この時期は、そういえば物部ゆかりの場所を訪れることが恒例になっている。
意図したわけではなくて、最初は強く勧められて、6年くらい前、石見の物部神社の鎮魂祭に。
そのときは直前に駆け込んだ近くのお医者さんが動転して救急搬送されて、でもきっとここにいても治らないと思って命がけで退院して出掛けたのだった。
翌年は旦那の具合が悪くなり、毎年このころ体調を崩してお試しみたいに旅に出る、そんな繰り返しだったような気がする。
毎年物部ゆかりの場所に行ってたなって気づいたのは、昨年のブログにコメントがついて、ああ、昨年は秋田の唐松神社に行ったんだったと思い出したこと。
そんなとき、私は飛行機に乗るみたいだ。
神戸の地震の年も毎週のように飛行機に乗ってて、覚えてないくらいあちこち行った。
明日にはフランクフルトで夕陽を見て泣いてるとか。
今考えてもおかしい。
そしてグラウンディングまったくできてなくて、検査場通ってたのに飛行機に乗り遅れるとか、普通にあった。
そして10年前も久高島の翌日高千穂にいるとか、やっぱりおかしかった。
飛行機が飛び立つ瞬間の、重力を振り切って飛び立つ瞬間が好きなんだと思う。
執着を剥がしてくれるような、そんな気がするからかもしれない。
そして三郷にきた。
この夏ずっと気になっていた龍田川。
赤岳に向かって風の神を呼ぶおじさんに出会い、そのおじさんが祝詞をあげると
ちはやふる かみよもきかず たつたがわ
からくれないに みずくくるとは
の歌とともに川の上に火が燃えるような映像がみえて、なんなんだろうとずっと思っていたから。
そして調べたら、たつたがわの近くの龍田大社は風の神さまらしくて、機会があれば行こうと思っていた。
そして、龍田大社だけでなくて、龍田神社もあり、しかもそちらは龍田という地名の場所にあり、斑鳩にあるということ、
そして、聖徳太子が法隆寺を建てる場所の神示を受けたのは龍田神社の龍田大神だったのだそうだ。
だから、法隆寺の文献には龍田神社の記述がたくさんあるらしい。
自然に出てくるのは
饒速日命は 天磐船にのりて 河内国の河上の
斑鳩峯に 天下りましたまいしを
そののち山辺のこおりふるの高庭なる 石上の神の宮に うつししずめ いつきまつり
十種神宝祝詞のこの場面、船に乗った一団が大和川を上って奈良の都に入ったんだなって思ってたんだけど、
橿原考古学研究所長だった菅谷先生が大和川の話をしてくださったとき、やっぱりそうなんだって思ったんでした。
ってなんだろう。
それに、かみよもきかず、というのもなんとなくしっくりこない。
こちらが龍田神社。
龍田という場所にある。
すぐ先が法隆寺。
島ではナリの実って言って、それで味噌を作ったりして食べる。
薩摩支配の時、島民はすべての畑をサトウキビ畑にしなくてはならなくて、毒のあるソテツを何日も水に晒して食べたのだそうだ。しかもそのソテツすら、崖にひっそりと植えなければ取り上げられたとか。
ソテツは万一のときの食料なのだ。
バスに乗るとちょっと早いし1時間くらいだったら、と言ったらもったいないよとガイドさん。
秘仏の公開があるよと教えてもらいそれが後押ししてくれた。
日本語ガイドは今いないということで、荷物を預けて1人で歩き出したら、ガイドさん追いかけてきてくれ、案内してくださることに。
この日は大嘗祭の前日。
ガイドさんが開いたのを初めて見たという門から
この行列が入っていき、何やら花びらのようなものをまいていたのを目撃した。
あとで丹後神人に聞いたところによると、勅使門が開いての散華だったのだろうとのことだった。
聖徳太子も皇族だったはずだもんね。
三島の、みしまやでうなぎを食べようと思ったのに、
まさかの「本日は閉店しました」。
この時点で脱力してしまいタクシーを呼ぶ。
するとタクシーの運転手さん、笑う笑う。
そして、石上神宮のとなりにフランス料理屋みたいなところがあるからそこにしたら、と提案してくれて、クルマ回して見に行ったらなんと、定休日で。
おじさん大笑い。
石上神宮の鎮魂祭にでて、帰りは宿の桜井まで電車で帰り、
直会。ようやくいいただいたごちそう。
思えば朝から何も食べる暇なかったんだよね。
お寿司も美味しかった。