薬が治すのではなく、自分が治るのだ | かんながら

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旅の記録です

今週は雨になるらしい。
雨は雨の楽しみがあって、雨がないと会えない生きものたちもいるから好きなのだが、光のボリュームによって体調を崩す私としてはとてもしんどい。
 
今までは具合が悪くなる前に旅にでていたが、コロナのおかげでなかなか難しい。
しかも「近所の目があるから」と受診すら自粛しなければならぬ。
 
わたしはかれこれ4半世紀、カウンセリングやホメオパシーなどの統合医療や、内観療法、自己啓発、あらゆるスピリチュアルな技法を自分自身がそれを教えるレベルまで取り組んでやりくりしながら折り合ってきたが、そういうスキルがなければ今のこの状況を耐え忍ぶのは難しかったと思う。

 

 

 
でも、人に教えてもらったのは一番最初だけで、ほとんどは自分自身が実験台の自学自習。
 
だから、確信がある。
 
 
薬が、セラピーが、医者が、治すのではない。
自分(自己治癒力)が、治すのだ。
 
 
 
薬学を学んでいた学生時代、「結局、治すのは生きた人間の身体の働きなんだな」って気づいた。
だって、亡くなった人に薬を与えたって生き返らないのだから。
 
「反応」を起こすことはできても。薬でできるのはそこまでだ。
生命力というものがあるからこその、薬であり、セラピーであり、治癒なのである。
 
 
 
でも、この世の中は、すべてが反転してる。
 
薬が、セラピストが、ドクターが、治してくれると考える。
 
 
ちゃんとしたセラピストやドクターは、「あなたが治すんですよ」と言ってくれるし、
治癒したときに、「あなたが治したんですよ」と言ってくれる。
 
わたしが信頼するドクターやセラピストはそういう人たちであった。
わたし自身も、自分の力とは思っていない。
 
高龍神社のおみくじにも書かれていたが、
「自分の力と思ったときが転落のはじまり」
と思って気をつけてもいる。
 
 

 
「薬が治すのではない、自分が治るのだ。」
 
いつのまにか、そんな当たり前のことを忘れるようになってしまったから、
「治るちから」が弱まってしまったのだろうなって思う。
 
わたしの周りには、健康な人がとても多いが、自分も含めてみんなこの宇宙の真理を知っている。
 
そして同じように「自分の現実は自分が創っている」ことも知っている。
病気、家庭の問題、職場の問題、それらは全部自分自身が創っていることだ。
 
みんな、
 
嫌な同僚がいるから、会社に行きたくないとか、
夫が家事を手伝わないから、結婚生活に不満だと思っているが、
 
自分自身のありように不満があるから、夫の至らなさが目につくのであるし、嫌な同僚のことを気に病むのである。
 
たましいが、自分の現状に NO!とダメ出しするから、それらが浮かび上がるだけのだ。


 
 
だから、どんなに夫を変えようとしても、同僚を変えようとしても無駄である。
ダメ出しされているのは、自分自身のありようなのだから。
 
 

夫を変えることに成功しても、同僚を別の部署に異動させることに成功しても、

たいてい次なる問題がさらに難易度をアップして目の前にさしだされてくる。




 
 
 
コロナ問題の行方をみていて、世界中の反応(報道を通しての)をみていて、おおむねこの世は受動的な人たちがマジョリティなのだなとかんじる。
だから、こんなにも平和で静かなのであろう。
わたしの周りの人たちのようなのがマジョリティだったら、このように「統制」は取れなかったと思う。
ただ、もともと群れるのが好きでない人たちだから、「密」にはならなかったと思われるが。
 
わたしの友人たちは、自分自身で理解して防衛しており、また自己治癒力の高い人たちなので、コロナにかかりにくそうであるが、多くの人はそうではない。
 
だから、治療薬やワクチンが必要なのだ。
 
 

 
コロナのおかげで、こんなにも静かで豊かな時間である。
 
世の中がこんなに「しんとしている」ということは、どれだけ不要不急なことでこの世の中が満たされていたか、ということである。
 
不要不急なことなどしなくていいのだ。
 
 
水月観音の遊戯坐像
月を水に写してみていらっしゃるところ。