亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ | かんながら

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旅の記録です

 
 
なにわの審神者(さにわ)から、ずっと言われていたけど「遠い」と拒否っていた亀戸天神にようやく参拝した。
 
わたしはひとに「行け」と言われると行かず、
「いくな」と言われると行く、困った性分である。
 
ちなみに「成田山」は伊勢平氏おじさんから、行くなと言われてたけど、行った。
 
多くの人が「平家筋は成田山に行くな」と言っていて、結構定番の禁止事項である。
そしたら、そこは海。平家筋のお地場であった。
 

その時の様子は、誰に呼ばれて成田山 〜祇園の匂いと白山、金毘羅、今宮戎 に書いたが、今読み返してみてあきらかに動かされてたってわかる。
全部がぜんぶがつながっている。
 

自分がやっているつもりで、させられてるのだ。自分よりもっと大きな意思の力に。
もちろん、わたしが、自分の意思を発揮するより、大いなる宇宙の意思の方に委ねたいと願ったからである。
 
 
 
だって、いきなり「香取」神社って。
 
Wikiによると

香取神社(かとりじんじゃ)という名前の神社は、「香取」を社名に持ち経津主神を祭神とする神社。

関東地方を中心として全国に約400社あり、千葉県香取市香取神宮を総本社とする。多くは香取神宮から勧請して創建され、神宮と同じ経津主神を祀っている。

主に利根川江戸川沿いを中心に分布する。南の荒川沿いには氷川神社、それらに挟まれる元荒川沿いには久伊豆神社が分布し、その分布圏は境界を侵すことなく分かれていることが西角井正慶により指摘されている。香取神社の分布圏は10世紀以降に開拓された、元は低湿地だった土地である。

 

 

重要なこと書いてある気がする。またなにか踏み込んでしまったような。

 

今までよく理解していなかったけど、経津主(ふつぬし)神ってことは、布都御魂(ふつのみたま)で、物部だろう。

平家おじさんがわたしを連れて、香取神宮だけ行ったのも納得できる。知ってか知らずかはわからないが。

そして彼が石上神宮の鎮魂祭に行ってたのはそういうことか。

 

でもね、石上布都御魂神社(いそのかみふつのみたまじんじゃ)は備前国一宮。岡山県にある。

そしてすごい磐座があり、宮司さんがしっかりまもっていらっしゃる。

長くなるから書かないが、わたしとダンナはずっと昔石上布都御魂神社の前に、埼玉県の秩父神社に行っていた。しかもたまたま(笑)。

 

そして他にもいくつかの出会いがあって、物部の縁の方には航空隊(いろんな時代をふくめてざっくりと)関係の方が多いということをここで確信したのである。

 
 
船橋屋本店には美しい藤棚がある。
昔は保育園とか公園に必ずあったのに、「藤のこぶがガンに効く」とかいう噂のあったころかどうか忘れたけど、あるときから藤棚が消えた。ありふれた木だったのにな。
 
船橋屋の名物は、くず餅。
くず餅といえば、池上本門寺。
 
なぜかというとダンナが生まれ育った場所があの辺で、子どものころ家族でよくいったんだそうだ。
わたしは関西人なのでわらび餅派で、くず餅は特にすきじゃないけど、彼とお義母さんにとってはソウルフードだ。
 
池上本門寺といえば、妙見。
お題目は「南無妙法蓮華経」。

 
伊勢平氏おじさんは若いころ、海で死にそうになったとき、習ったこともないのに「南無妙法蓮華経」が勝手に出てきて一心に唱えたら助かったのだそうだ。

 

 

 

南無妙法蓮華経のお題目の意味を
宇宙のリズムにあわせるっていう意味だと思うよ」とおじさんに言ったことがある。
 

南無阿弥陀仏は、阿弥陀様に帰依する。
南無妙法蓮華経は、妙法に帰依する。
 

わたしの理解では、妙法・蓮華経というのは、妙見。
北極星を中心にした宇宙のリズムだと思ってて、だから、「南無・妙法・蓮華経」っていうのは、宇宙のリズムにあわせる、ってことだと思っている考えている。
 
阿弥陀様は描かれている姿をみても、慈悲とかあって人に寄り添ってくれるけど、宇宙のリズムって人にだけ都合よくはできていない

阿弥陀様の意思に従うって平和にみえるけど、仏様に「情」があるといろいろ複雑なのだ。
「こっちがたてば、あっちがたたず」というではないか。
みなのこころが平和でめざすしあわせが同じだったらよいのだけどね。エゴはぶつかり合うからむずかしい。
 
 
もし自分に何らかの願いがあってこの「南妙法蓮華経」のお題目を唱えるとき、

「宇宙の意思にそぐうなら、この願い叶えたまえ!」

みたいな感じになるんだろうか。
 
 
なんかそれって聖徳太子のエピソードでみたような。
物部と戦ったときに祈願したとき、同じようなことを言っていたんじゃなかったか。
 
うなぎ屋さん。
天神信仰のあるところでは、うなぎを食べる習慣があるときいたことがある。
 
成田山でもうなぎ食べたけど?
そして三嶋大社でもうなぎをたべたし、出雲でも食べた。
大阪で一番有名なうなぎやは「いづもや」である。
 
なんかよくわからないが、どうもうなぎを食べる習慣のあるところにはなにか、神様の共通点があるらしい。
 
 
いきはよいよい かえりはこわい♬
自然に頭の中に流れてくる「通りゃんせ」
 
立派な太鼓橋。
この橋をわたったら彼岸。神様の領域である。
 
「通りゃんせ」は、この橋をわたるってことなのか。
でもね、神様の意識のままでこの世を生きるのは難しい
 
多くの人たちは神様や宇宙のルールではなく、人間のルールで生きている。

聖書にだって、そのように書いてある。
お釈迦様だって言っている。

この世は一切が苦だと。

 
 
 
 

すごい眺め。そして藤棚すごい。
ずいぶん長らく「行け」を放置していたが、きっと素直にきていれば、藤の咲き誇るころだったはずである。
 
すみません。
 
でも、ここのお庭がきれいに調えられているのをみて、自分の中にずっとあった「藤原のせいで」と教え込まれた棘のようなものがとけた。
 
かつて「国譲った」人たちは、子孫のしあわせのため、ヤマトタケル(がひとりだったのかはわからないが)の説く「天成の道」に従うことに決めたのだと思う。
 
そして、天児屋命を祖とする、藤原鎌足(中臣鎌足)は、それを残すために尽くしたのかもしれぬ。

出来事から遠くなるほどに、そのときの当事者の思いは忘れられ、(わたしがそう教わってきたように)今を生きるひとたちの不満感から清い気持ちで結ばれた約束事が陰謀と誤解されたりもしたのだろう。
 
 
でも、こうしてその慰霊の場が清く美しく保たれている、というのは、
 
「日本の国の真の歴史ならびに天成(あまなり)の道を子々孫々にのこすべし」
 
の約束事が果たされているということではあるまいか。

 

 
花がおわった藤棚をながめつつ、藤原氏に対する感謝の気持ちをかんじていたら、うっかり写真をとりわすれた。
 
天神さんだから、牛がいて、でもなんか「牛頭」ってでてきて、熊野?
成田山にもあった、牛頭。祇園社。
それに妙見。
なんなの、成田山でみたものが凝縮しているような。
 

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目に留まったのはこの方。
聖徳太子さんかと思った。
 
しかも歌が
 
美しや 紅の色なる 梅の花 あこが顔にも つけたくそある
 
お化粧願望??
いちおう菅原道真公は男性ということになっているが、「男なのに、女のように(霊感がつよくて)あれこれ言うから左遷されたのだ」ってきいたことがある(個人の意見)。


本質は女性だったのかな、なんだか、山岸涼子先生のマンガ「日出処の天子」の聖徳太子像にもどこか重なる。
 
 
昔、神子は女性だった。
政治には直接関係してなかったから、「いいとこどり」もできたのであろうが、政治に直接関わる立場の人が神様のお告げを下ろし始めたらきっと現場は大混乱したであろう
残念ながらそのころには人の世であったであろうから。
 
そういえば、クニトコタチもそうだ。
「うるさいことをいうので、神様と人間が共謀して、沓島と冠島の間に沈めた」と丹後の神人もおっしゃっていた。
 
出口なおの御筆先におりたのは、その神様だときいている。
 
出口なおは大本教の開祖とされているが、大本教は関係している人たちの話から想像するに、妙見=北極星(北辰)信仰とつながっていると思う。


植芝盛平翁の合気道も結局のところ「宇宙のリズム」にあわせるってことなんじゃないかな。
妙見信仰っていっても、鎮宅霊符とか、妙見宮に詣るとか、どこかの宗教団体に帰依するとか、そういうのではなくて、シンプルに「宇宙のリズム」にあわせていく、ってことだと思う。
 
わたしが素敵だなって思う人たちは、みんなどういうわけか、同じ感覚をもっている。
 
ただ、この「宇宙のリズムにのっていく」というこのあり方を「妙法」と呼ぶなら、これを持つということは、とても大きな責任を伴う。


宇宙のリズムにそぐわないことが叶わなければよいのだが、すべての波動は響き合ってこの現実世界は作られているのでそうならない。
 
わたしたちの思いの波動が、宇宙全体の平和にそぐわないものであっても、宇宙のリズムに影響してしまうのである。


そうして、過去にも、そうやって宇宙の中心である北極星が変わったのである。
今まさに地軸がずれてきた、言われているが、これは、北極星が変わる前触れで、たぶんいずれまたそうなるであろう。
 

 

 

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(男の姿をしていたけど、最古の女神バーラトリプラスンダリの化身であったバーラサイババ)

 

「今の世は、私たちが望んだ結果」

そういっても多くの人には私が伝えたいことはわかってもらえていない。

 

選挙で選んだから、とかそういうレベルのことではないのだ。

コロナでわかったとおもうが、多くの人は、不満はありながらも、今の世の中が続く方がいいのだ。



仕事はしたくないが、お金がない社会は困るのである。


 

わたしは「もうお金はいらないから働かない!」って人がいると思っていたが、あまり共感者はいなかったようだ。

 

これほどのことが起きながら、同じところに戻ってみなほっとしている。



緊急事態宣言が解除された日から、私の街はまたゴミだらけになった。

外国人観光客のせいだとみんなが思ってて、私もそうだと思っていたが、そうじゃなかった。

 

わたしが素敵だと思うことと、みなが思うことは違うことだってある。
だから、私が素敵だと思う方にあわせてほしい、って声高に主張するつもりはない。
 
 
だけど、宇宙のリズムに人間があわせるのではなくて、人間の願望に宇宙を従わせようとするならば、宇宙のリズムは新しい秩序へと向かう


そして、今生きている人たちの願望にあわせた現実が用意されるのであろう。
 
 
考えることはひとつだけ。

さて、新しい秩序の社会で、わたしはどのように、生きるのか、である。
 

 

もうすぐダンナのシロクマさんがなくなって1年になる。

そうだ、シロクマ=ホッキョクグマ、彼も北辰の仲間だったんだよね。

 

10年私を支えてくれて、先に北極にかえっていったシロクマひろさん。

 

葬儀をした教会の写真を彼の友人が送ってきてくれて、もうすぐ1年だなとふと思う。

そしてそこが鳥越神社の氏子地域だったことを思い出して、寄ることにした。

 

御祭神はできすぎだとしか思えない、日本武尊。

 

 

不思議な社紋だなと思った。

梅かと思ったら数が違う。

すると、こんな文が目に留まった。



日本伝承大鑑より引用)

しかし神社の由来書きにない伝承もある。それが平将門にまつわるものである。この鳥越神社は将門公の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となった。あるいは、将門の身体はバラバラにされて江戸各地に埋められたが、この鳥越神社には手が埋められているという。

この神社と将門を結びつけるものはいくつかある。神社の紋を【七曜紋】としているところ(将門の紋は【九曜紋】であり【七曜紋】も同種とみなされる)。また宮司である鏑木家は将門ゆかりの千葉一族の中でもかなり由緒のある家柄であることが、挙げられるだろう。全く縁もゆかりもない土地ではないわけである。

 

https://japanmystery.com/tokyo/masakado3.html



ちょっとまって、

将門?!

千葉一族、

そして、北斗七星。





七曜紋、そして月と星。

 なるほど、そうなのか。






北極に繋がってたしろくまさんが、この世を離れる場所として、この神社のお膝元の教会を選んだこともそうなってたんだな。


ちょうど、主の昇天の主日だった日曜日に「しろくまさんがあの教会で送って欲しかったから私たちを動かしたんだと思う」

と仲間からメッセージをもらったばかりだ。







そして、ここもまたキリシタン殉教の聖地。

そうなのだ、わたしたちは、まさにこのあいだ


続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁))出かけたときにサインが出ていた、札の辻の近くの教会で、イエス様とのご縁をいただいた。

本当にたまたま。



それは、カトリック教会で行われてたグループだったが、プロテスタントも聖公会の人も同じテキストで純粋に聖書を学ぶというプログラムだった。


洗礼を受けるつもりは別になかった。


わたしたちは、2010年、冬のカミーノ・デ・サンチアゴ1000キロを40日かけて歩いた。

聖なる年にだけ開く、赦しの門をめざして。

その門をくぐったものは、すべての罪が赦されるという赦しの門。



その旅の前にすでにわたしはそのプログラムの存在を聞いていた。そして、神様はわたしたちをお呼びになった。

わたしたちがいく、のではない。

神様がお召しになるのだ。




そしてわたしたちはもうひとつの殉教者の教会で洗礼をうけ、彼はその1年後にその教会で多くの人たちに見送られて旅出った。

日本武尊を祀る、そしてクマとつながる北斗七星ゆかりの神社のお膝元で。


きっともう2年くらい前からきているキリシタンとも関係がある。



そして今年のテーマは「麒麟がくる」の明智光秀、そしてその娘が、カトリック信徒である細川ガラシャだ。



 



通り道にあったペリカンのパン。

美味しいって言ったらよく買ってきてくれた。
本当にありがとう。最後に食べたのはいつだろう、前は一緒に食べたんだよね。

美味しいね、っていいあえるってなんで幸せなんだろう。

美味しいものも、そうでないものも、分かち合えるってすごい恵み。
一緒にいるときからずっと思ってたけど、ひとりのいまは特に身に染みる。


ひとりで美味しいなぁっていいながら、美味しいものを食べているんだけどね。


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