代々木の街とアフリカと | かんながら

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旅の記録です

 
 
 
伊勢平氏おじさんが、初めてわたしに対して自分をひらいた翌日。
おじさんは、いつも何やらエネルギーの鉄壁のガードをしていて自分を開かない。
背中のヒーリングのために、触れるときですら、完全には力を抜かない。
次に起こること 〜神事は真剣勝負で書いたように、夏に山で、おじさんの背中に長いことあるというコリの、真っ黒な穴をヒーリングするのに「委ねてくださいよ」と言ってもそう簡単にはできない性分の人なのである。
 
 
 
手違いで、代々木に住んでいたときに予約した図書資料がようやく届いて取りに行った。
実に半年以上待っていたことになる。
半年待ってようやく手元にきた資料は「増補改訂 アースダイバー」。
 
 

 

 

途中、ふと通りがかった「平田神社」。

 

 

 

祭神は、平田篤胤。

 

御神徳は「世直し」!!

 

なんかすごいタイミング。

 

 

 

不思議な社紋。手裏剣にも見えるし、風車にも見えるし、十字と言えなくもない。

 

 

 

なぜか今日はわたしが住んでいた場所を歩くことになっているみたいだ。

3月に引っ越して以来、くるのは初めてだ。

 

わずか半年ほど前のことなのだが、今となっては、すごく昔のことのように思える。

しかも、この街に暮らしたのは、11月から3月までのほんの、4ヶ月だけのことなのに。

 

 

それは、とても濃密な時間だった。

時間に質量があるとでもいうのだろうか。

時の川を横切るような、そんな感覚であった。

 

 

毎日亀好きの元ダンナがメールをくれ、自死遺族仲間でもあるプロのカウンセラーに話を聞いてもらってなんとか精神を保たせて、今思えば、その期間限定の付き合いになった人たちと交流した。

 

 

その頃は海軍関係の人たちと不思議なくらい縁があった。

それは平清盛の縁でもあるようで、厳島とか、音戸(おんど)の瀬戸に行くことになった。

月読釣人さんとも、月読さんを紹介してくださった大阪の溝咋神社をご一緒した(みしまの先祖をたどる旅旅の最後は伏見稲荷へ)方とも、不思議なくらい、その時期にしか会っていない。

 

その後、コロナがきたから、と言ってもあまりにも不思議すぎる。

他の人とは交流が戻ってきているのに、その人たちとはまるで交流の扉が閉ざされたみたいに、ピタリと会えなくなってしまった。

 

 

 

逆に、伊勢平氏おじさんは、その間だけわたしの前から忽然と姿を消していた。

そしておじさんは、コロナ直前の、菊理媛神さまミーティングくらいから少しずつ縁が戻ってきたのだ。
 
 
それは、ちょうど、映画「天気の子」の舞台である、明治神宮の北の街、代々木のミッションを終えたときでもある。
なぜなら、その「菊理媛神さまミーティング」の席で、代々木のマンションを引き払うことにした、と菊理媛神さまが降りてくると言われているご婦人に話していたのだ。
 
偶然にしては、面白すぎる。
おじさんは、ちょうどわたしが明治神宮の北側の街、代々木にいる期間、バックレていたことになるのである。
引越し祝いを手渡されて、おじさんは、そのまま音信不通になったのだから。
 
 
それと同じ動きをしている人がもう一人いて、それは「尾鷲の大先生」としておこう、政治と経済の世界にいる伊勢平氏おじさんよりさらに年長の実業家である。
尾鷲の大先生は、しろくまさんがいるときから、ラブレター(という表現が適切かはわからないが)をたくさんくれたが、代々木にいる時期だけパタリと途絶え、そして表参道に戻った頃からまた手紙が来るようになって、伊勢平氏おじさんとの関係とまるで相関するように、手紙の頻度が増えた。
 
 
 
 
わたしが代々木に運ばれた経緯はこうである。

昨年の秋、わたしは「天気の子」の舞台である、代々木に引っ越した(真名井の縁の伊勢神宮〜橿原神宮〜罔象の女神〜大神神社に続く旅まとめ【その1】)。
わたしにとっては、チャレンジだった。
表参道は大好きだったが、代々木は同じ渋谷でも全然違うお地場だから。
 
それまでは、亡くなったしろくまさんとふたりでサービスルームもテラスもある表参道の1LDKに住んでいた。
でも、使う人がいなくなった本や教材、服、資料に家賃を払い続けることは意味のないことだと考えて、全部処分した。
とりあえず、一人の生活にリセットするために、ワンルームに引っ越した。
気に入った部屋はすぐに見つからないと思って、「眺めが良ければ表参道でなくてもいい」という条件で見つけてもらったのが代々木の部屋だった。
 
 
 
移った瞬間に、変化は起きた。
 
引っ越した翌日くらいだったか、(それまでは普通に連絡しあっていた)伊勢平氏おじさんに誘われてご飯を食べに行った。なぜかわからないが(たぶん、引越しの荷造りで出したからだろう)、買ってから一度も着たことがなかった大島紬の着物を着て。
 
おじさんは、「引越し祝い」といって、封筒を差し出した。
 
この頃には
「キミを通してくる(という霊障)」とか、
「それをなんとかしてくれないと、一緒にいられない」とか、
 
伊勢平氏おじさんに言われていたので、なんだか嫌な空気を感じ取ったわたしは、
 
「こんなの受け取れません」
 
と言って断った。
 
「とにかく、とっておきなさい」
そうしてお年玉より厚めの封筒を寿司屋のテーブル席で、わたしのほうに送ってきた。
 
「ありがとうございます」
わたしはを受け取ったが、嫌な予感は的中して、おじさんは、それから音信不通になった。
大島の着物はそれ以来、一度も着ていない。
 
 
伊勢平氏おじさんに、電話も手紙も無視されて、つらかった時期には、ソウルメイトたちが支えてくれた。
そして伊勢平氏筋がなぜか好んでいく店が「内藤新宿」のすごく限られたエリアにあることに気づき、「多武峰神社」の存在や、「淀橋」「熊野出身の長者・鈴木九郎」など、重要なことがいろいろ分かった。
そして、今年のわたしの誕生日には、おじさんのクルマで思いがけずにそのエリアを一周する(そして、七夕 〜旧暦七夕の1週間(旧盆)に起きたこと)という不思議なできごとがあった。
 
 
 
神さまの住まう表参道から、人の住む世界の新宿へ。
そこは、まさに穢土(えど)だった。
しろくまさんが帰天して、表参道でひとりぼっちになった時には、喉も乾かないし、お腹も空かなかったのに、代々木に引っ越したとたんに、外食したり、買い物にいかなければと思うようになった。
つまり普通の人間になったのだった。
 
新しい10年のはじまりで書いたように、わたしは、3月にこの街を卒業して、新しい10年をはじめているのだろうか。
それとも、最後の10年の最後の仕上げをしているのであろうか。
それはよくわからない。ただ、「明治神宮鎮座100周年までは」という思いで今まで生きてきたことは間違いない。
 

 

 

 

 

内藤新宿、多武峰神社のある新宿御苑エリアも工事が始まっている。

ここもまた、何かが変わろうとしている。

 

テレビをつけたら、懐かしい景色が飛び込んできた。


 

 

アフリカだ!!

ビクトリアフォールズ。

 

 

 

そしてケープタウン。

 

懐かしくて泣けてきた。

声を上げて泣いた。

 

アフリカ。わたしはあの大地に生きるひとたちに癒された。

わたしが持っている悲しみの体験など、彼らにとってみれば、手の届かないほどの幸せなのだと分かった。

 

そして、彼らは、豊かで、溜め込むことなく、少ない食べ物を分け与え、優しさに満ちていた。

私たちは、単に私たちが信じている豊かさを、押し売りしているだけなのでは、と疑問を持った。

今もわたしは、何が豊かさなのか、何が貧しさなのか、援助は良いことなのか、罪なのか、答えを出せないでいる。

でも、何もしないよりは、何かする方がいいような気がして、わずかな寄付は続けている。

 

 

 

代々木八幡宮の氏子地域だった、代々木上原のアパートを引き払って、亀好きの元ダンナのところに荷物を預けてアフリカ放浪に出かけたのは、1996年くらいか。あまりにもいろんなことがありすぎて、わたしの中で記憶が曖昧な時期でもある。

windows95が出た頃で、Macintoshの頃からMacを使っていたが、その時期だけはThinkPadも持っていた。

 

電話線を使ってインターネットにつなげた時代。アフリカ縦断の後たどり着いたケープタウンでネットに繋げたのは懐かしい思い出。ネットさえあれば世界中どこにいてもいいんだなって、あの頃から思ってた。

そして、それから25年ほど経った今、それは世界中の人たちが共有しつつある価値観でもある。

 

 

あれから、4半世紀。

まさにコロナは、その価値観に、人々の意識を強引に塗り替えようとしているかにさえもみえる。

 

 

 

 

わたしが、サインを受け取っているラフォーレ原宿の広告(続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁)聖徳太子の再来と、一粒の麦 そして、透明のトイレ 〜"アトランティスの記憶"さて、次は。 〜旧七夕から旧盆からみえてきたものは)は、一部がまた変わっていた。

きっと、何かのメッセージがある。

 

 

 

このあいだ、なにわの審神者(さにわ)と参拝した代々木八幡宮(都をつなぐ旅 〜オーサカからトーキョーへ 護国寺から靖国神社へ(その2))も、修復工事に入った。

 

 

 

いろんなことが、動き始めている。

 

 

 

もうすぐ、旧重陽。
悔いのないように、生きたい。
 
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