”地を這う蚯蚓(みみず)のように” 〜あのとき、蚯蚓を選んだ | かんながら

かんながら

旅の記録です




今日はある方から宿題をもらったので、とても個人的なことを書く(しかも長い)。


 

わたしは今までに全然違う人生を少なくとも3種類生きている。

 



結婚回数が多いので(つまり別れも多い)、ある意味当たり前なのかもしれないが、はっきりとした転機があって、それをきっかけに全く違う生き方をしている。

人生も長くなってくると、振り返れるだけのデータを備えるのでいろいろわかることも出てくるので助かる。

 



ある人は「憑き物がつく」とでもいうのだろうし、実際にそうなのかもしれぬ。

でもそれは検証できないことので、霊のせいにしない、というのがわたしの基本的なスタンスである。

 



その3つの人生の変わり目のひとつは、阪神淡路大震災。そしてもうひとつは、東日本大震災。

 


阪神淡路大震災前のわたしは、(おそらく)普通の人の心を持った一般的な娘だった。


眼に見えるものを揺るぎない現実と信じて、「常識」に適応して生きていた。常識から外れる人は嫌いで、迷惑だと思っていた。

どちらかというと、なんでも人のせいにして、自分は悪くないとか、はっきりいって「嫌なタイプ」の女だった。嫌な女だったが男性にはモテた。

自己評価が低くて自分では「モテる」と思ったことはなかったが。

 



阪神淡路大震災がきっかけで、今までの価値観がすべてぶち壊され、わたしは空っぽになり、わたしは自分の意思よりもっと大きなものがわたしのことも、世界も動かしていると感じるようになった。

常識を常識と思えなくなり、非常識で迷惑極まりない人間になった。


 

その代わりなぜか「こうしたらこうなる」というのが自分なりにわかるようになった。いわゆる「視えるようになった」というもののようで、半ば強引に連れて行かれた伊江島で、もう故人である沖縄のおじさんに出会い、「サーダカ」と呼ばれて、いろんな聖地に連れて行かれた。まったく興味はなかった。なにもない場所に連れていかれただけだからだ。

ちなみに今は世界遺産の斎場御嶽もその人に連れて行かれた。世界遺産になる前で、大きな岩があるただの茂みであった。

 

池の前で「(このすごさが)わからんか?!」と言われた。

「うん」と答えた。

連れて行かれた先が、あがりうまーいという聞得大君が就任する前にまわる拝所だと知ったのは、それから20年経ってからである。

 

久高島にご縁ができたのも、沖縄の神様にご縁ができたのも阪神淡路大震災がきっかけである。

このあと、アフリカに行った。そして2年ばかり帰ってこなかった。

 


そして東日本大震災。

人間の欲望は、無限に大きくなるもので、原子力発電というものそのものが、人の欲のエネルギーと同じ形なんだなと思って、それまではいわゆる「スピリチュアルな仕事」をしていたが、それが恐ろしくなって、人と距離を置いた。

そして、昨年死別した夫と結婚して、なぜか日本の神様を訪ねる旅をするようになった。

 

 

でももっと細かくみていくと、10年くらいの単位で節目があって、節目、というか転機であって、違う人生である。

そして、もっともっと大きな転機に気がついた。

 

その「アフリカにいった」というときが、自分にとって、Before / After が違いすぎる、大きな転機だったと思いいたった。

 

そしてそれは自分にとって「とてつもない転換点」であって、そこから自分の人生は大きく変わってしまった、と気づいた。

「変わってしまった」というか、自分であえてそう選択したのだが。

 

 

わたしは蚯蚓(みみず)になることを選んだ。

それは、西アフリカを旅しているときだった。

 

 

思い起こせば、わたしの「アフリカ前」の人生は、はっきりいって「勝ち組」人生であった。

子どもの世界では浮いていてずっといじめにあっていたが、力のある人にはいつも引き立てられていた。

面接試験では落ちたことがなかった。

どんなところにいっても「贔屓」されていて、特別扱いであった。

 

でも、「アフリカ後」は、「普通」、ともすると「負け組」に転落した。

「アフリカ後」は部屋も仕事もみつけるのにとても苦労した。

今までに体験したことのない種類の苦労であった。

 

今回振り返るまで、それに気づいてもいなかったのであるが。

スピリチュアルな感覚というのは、「お花畑」という人もいるが、苦労を苦労と思わないという便利な側面をもっている。

 

 

 

先日、丹後の小長谷修聖先生から、

 

「空高く飛べれば龍に、できなければ、地を這うミミズになる。」

と繰り返し伝えられたわたしは(丹後からの、W出石神社そして播州への旅(その2:丹後から但馬國一宮・出石神社)

 
ミミズのことをずっと考えていた。
 
そして、ブログ(地を這う蚯蚓のように)で書いたように、わたしは蚯蚓(ミミズ)でいいやと思い至った。

 

そして、過去の記事(姫神を訪ねる旅〜番外編  夢のこと、呉のこと渋谷今昔)でも書いたが、明治神宮の美しさ、ご神力は、ミミズや微生物、みえないものの力の重なり合いでつくられており、わたしはこのどうしようもない自分が、明治陛下の大御心に少しでも叶うことができるのであれば、喜んで蚯蚓(みみず)になろうと思ったのである。

 

やはり巫女の希望者は多くても、ミミズのなり手は少なそうだと思ったのである。

わたしは、競争が苦手なのだ。

正直に告白すると、わたしは勝負事は絶対に負けたくない、負けず嫌いな性質なので、そういう競争に関わるとわたしは心の平安をこっぱ微塵に吹き飛ばされるからである。

 

♬ミミズだって オケラだって アメンボだって みんなみんな 生きているんだ ともだちなーんーだ♬

(やなせたかし作詞)

 


と歌いながら、明治陛下の大御心はこれだと思ったのである。

だからこの自然の森をおつくりになられたのだと。

 


そして、ミミズやオケラ、ときには「バイキン」と呼ばれる微生物の気持ちになって、泣けてきた。

わたしは子どものとき、まわりからとても浮いていて、いじめられていたのでよく「バイキン」呼ばわりされたからだ。

 

「バイキン」は孤独だった。

誰かにかばわれたかったし、仲間に入りたかった。

 

 

両親は生まれてすぐ離婚して、ほとんどの時間を一人で過ごしたので、わたしの対話相手は「自分」であった。

それをひとはよく「内なる神の声」と呼ぶようである。

 

人生全般でそうして「仲間」の輪のなかに入ったことは一度もない。

いじめは高校で進学校に入学できておさまったが、周りとは浮いていて居心地が悪かった。

社会にも会社にも馴染めなかった。

 

唯一、こんなわたしを受け入れ、わたしもなじめた会社があり、そこは人事部の人が「うちは動物園ですから」と常々言っていた。

そしてそれも不思議なことに夏の八ヶ岳で伊勢平氏おじさんとその終わりについてのニュースを目撃するという不思議を体験した。それはただのニュースではなく、彼の痛い過去とオーバーラップするもので、彼の長年のわだかまりが嘘のように消えるというおまけつきであった。

 

わたしが「仲間」と出会ったのは、地震がきっかけで自分自身が壊れて、アディクションの仲間にであったのが最初である。そしてそれはとてもスピリチュアルなグループで、いわゆる「人間関係」ではなかった。

 

そして、自分自身がスピリチュアルな集まりをするようになり、そこに集まってきた人たちは私と同じタイプの「生きづらさを抱えた人たち」で、その人たちがわたしにとっての最初の「仲間」である。

 

そして、メンバーは、必要な時だけいて、去っていくし、また戻ってくることもある。

わたしはそういう人間関係が気楽でいいと思っているが、昔のパートナーに「あなたはUSBだっ!」と罵られたことがある。

わたしはそれでいいと思うし、わたしの友人はもれなくそう思うようだが、普通の人は違うと気づいたのは、40歳を過ぎてからである。

 

わたしは確かに母にも祖父にも祖母にも世話になり、育ててもらったが、ほとんどの時間を「人間でない存在」と一緒にいたので、人間の本来もっている「情」のようなものを教育されていなくて、情が薄い(つまり薄情)なのである。

情というのは、持って生まれたものではなくて、人から教わるものなのであろう。

 

わたしの友人の多くも、子どものときから自分と対話していたという「孤独な人」である。

そしてもれなくスピリチュアルですごくモテている。特に男友達がそうである。

 

アフリカを旅しているとき、わたしには「あなたという花を咲かせる土になる」という手紙をくれた、とても素晴らしいパートナーがいた。

 

彼は私がアフリカ縦断キャンプに出ることを知っていて、荷物を預かってくれるといって預かってくれていたのだ。わたしは家出同然というか完全に家出して東京に出てきて生活していたので、頼る人がいなかった。

アフリカに行こうにも、最低限とはいえ荷物もどこかにあずけねばならないし(半年以上の渡航予定だったので、はじめから部屋は引き払うつもりだった)、すごくありがたかったのである。

 

でもわたしは「USB体質」なので、やってあげることも、やってもらうことも自然体だった。

そして、それで疲れることもなかった。

嫌なこと、しんどいことは「ひきうけない」薄情な人間だったからである。

 

でも彼からの手紙を読んだとき、わたしの中でなにかがひっかかった。

わたしが花で、彼が土。

彼の人生はどうなっちゃうんだろうと、変な「感情みたいなもの」が働いたのである。

彼をそこないたくなかった、とでもいうのだろうか。

 

思えば、今までのわたしの人生にはそういうことはなかった。

 

 

わたしは、アフリカが気に入ったら、彼が日本で待っていようがアフリカに残るであろうし、そういう身勝手な人間だということを自覚していた。

彼を土という踏み台にして、自分の花を咲かせる気にはなれなかったのだ。
 
でも、今思えば、それでよかったのだと思うのだ。
人は自覚していようがいまいが、誰かの世話になって生きている。
迷惑をかけないで生きられるという考えがとんでもない思い違いなのである。
 
 
そして、花、虫、動物、微生物、空気、ひかり、この宇宙の中で与えられた使命を生きるだけなのだ。
花は花として、亀は亀として、貴族は貴族として、そして貧しい国で生まれたら、その運命を生きなければならない。
 
もちろん、人間は、今いる場所の環境を変える力はある。
だから、貧しい境遇で生まれたら、ずっと貧しい境遇に甘んじなければならないのとは違う。
でも、金持ちに生まれた人より、金持ちになるにはずっと苦労するだろう。
 
 
そして、おそらくそのとき、「ミミズ」の人生を選んだのである。
 
 
 
それで、何日か考えて(ただ移動し続ける旅なので、考える時間だけはたくさんある)、西アフリカの小さな国の公衆電話から、彼に「離婚してほしい」と電話した(ようだ)。理由は、「実態は結婚していないのと同じで、申し訳ないから別れたい」みたいなことをいった。そして彼は「僕もそう思っていた」といってあっさりOKしてくれた。

 

だから彼が「当時はとてもショックだった」とあとから聞いて驚いた。
 

 

もうはっきりとは思い出せないが、西アフリカの結構過酷な環境を旅しているときで、その前後にわたしは高熱を出して、マラリアと診断された。
何週間かは空港もないエリアを陸路で旅せざるをえず、改造トラックで移動しながら高熱で意識朦朧の数週間を過ごした。
だからその道中のことは、数枚の写真があるだけでほとんど思い出せない。
 
でも、その途中でわたしはある写真家と出会い、自分が別れた子どもに会わせてもらえない状況にあるということを話し、そして彼の離婚の話を聞いた。
それから10年以上の時を経て偶然日本で再会し、よりによって、同じタイミングで子どもと面会させてもらえないという問題を共に抱えているという、偶然にしてはできすぎのおまけつきであった。
 
ようやく大きな空港のある街にたどり着き、そこから日本に一時帰国した。
帰る先はもちろんないので、厚かましくも彼の家である。
 
そこで再び居候生活をさせてもらい、そして日本で治療をしてアフリカに戻った。
なんと、マラリア原虫はみつからなかった。
もしかしたら、あれは、マラリアではなかった、ということだ。
だったらなんなのか?それはもうわからない。知恵熱?それにしては生きていることが奇跡といわれるほどの高熱であった。
 
あのとき、細胞全部入れ替わったのではないかと思われる。
パートナーは、強制的に一時帰国させられたわたしを受け入れてくれ、行くあてのないわたしを部屋に泊めてくれた。
 
本当にいい人なのである。
そして彼もまた孤独が好きな人であった。
 
つきあっていたときも、彼はひとりで夜な夜な「深夜の散歩」に、休日は趣味の運動に、とにかく部屋にいなかった。
だからわたしはアフリカ行きが間近になって、家を引き払ったため、彼の家に居候しても話し相手は、アル中仲間だったりネット仲間だったりした。
独身時代となにもかわらなかった。
 
そして彼はわたしよりカメの方に親しみがあった(と思っていた)。
そんなだったから、いつまでも独身でいるのは差し障りがあるので結婚しようっていったんだな、って思っていたくらいである。
「ペーパー結婚」だと思っていたので、「違う」と思ってあっさり離婚できた。
 
これもまた、あとになってから、彼の思いはわたしが思っていたこととは異なることを知るのであるが、その当時は私はそう信じていた。人生にはみえない力が働いたとしか思えないことがよく起こるものだ。
 
 
そしてミミズを選んだわたしは、その後今までに体験したことのない苦労を山のようにした。
 
アフリカから帰国しなければならない事情ができて、日本に帰ったが、そこからは苦労の連続であった。
 
まず家探し。
そして仕事探し。
 
これだけでそれぞれ本一冊分くらいのネタがつまっているから、今回は書かないが、すごい体験をたくさんした。
そのおかげで今どんな相談を聞いても、大丈夫、という言葉を確信を持って言える。
 
このときを境に、わたしははじめて「普通の人」の苦労を知ったような気がする。
なんだかんだいって、わたしはすごく恵まれていたのだ。
いつも誰かが助けてくれた。
 
結局、誰かが助けてくれたのだが、一通りの苦労を体験してから、という流れになったのだった。
 
 
そしてそこから20年が経って、やっぱりミミズではダメだと思い始めた。
ミミズを守ってやるには、自分がミミズではダメだと悟ったからである。
 
ある人は、「令和の世は、地獄の釜のふたがあき、皆で弥栄する」と予言していた。
魑魅魍魎も聖なるものも、共に暮らす。
それが地獄になるのか、天国になるのかは、わたしたちひとりひとりの心のありようにかかっている、と感じている。