明日からの旅の用意もしていないし、天気が悪くて洗濯物もしてないしな、って思いながらも、漢方薬を煎じて、洗濯をして、万一そのまま旅が続いても大丈夫な旅の道具をリュックに放り込んで朝の参拝。
白鳥伝説というのは、羽衣伝説なんだって。
っていうことは、機織りの、秦氏だよね。
やっぱりある。
そしてここは、干拓が必要だった土地だというから、やっぱりそうだよね。土木技術を持つ大陸からきた秦氏。
牛=菅原道真を祀る天満宮に(私には)脈絡がつかめずおいてある牛の像。
牛の像はなかったが、伊香具神社の近くには地図で見たら北野神社があった。もちろん御祭神は菅原道真。
そして、Wikiによると、
と書かれており、菅原道真公との関わりがある。
美しいよね、私は自然のままの山とか海が好きで、
人の手が入れられた庭園は、美しいって思うけど、好きじゃない。
でも、田んぼの景色ってすごく豊かで、いいなって思う。
私が田んぼを好きでないのは、純粋に景色の美しさを見られていないからだということは知っている。
年貢を課せられた人たちの思い。
そして、かつての大王たちの想い。
農民は、純粋に自分たちだけを豊かにするために田んぼを作ってきたわけではなかった。
彼らの働きによって、養われた人たちは、彼らの思いや願いに、応えてきたのだろうか。
わたしの家は先祖代々、農家でも、漁師でもなかった。
だから、他の誰かに食べさせてもらってきた。
そして、今わたしは東京に住んでいる。
ひとつぶのお米さえわたしは作っていない。
だから、わたしはいつも我が身を振り返って思う。
こうして食べられているのは、誰のおかげか。
わたしは、わたしのいのちを支えてくれている人たちに、みあう何かを返せているのだろうか。
わたしの中にエゴが生み出す罪悪感があって、そこにシンプルに存在する美しさを曇らせる。
そこにあるものがどう見えるのかは、わたしの心のあり方にかっている。実態のないもの。幻想。
だから、どうせ幻想なら美しく、楽しいものとして見えるように自分の心を修めたいと思う。
一の宮。
(国民宿舎 余呉湖荘のHPより)
桐畑太夫という、都からの落人の最愛の一人娘であった菊石姫は7、8歳になると蛇体の姿となり、仮家を建て捨て置いていた。菊石姫のお守係の下女が憐れみ、自分の食物を与えて養育した。
18歳になると菊石姫は、ここにもいられないと、ついに湖水に入った。その時、片目を引き抜き「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切にしなさい」と長く養育してもらったお礼として下女に与えた。
形見の品となった目玉は、はやり病を治すのに効いたり、その他にも不思議なことが多く、このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられた。下女は仕方なく差し出したが龍の目玉なら両方差し出せと追及され、耐えられなくなった下女は湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」と呼んだ、すると菊石姫が現れ、下女は「両眼を差し出さねば、火責め、水責めにあう」と訴えた。
菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両眼を失っても命に別状はない。しかし、盲目となると時刻を知ることができなくなるので、湖水の四方にお堂を建て、時を知らせる鐘をついてくださいと、太夫にお伝え下さい」と言って目玉を抜き、石に投げ付けた。目玉の跡が石に鮮やかについた。この石を目玉石と言います。
目玉石のそばに、長さ3尺横1尺ばかりの石があり、これを枕に菊石姫は休んだと言われ、この石を「蛇の枕石」と呼んでいます。
他には、菊石姫は美しく心優しい娘で、ある干ばつの年、村人が苦しんでいるの見かねて、湖に身を投げ、蛇身となって雨を降らそうと決意した。秘かに天神に祈り、湖に身を投げると、しばらくして一天にわかにかき曇り、大雨が降ったという。
(以上 引用終わり)
弘法大師(空海)が伊香具神社の独鈷水の池に封じ込めた大蛇は、菊石姫なのかな。
菊といえば菊理媛神。九頭龍神。
すると福井県の九頭竜湖へとつながっていく。そこは白山。
そしてわたしの中で九頭龍信仰といえば、戸隠奥社。
余呉湖はとても美しい。
悲しみの青。
マリアさまの青。
なぜ、青をみると悲しみを感じるのだろう。
余呉湖畔のドライブは楽しかったが、道がとっても狭くて、すれ違いが難しかった。
その割にはメルセデスとか大型の車が入ってくる。
わたしも人のことは言えないが、大きい車のオーナーさんほどすれ違いの技術がない方が多いので、こういうところはお勧めしない。
わたしは運よく1度しか当たらなかったし、相手のおじさんが、うまく誘導してくれたのでうまく通り抜けられた。
帰り道。
あ!ここは!!!
25年前にアル中仲間が入院していた病院じゃん。
そして、見舞いの帰り道の郵便局で、わたしは100万円分現金書留を送った。
そのお金は子どもと合わせてもらえなくなったので、面会交流の交渉のために自分が頼んだ弁護士に払った費用である。
彼女は、わたしの最初の伊江島旅行を一緒に行ったアル中仲間のコロさんの紹介で頼むことにしたのだった。
コロさんは、「僕は、(彼女が)(某所の)弁護士であるということしかしらん。りこちゃんの目でちゃんとみて選びや」と言ったが、わたしはもう心身ともに疲れ切っており、思考が停止していて、丸投げするしかなかった。
そしてわたしが求めたのは、面会交流であったが、200万円のお金と、18歳まではこどもにこちらからの手紙を渡してくれること、それと子どもの写真を年一度送ってもらうことと引き換えに、子どもと会うのを諦めるように説得された。
そしてその半分のお金を弁護士費用として請求され、しかも、「現金書留で」と指示された。
郵便局で、100万円を現金書留で送りたいと言ったら、限度額があるので無理だと言われて、二つに分けて送ることになった。
わたしが欲しかったのはお金ではなかった。だからすごく悔しく虚しかった。
その感情を昇華させるのにはとてもとても長い時間がかかった。
アフリカで、一人の少女に出会うまで。
もしあの時アフリカに行っていなくて、あの体験がなかったら、わたしは今でもその感情に囚われていたかもしれないくらいに。
そして、その話には後日談があって、元ダンナは、ネット上で自分の体験を書いていて、それをわたしはたまたま発見してしまったのである。
そこに「(わたしから)お金を請求されてショックだった」ということと、「手紙は受け取らずに(弁護士に)返した」と告白していた。
あの弁護士は、わたしが要求していないお金を元ダンナに要求していたのである。しかも双方が望んでいなかったお金による解決を促し、「手紙は、わたしが確実に渡します」とわたしに約束しておきながら、それが履行できなかったことをわたしに一言も告げていなかったのである。
このときわたしは、すごくたくさんのことを学んだ。
人は、それぞれ「自分の信じる現実」を生きていて、それは必ずしも他の人の真実とは異なるということや、
そして、社会派と言われる人も、相手によって不誠実な態度を取ることがあるということや、
人間には、「避けられない運命」ってものがあるんだなということなども。
今では、運命は全部避けられない、って思うようになったけど。
正確には、避けようとすると、歪みを作るから、そういうのはやめたいって思うようになったことか。
なにわの審神者(さにわ)も自分の参拝を終えたとのことで、京都駅で待ち合わせ。
用件は、彼が神田神社に奉納してきたお供物を預かること。
将門塚へのお届けを引き受ける。
送料の節約。
水3本と酒。
そして直会。このギラギラ度すごい。
もちろんわたしはここにクラフトビール。
なにわの審神者(さにわ)とはよく話しているが、伊勢神宮で丹後の神人から紹介された日を含めて実際に会ったのは2回だけである。
リアルな関係がなくても別に困ってないし、寂しくもない。サーダカの関係はそうものなのある。
感情は身体にあるのだ。感情や現実の交流を必要としていないので、いてもいなくても問題ない。テレバシーだけでこと足りる。コロナ対応済みの関係である。
東寺を案内してくれるというのでついていく。
伏見稲荷大社 御旅所。
そんなところあるんだ、知らなかったよ。
伊勢神宮のお社もある。
東寺。堀にいるこの子は有名人(鳥)らしい。
この雲の感じ。晴れる晴れる。
空海さん。
この空海さん、目を開けてるの?閉じてるの?
どっちにも見える。なんなのこれ??
なんか最近来ている虚空蔵菩薩が5体あった。
いろんな神獣に乗ってるやつ。
表現が乏しくてごめんなさい。
なんかかわいらしい顔つき。
なんかここにも「撮って欲しい」って主張している子が。
なんと、トリはこの財布!!
亡くなったシロクマ 大好きひろさんが持っていた小林正観さんの財布。
ウチのひろさんが使ってた財布、おたくにお届けにいきました?
って聞きたくなるほどの、同じくらいのくたびれ具合(笑)。
あまりにもできすぎていたので、知る人ぞ知る 長崎・川棚の
四次元パーラーあんでるせんのオーナーのサインが入った358だけしか入っていないお札を1億円札に変換した1万円札を奉納。
すぐにATMで換金すると言っていたけど。
あれが出てきたら引き出した人すごく驚くよな。でもお得だと思うよ。
オーナーは手渡すとき「これ持ってるとお金入ってくるよー」って言ってた。
おかげさまで今までギリギリのところでなんとかやってきている。
どうせならヤフオクで売ったほうがいいと思うけどな笑。
どうするのかは謎。
東京に着いたらさすがに夜だった。
東京タワーきれい。
一番好きな景色かもしれない。
わたし、自然が大好きだけど、いちばん愛おしいのは、人の営みが感じられる夜景なんだよね。
あのあかりの灯る場所に、人の暮らしがあると思うとそれだけで幸福感に包まれる。
阪神淡路大震災の後、光が激減した六甲山からの夜景を見たときなんとも言えない寂しさに包まれた。
そして神戸には行かなくなった。
それから神戸を再び訪れたのは、20年経った後だった。
そして昼間のそれは、わたしが学生時代を過ごしたその街とは全く違ってた。