”弟橘媛に招かれて”〜弟橘媛と亀岡のかかわり(メモ的に) | かんながら

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旅の記録です

今はよくわからないが、きっといずれ明らかになるのでfacebookにいただいた蛯原晴比古さんのコメントをご本人の許可を得たので貼っておこうと思う。

 

 

(蛯原さんのコメント)

弟橘媛はヤマトタケルと結ばれる前は三重県亀山市忍山にいたようです。滋賀県甲賀市の水口が遠祖である大水口宿禰の本貫地で鈴鹿峠を越えて鈴鹿川の水運を掌握していた一族(後の穂積氏)の出身ですね。(^^)

 

 

不思議な事ですが、ヤマトタケルが亡くなったとされている亀山市能褒野は明治時代に作られた地名です。本来の能褒野は現在の鈴鹿市長澤町能褒野なんです。長澤町北能褒野には武備塚という古墳があり、江戸時代まではこの古墳がヤマトタケルの陵墓とされていました。式内長瀬神社という神社にもなっています。ヤマトタケルは熱田神宮縁起によると「水のまにまにお隠れになった」とされていて、その川が鈴鹿川の支流の御幣川であったために、「のちせ(あの世)」が訛り「なかせ、ながせ」になったと伝えています。長瀬神社の旧社地は現在の場所から南に300m程行った所で江戸時代は亀山藩が管理していたようです。弟橘媛の一族は鈴鹿川や滋賀県側の野洲川(天の安川)の水運を掌握していた一族ですね。(^^)

 

(美志摩:どうして「能褒野」を亀山につくらなければならなかったのでしょうか?そして亀山のそばには国道25号線奈良街道が走ってますね)

 

ちゃんとした理由があるんですよ。羽曳野市と名古屋と亀山はある方位で繋がっています。記紀の成立時に飛鳥時代の終わりから奈良時代初めの陰陽師たちが考え出したようです。

 

羽曳野市の日本武命陵墓、尾張所縁の玉手山、鈴鹿市長澤町長瀬神社旧社地、額突山(大海人皇子神宮遥拝地、熱田神宮、これらは全て真っ直ぐな直線上に存在しています。熱田神宮に何故?草薙の剣(天の叢雲剣)が祀られるようになった理由です。額突山は現在の四日市市いかるが町にあり、隣には斎宮山、その隣には近年に発見された久留倍官衙遺跡があります。額突山は壬申の乱の時に大海人皇子(天武天皇)が戦勝を祈願して神宮を遥拝した場所です。

 
「いかるが」という地名は私の知る限りでは法隆寺の斑鳩と兵庫県の太子町の鵤(いかるが)と四日市市の「いかるが(鵤)」だけです。
(ここまで)
 
でもなんで、「いかるが」が出てきたんだろう?奈良街道って言ったからかな?
昨年龍田大社〜龍田神社〜予定外の法隆寺と運ばれていったとき、法隆寺で地名「斑鳩(いかるが)」の由来の貼り紙があったので聞いてみたら、「(野鳥)の鵤(イカル)がいる地域だから」ってなんとも不思議な回答をいただいたのだ。
 
だって、野鳥だったら、ヤマガラだって、シジュウカラだっていますよね!?それに斑鳩=マダラバトとしか読めませんけど??
 
でもやっぱり「怒る(イカル)」だよね。。。
なんか怒ることがあるんだろうなって今さらながらに思ったわたしである。
 
龍田の場所にある「いかるが」。
そして大嘗祭の前日、石上の鎮魂祭の日にみた、法隆寺のなにやら大きな法要。
「聖徳太子さんも皇族だよね」って思ったのだったな。