やはり呼ばれた西新宿 〜十二社(じゅうにそう)熊野神社・淀橋 | かんながら

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旅の記録です

車谷長吉の「妖談」を読んでいる美志摩である。
 
気持ち悪い。
自分の中のきたないものが吹き出す気がする。
 
 
鬱々した気持ちになってきて、窓の外をみたら、

青空が広がっていたので部屋を出た。

 

古墳っぽい小山。
 
 
 
 
実はある方から、花園神社の記事のあと、「淀橋」の存在をご指摘いただいた。
ヨドバシカメラの淀橋である。
淀橋にあったからヨドバシなのだ。
 
そしてここには中野長者伝説(中野区のHP)があり、「姿見ず橋」という不吉な橋があった。
 
鈴木九郎という熊野出身の男が「馬」の商いで儲けて、信心していた浅草観音の功徳で中野長者と呼ばれるようになるのだが、欲がでて、金銀財宝を隠すために人夫を雇い、場所がバレないように運ばせたあと池に投げ捨てて亡き者にしたらしい。
帰りに人夫の姿が見えなくなるので、「姿見ず橋」と呼ばれるようになった。
だが、ある日九郎の一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に姿を変え池に飛び込んでしまう。
そこで九郎は相模国大雄山(天狗=加波山神社??)の高僧を呼んで事情を話し、改心して出家した。
 
ざっくりいうとそういうところだ。
そしてその鈴木九郎が熊野三山から勧請した、十二社(じゅうにそう)熊野神社がある。ちなみに「十二社」とかいて「じゅうにそう」と読む。絶対に読めない。町名は変更され、今は西新宿4丁目となっている。
こういう消された地名のところにはなにかある。と、わたしは思っている。
十二というのは、熊野から三所権現、四所明神、五所の王子、あわせて十二所を勧請して祀ったと言われることに由来しているそうである。新宿の総鎮守。
 
そしてこの場所は、江戸時代は信濃高遠の内藤氏により宿場町になり、そして花園神社はおいなりさんでも書いたが、飯盛女としてようは貧困の地域から売られてきた少女が働かされる場所だったのだ。
 
 
ここになにか縁があるのはわかっていた。
なぜなら美志摩は表参道に呼ばれるまえの10年はこの地にちかい場所で過ごしたからである。
ちなみにそこはかつて「徳川山」といわれた。よく行った寿司屋の大将がいうには、徳川様が鷹狩りにいらっしゃる場所だったからだそうだ。つまりは江戸の果てであり、柵も必要のない監獄?で、刑場があったのだそうである。
 
 
東京にでてきたばかりのときは、西新宿の高層ビルを見るのが好きだった。
あのビルをみあげていたら、頭のなかに竹内まりやさんの「明日の風」が流れてくるのだ。
 
新しい活気ある場所だけど、地下に静かに何か埋まっている、大阪のような独特なかんじ。
大阪も古い歴史(わたしが育ったエリアは掘れば遺跡がでてきて、なぜか子どものときからわたしはここ(大阪)には都があったと信じていた)の上に新しい街がなにもなかったように存在する街である。
 
そして淀橋の由来は諸説あるが、鷹狩りにきた徳川家光(徳川吉光説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから淀橋と名付けたとも言われている。
淀川は京都にも流れているかもしれないが、れっきとした大阪の川でもある。

わたしが「この辺はなんか大阪的」と感じていたのはあながちはずれてはいないのかもしれない。
 
 
 
淀橋浄水場にあった六角堂。
 
 
 
 
新年で会社の参拝が多く、夕方なのにスーツ姿の参拝客がいっぱいだった。
 
 
境内には大鳥神社。
 
 
ツノがある狛犬さん。
このあいだ海洋民族はバナナを食べてツノが生えさせた、みたいな記事をみたな。検証していないけど。
そうそう、ここは角筈(つのはず)と呼ばれた場所でもあった。

(wikiによると)

角筈周辺を開拓した渡辺与兵衛の髪の束ね方が異様で、角にも矢筈にも見えたことから、人々が与兵衛を角髪または矢筈と呼び、これが転じて角筈となった[1]

 

それって海人族じゃ?バナナの話と重なるなぁ。調べねばならぬ。

 

 
 
そして、やはりというか、なんというか。
 
 
笠間稲荷!
 
やはり、うがふくさんのはからいであった。
おもわず、うがふくさん、って声がでた。
 
稲荷祝詞、稲荷五社大神祓、稲荷大神秘文
奏上。
 
 
 
新宿中央公園を抜けて歩いていくと何やら偉そうな男と痛ましく見えてしまう女性の像(久遠の像)を発見。
男性は江戸城をつくった太田道灌、女性は紅皿っていう名の少女ということになっている。
 
太田道灌という人は江戸城を作った人なんだね。知らなかったよ。
大好きな東京だけれども、わたしは知らないこと多すぎる。
 
太田道灌が雨がふってきたので傘をかりようとして、蓑もないという貧困を山吹に例えて訴えた、という話なのだそうだが、よくわからない。
今日はもうおなかいっぱい。

 

とにかくここ新宿中央公園エリアには、いろいろ埋められているものが多すぎる。

 

聞いてほしい、知ってほしい、っていうことがとにかくいっぱいあるようだ。
 
 
 
 
やっぱりね。令和元年9月って、まさに「天気の子」の舞台の今の場所に呼ばれたときじゃん。
埋められて消えてしまう前に、きてみてほしいってことなのかもね。
 
 
 
 
このエリアはもともと不吉なエリアだったから(姿見ず橋=淀橋)、中野区のHPによると、大正時代までは、婚礼などのめでたいことには絶対に使われることはなく、大正2年、土地の旧家浅田氏が親族の婚礼のときに、民俗学者柳田国男(遠野物語だ!ということでシンクロがありそうだからリブログしておこう)に講演をお願いするなど盛大な浄め式を行い、これは「淀橋の迷信打破」と称され、新聞などに報道され広く話題を呼んだそうである。

 

そこであったことを、ちゃんと知っておくことって、そこが平和でいられるために大事なんだよ。きっと。
 
 
 
 
 
 
月がのぼった。もうすぐ満月。
 
 
 
地図を眺めていたら、「出雲大社恋弁天」ってあったから、見てみようと思ったら、もうすでに工事で、入れなかった住友三角ビルディング。ここも新しく変わろうとしている。
 
 
 
直会。家であじわうばんしゃく家。