卑弥呼の時代の豊かな営み〜穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)とおぢば で書いたように、ヤマトタケルは、纒向(まきむく)・日代宮ゆかりの人である。ホツマツタヱは、穴師坐兵主神社による説明によると、ヤマトタケルの「日本の国の真の歴史ならびに天成(あまなり)の道を子々孫々にのこすべし」との遺言に従い、景行天皇がオオタタネコに命じて編纂させてたものだそうだ。
そして、ヤマトタケルは、草薙剣で、草をなぎ、それに火をつけて、火攻めをかわして身を守ったから、日本武尊は、火防の神として祀っているところがあるらしい。
火防の神といったら、わたしにとっては、ヒヌカンである。
離婚して東京に暮らして、わたしはなんか行き詰まったら沖縄によくでかけた。
「沖縄来たら連絡して」って与那原のヒロさんに言われていたから、その旅のあと、初めて沖縄にいったとき那覇空港の公衆電話から、与那原のヒロさんに電話した。
これはわたしのことを知っている人は心当たりがあると思うが、「本当にきたの?!」と驚かれた。
たぶん、当時のわたしはバックパッカーで(まあ、今もである)、当日の宿は観光案内所で手配するものだと思っていたから、宿もとっていなかったはずである。
記憶はないがわたしの沖縄といえば、伊江島土の宿だったから、土の宿に行ったと思われる。
(山中湖畔の石割山鎮座 石割神社)
与那原のヒロさんからは、「沖縄にきて島の子を産んでほしい」といわれたことがあって、琉球音階というのか、沖縄の音楽のルールや沖縄の言葉の発音、沖縄料理の作り方、沖縄の習慣、考え方など、「島の教育」を受けたが、沖縄の人と結婚することも彼氏ができることもなく、なぜか東京で「アフリカ放浪中の荷物を預かってくれる」という親切な関西人と出会って結婚した。
神事については言葉ではなにも教わっていない。
ヒヌカンすら知らなかったくらいだ。
観音堂のことも、首里城のことも聞いていない。
斎場御嶽がどんなところかも、久高島の存在すら教わらなかった。そしてあがりうまーいにも連れて行かれたが、連れて行かれた場所がどこなのかも。
でもわたしは入籍してすぐアフリカに旅立ったのでほとんど一緒に暮らしていない。
そして前に書いた(地を這う蚯蚓のように)ように、アフリカに行っている途中に「結婚してもらっているのが申し訳ない」と思って離婚した。
その後その彼の方は、与那原のヒロさんにアフリカに行って沖縄に来なくなったわたしの代わりみたいに沖縄に呼ばれてあれこれあったみたいだ。
彼とはアフリカに行く前にはじめての久高島に一緒に行った。
まだ斎場御嶽の入り口のそばに渡船ののりばがあったとき、「久高島行き渡船乗り場」って書いてあるから「そこに船があるからのる」というかんじで行った。
まだ鬱蒼とした森があるだけの寂れた島で、観光客などだーーーれもいないところだった。
斎場御嶽からの客ということで、特別にまつりの日なのに泊めてもらえたが、ご飯はなかった。
その日のことは見た景色の記憶しかないが、近頃当時の記憶を彼とすりあわせて(お互いに当時の記憶はほとんどない)、「トラクターに乗せてもらった」ということがわかったので、レンタサイクルもなかった時代に短い時間に、どうやってカベール岬までいけたのかわからなかったがそういうことだったのだろう。
久高島がイザイホーというまつりをやっていて、岡本太郎が追っていたとか、沖縄本島とは違う、大和言葉に近い言葉を話すとか、久高島の男たちの海洋技術はすごいもので、地球の果てまでサバニ(木のくりぬき船)で出かけて行ったとか、島の女は一度でも島の外にでたら神女になれなかったとか、イラブー(セグロウミヘビ)を伝統的な手法でとるとか、それを出雲大社の宮司さんがお忍びで調査にきたとか、そういうことは全部そこから10年以上が経過してから与那原のヒロさん以外の人たちから聞いた。
そして、与那原のヒロさんは、亡くなった夫とセラピスト仲間と御蔵島にドルフィンツアーにいって、UFOをみたちょうどその時に亡くなっていた。それは、年末に喪中ハガキを見て知った。
夫のシロクマ大好きひろさんとはちょうど10年一緒に世界中の聖地と日本の聖地を巡った。すべての日本のすべての県を回ったと思う。
(山中湖畔の石割山鎮座 石割神社)
それで、ヤマトタケルである。
火防の神で祀られてると、なにわの審神者(さにわ)がいってきた(シロクマ大好きひろさんが亡くなった後伊勢神宮でひきあわされたこの人もそういえばヒロさんである)ので、
火防の神は、沖縄ではヒヌカン、そして、それは、間違いなく久高島のイラブー(ウミヘビ)と関係してて、それは(神おくりの祭で)で書いたことがあるが、出雲の佐太神社の「お忌さん」だと告げた。
もっと有名どころでいえば、出雲大社で神在月に1週間だけ表に祀られる三宝に乗っかったウミヘビ「龍蛇神」である。
そして火防といえば、ヤマトでは、「三宝荒神」で、ヒヌカンとの共通点は「台所に祀る」。
三宝は、吉野の特産品である。鏡餅をのせるあれである。
その上にのっている、とぐろをまいた蛇(みーさん)=龍蛇神(出雲)=ヒヌカン(沖縄)=三宝荒神(不動明王・大日如来)
沖縄はすごく重要なまつりをしているのかもしれない。
そして、全家庭で火防の神(ヒヌカン)を祀っているのに、琉球王朝のシンボルである首里城が火災にあったというのは、大変なこメッセージなのだと思われる。
明治陛下といえば、伏見。
18年秋、明治神宮で火事があったあと、19年夏、伏見の京都アニメーションの事件があり、そして秋に首里城が焼けた。
首里城火災のニュースは、亡くなった夫のひろさんの散骨で北極にいって帰国途中にきていた元パートナーからのメールで知った。
火防の神と、ヤマトタケル、そして、沖縄。
もしや、ヤマトタケルが
「日本の国の真の歴史ならびに天成(あまなり)の道を子々孫々にのこすべし」
と遺言し、景行天皇がオオタタネコに命じて編纂させたホツマツタヱで残したかったことには、それがあるのかもしれぬ。
そして、その纒向・日代宮には、「たまき」山古墳があるのである。
そう、そして纒向は、卑弥呼の居たといわれる場所なのである。
とりあえず、今日はここまで。
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