ヤマトと卑弥呼と沖縄と 〜伊江島の神様が宇宙人ヒロをとおして25年かけて伝えてきたこと | かんながら

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旅の記録です

 
 
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(山中湖畔の石割山鎮座 石割神社)
 
最近、まわりではヤマトタケルがきている。

卑弥呼の時代の豊かな営み〜穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)とおぢば で書いたように、ヤマトタケルは、纒向(まきむく)・日代宮ゆかりの人である。ホツマツタヱは、穴師坐兵主神社による説明によると、ヤマトタケルの「日本の国の真の歴史ならびに天成(あまなり)の道を子々孫々にのこすべし」との遺言に従い、景行天皇がオオタタネコに命じて編纂させてたものだそうだ。

 

そして、ヤマトタケルは、草薙剣で、草をなぎ、それに火をつけて、火攻めをかわして身を守ったから、日本武尊は、火防の神として祀っているところがあるらしい。

 

火防の神といったら、わたしにとっては、ヒヌカンである。

ヒヌカンとは、沖縄には必ず代々その家の主婦が引き継いでいく火伏せの神で、台所に置く石三つの神様である。
 
 
(斎場御嶽の三庫理(さんぐーい)
 
 
沖縄に最初にいったのは25年前になる。阪神淡路大震災の年(1995年)だと思う。
 
アル中仲間のコロさんと、その友達のアラノンっぽいおばちゃんと、そのおばちゃんの作業所の仲間のおにいちゃんとわたし、という4人旅。
 
わたしはコロさん以外の人たちとはその旅が初対面。
たぶんそのお兄ちゃんもおばちゃん以外は初対面。
 
コロさんとおばちゃんがどこでどうつながっていたのかは知らない。
コロさんは障がい者の作業所をやっていたから、その関係の知り合いだったのかもしれない。
 
わたしはなにがどうなってそうなったのかまるで覚えていないが、震災の前くらいからおかしくなってしまい、コロさんと出会い、彼の作業所に「ただ(利用者さんの)話し相手をしてお茶飲んでるだけでよい」と言われてときどき遊びにいっていた。
 
あるとき、「沖縄に研修旅行にいこう」と言われたのだが、わたしはビーチリゾートは嫌いなので秒速で断った。
わたしは山ガールであった。すでに結婚して子どももいたが。
 
でもそういうところではない、伊江島という場所に「土の宿」というところがあって、そこに障がいを持った女性がやっていて、福祉モデルとしてすばらしいから、とにかく行こうと熱心にさそわれたのだ。
 
今思えば、互いに結婚しているコロさんとおばちゃんがふたりでいくのは、なんとなく支障があったのであろう。
そういうところはわたしは鈍いのでよくわからなかった。
 
まあ、ふたりは親友(ソウルメイト)で、お互いの配偶者もよく知っているようであった。
 
あまりにも熱心に誘うので、いくことにした。
 
(斎場御嶽にて)
 
誰の目からみてもわたしたち4人は家族づれにみえるらしく、
 
「仲のいいご家族ですね」「家族旅行ですか」と言われた。
 
そのたびにおばちゃんは、
「そうですねん、美人母娘っていわれてますねん!」
とか超絶ノリノリで家族旅行のふりをして、みんなが信じるのを喜んでいた。
 
家族どころか数時間前に空港で会ったばかりだ。
 
 
そしてその「土の宿」でわたしはひとりのおじちゃんと出会う。その人が与那原(よなばる)のヒロさんであった。
 
 
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(山中湖からの富士山)
 
 
その旅の顛末を話すとほんの2泊3日の旅行であったが、
 
わたしは、その旅を終えて帰って、離婚することになり(しかも実家に黙って)、大阪で就職活動するも見つからず、東京で薬局の仕事がみつかって(東京にはたくさんみつかったのに、大阪で決まらなかったのが不思議でならない)消息不明に、
 
その年の冬におばちゃんは、インフルエンザにかかって全ての記憶を失って、
 
コロさんは、その後しばらくして、多くのアル中の人がそうなるように肝がんで亡くなった。
 
 
おにいちゃんその後の消息はしらない。なぜならメンバーで、おばちゃんしか彼の消息を知る人はいなかったから。
 
 
そしてわたしはコロさんの葬儀にもいっていない。
なぜなら、行ってもコロさんはそこにいなくて、知らない人(コロさんの家族)に何を話していいのかわからなかったからだ。
 
今は、葬儀は遺族のためのものだとわかるようになったが、当時のわたしは人間社会の教育を受けてこなかったから知らなかったのである。
 
 
3日間限定の不思議家族。
旅をしたのも会ったのも、このとき1度きり。
 
 
いつも思うが、出会いというのは、本当に、一期一会である。
「いずれまた」などという機会は訪れないのである。
 
 
本当にあの旅行は何の違和感もなく家族旅行ってかんじだった。
わたしにとっては初めての家族旅行。
母子家庭でしかもひとりっ子で育ったから、いわゆる家族旅行にいったことがなかったから。

 

 

 

離婚して東京に暮らして、わたしはなんか行き詰まったら沖縄によくでかけた。

「沖縄来たら連絡して」って与那原のヒロさんに言われていたから、その旅のあと、初めて沖縄にいったとき那覇空港の公衆電話から、与那原のヒロさんに電話した。

 

これはわたしのことを知っている人は心当たりがあると思うが、「本当にきたの?!」と驚かれた。

たぶん、当時のわたしはバックパッカーで(まあ、今もである)、当日の宿は観光案内所で手配するものだと思っていたから、宿もとっていなかったはずである。

 記憶はないがわたしの沖縄といえば、伊江島土の宿だったから、土の宿に行ったと思われる。

 

 

(山中湖畔の石割山鎮座 石割神社)

 

与那原のヒロさんからは、「沖縄にきて島の子を産んでほしい」といわれたことがあって、琉球音階というのか、沖縄の音楽のルールや沖縄の言葉の発音、沖縄料理の作り方、沖縄の習慣、考え方など、「島の教育」を受けたが、沖縄の人と結婚することも彼氏ができることもなく、なぜか東京で「アフリカ放浪中の荷物を預かってくれる」という親切な関西人と出会って結婚した。

 

神事については言葉ではなにも教わっていない。

ヒヌカンすら知らなかったくらいだ。

観音堂のことも、首里城のことも聞いていない。

斎場御嶽がどんなところかも、久高島の存在すら教わらなかった。そしてあがりうまーいにも連れて行かれたが、連れて行かれた場所がどこなのかも。

 

 

 

でもわたしは入籍してすぐアフリカに旅立ったのでほとんど一緒に暮らしていない。

そして前に書いた(地を這う蚯蚓のように)ように、アフリカに行っている途中に「結婚してもらっているのが申し訳ない」と思って離婚した。

 

その後その彼の方は、与那原のヒロさんにアフリカに行って沖縄に来なくなったわたしの代わりみたいに沖縄に呼ばれてあれこれあったみたいだ。

 

彼とはアフリカに行く前にはじめての久高島に一緒に行った。

まだ斎場御嶽の入り口のそばに渡船ののりばがあったとき、「久高島行き渡船乗り場」って書いてあるから「そこに船があるからのる」というかんじで行った。

まだ鬱蒼とした森があるだけの寂れた島で、観光客などだーーーれもいないところだった。

斎場御嶽からの客ということで、特別にまつりの日なのに泊めてもらえたが、ご飯はなかった。

 

 

その日のことは見た景色の記憶しかないが、近頃当時の記憶を彼とすりあわせて(お互いに当時の記憶はほとんどない)、「トラクターに乗せてもらった」ということがわかったので、レンタサイクルもなかった時代に短い時間に、どうやってカベール岬までいけたのかわからなかったがそういうことだったのだろう。

 

 

久高島がイザイホーというまつりをやっていて、岡本太郎が追っていたとか、沖縄本島とは違う、大和言葉に近い言葉を話すとか、久高島の男たちの海洋技術はすごいもので、地球の果てまでサバニ(木のくりぬき船)で出かけて行ったとか、島の女は一度でも島の外にでたら神女になれなかったとか、イラブー(セグロウミヘビ)を伝統的な手法でとるとか、それを出雲大社の宮司さんがお忍びで調査にきたとか、そういうことは全部そこから10年以上が経過してから与那原のヒロさん以外の人たちから聞いた。

 

 

 

そして、与那原のヒロさんは、亡くなった夫とセラピスト仲間と御蔵島にドルフィンツアーにいって、UFOをみたちょうどその時に亡くなっていた。それは、年末に喪中ハガキを見て知った。

夫のシロクマ大好きひろさんとはちょうど10年一緒に世界中の聖地と日本の聖地を巡った。すべての日本のすべての県を回ったと思う。

 

(山中湖畔の石割山鎮座 石割神社)

 

それで、ヤマトタケルである。

火防の神で祀られてると、なにわの審神者(さにわ)がいってきた(シロクマ大好きひろさんが亡くなった後伊勢神宮でひきあわされたこの人もそういえばヒロさんである)ので、

 

火防の神は、沖縄ではヒヌカン、そして、それは、間違いなく久高島のイラブー(ウミヘビ)と関係してて、それは(神おくりの祭で)で書いたことがあるが、出雲の佐太神社の「お忌さん」だと告げた。

 

もっと有名どころでいえば、出雲大社で神在月に1週間だけ表に祀られる三宝に乗っかったウミヘビ「龍蛇神」である。

 

 

そして火防といえば、ヤマトでは、「三宝荒神」で、ヒヌカンとの共通点は「台所に祀る」。

 

三宝は、吉野の特産品である。鏡餅をのせるあれである。

 

 

その上にのっている、とぐろをまいた蛇(みーさん)=龍蛇神(出雲)=ヒヌカン(沖縄)=三宝荒神(不動明王・大日如来)

 

 

みーさんは、三輪の神である。
 
能「三輪」で、
思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事 いまさら何をいわくらや」とあるように、三輪の神と伊勢の神は、同体である。
 
 
すると、沖縄のヒヌカンは、伊勢の神を祀っていることになる。
 
ヒヌカンは「ひの神」であろう。
ひは火と同時に日であろう。
 
ということは、天照大神かもしれぬ。
 
 
 
やんごとなきお方から、なぜ天皇が男系でなければならないかについて、
 
 
「天照大神のDNAを正確に引き継ぐため」
 
 
と教わったことがある。
 
 
 

沖縄はすごく重要なまつりをしているのかもしれない。

そして、全家庭で火防の神(ヒヌカン)を祀っているのに、琉球王朝のシンボルである首里城が火災にあったというのは、大変なこメッセージなのだと思われる。

 

明治陛下といえば、伏見。

18年秋、明治神宮で火事があったあと、19年夏、伏見の京都アニメーションの事件があり、そして秋に首里城が焼けた。

首里城火災のニュースは、亡くなった夫のひろさんの散骨で北極にいって帰国途中にきていた元パートナーからのメールで知った。

 

 

火防の神と、ヤマトタケル、そして、沖縄。

 

 

もしや、ヤマトタケルが

 

「日本の国の真の歴史ならびに天成(あまなり)の道を子々孫々にのこすべし」

 

と遺言し、景行天皇がオオタタネコに命じて編纂させたホツマツタヱで残したかったことには、それがあるのかもしれぬ。

 

そして、その纒向・日代宮には、「たまき」山古墳があるのである。

卑弥呼の時代の豊かな営み その2〜穴師坐兵主神社とおぢば

 

そう、そして纒向は、卑弥呼の居たといわれる場所なのである。

とりあえず、今日はここまで。

 

 

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