほどの幸せなのだと分かった。
そして、彼らは、豊かで、溜め込むことなく、少ない食べ物を分け与え、優しさに満ちていた。
私たちは、単に私たちが信じている豊かさを、押し売りしているだけなのでは、と疑問を持った。
今もわたしは、何が豊かさなのか、何が貧しさなのか、援助は良いことなのか、罪なのか、答えを出せないでいる。
でも、何もしないよりは、何かする方がいいような気がして、わずかな寄付は続けている。
代々木八幡宮の氏子地域だった、代々木上原のアパートを引き払って、亀好きの元ダンナのところに荷物を預けてアフリカ放浪に出かけたのは、1996年くらいか。あまりにもいろんなことがありすぎて、わたしの中で記憶が曖昧な時期でもある。
windows95が出た頃で、Macintoshの頃からMacを使っていたが、その時期だけはThinkPadも持っていた。
電話線を使ってインターネットにつなげた時代。アフリカ縦断の後たどり着いたケープタウンでネットに繋げたのは懐かしい思い出。ネットさえあれば世界中どこにいてもいいんだなって、あの頃から思ってた。
そして、それから25年ほど経った今、それは世界中の人たちが共有しつつある価値観でもある。
あれから、4半世紀。
まさにコロナは、その価値観に、人々の意識を強引に塗り替えようとしているかにさえもみえる。
わたしが、サインを受け取っているラフォーレ原宿の広告(続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁)・聖徳太子の再来と、一粒の麦 そして、透明のトイレ 〜"アトランティスの記憶"・さて、次は。 〜旧七夕から旧盆からみえてきたものは)は、一部がまた変わっていた。
きっと、何かのメッセージがある。
このあいだ、なにわの審神者(さにわ)と参拝した代々木八幡宮(都をつなぐ旅 〜オーサカからトーキョーへ 護国寺から靖国神社へ(その2))も、修復工事に入った。
いろんなことが、動き始めている。