初午は、箭弓(やきゅう)稲荷神社へ (追記あり) | かんながら

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旅の記録です


 
 
獅子座の満月。
そわそわする人多し。
 
初午の日。ということをTwitterで知るという。
ダメだ。ずっと気にかけていたのに。
 
亡くなったダンナは午年だった。丙午。
午年と子年の人はスピリチュアルらしい。
 
 
 
 
最初にダンナを病院に運び込んだ病室から見たこの景色。
映画「天気の子」の冒頭で見て驚いた。
全部予定されてたことだったと思い知った。
うがふくさんに出会う前の出来事である。
 
 
東松山駅は意外にも乗り換えなしで行けた。
でも本を読むつもりがすぐ気絶。
目を覚ましたら川越だった。
 

川越といえば、
 
いも、お菓子、街道沿いで、ガソリンが安い。
 
最近すごくひきがある川越。
きっと稲荷もあるだろう。
そしてたぶん遊郭も。
 
 
 
 
今日は東松山市の箭弓(やきゅう)稲荷神社に。
電話で問い合わせたら、ここの初午は旧暦だから3月と言われたけど、気になっていたのできてみた。
 
 
ガイドさんにお聞きしたところ、このエリアは旧暦なのだそうだ。初午だけでなく、お盆も8月。
関東では珍しい。
このエリア、不思議なエリアでかつては集落ごとにお盆も違ってて、
最近になって旧暦で統一することになったのだそうだ。 
 
 
そして箭弓稲荷神社の御祭神は保食神。
 
 
しかし、
 
 

(箭弓稲荷神社HPより)
 
 
社務所で聞いてみた。
男性神だと。
そしてこの方が御祭神だとの回答。
 
たしかに千木は垂直に切れている男千木であった。
 
そしてお狐さんでもなかった。
 
そのことをfacebookで披露したところ、
丹後にある興味深い伝説を教えてもらえたので、追記しておく。
 

味取の俵石【みどりのたわらいし】

 

その昔、食物の神である保食命とその姫が力をあわせて俵石を運んでいました。大量に運んだところで姫が「もういくら運んだでしょうか」と保食命にたずねます。保食命はそろばんを使い計算し始めましたが、近くの川の流れる音が大きいため、何度計算し直しても正確な数が分かりませんでした。「川水ども静かにせよ」と叫ぶと川音はピタッと止みましたが、それでも正確な数は分かりません。姫は、正確な数も数えられないような不甲斐ない男に連れ添っていてはいけないと、保食命を置いて去っていってしまった。

 

この伝説にでてくる保食神は計算できない男神ということになっている。

 

 

 
 
 
 
でも奥宮のうらの茂みにはたくさんのどんぐりが。
これが保食神のいたしるし、と私は思っている。
銀杏か、どんぐり。
縄文のめがみのしるし。
 
 
 
 
 
 
古い方の手水鉢。
舟形?
 
 
 
お狐さん
 
 
 
 
彫刻はとても立派。
 
 
 
左側は象。
平和な世の中になると、麒麟がくるんだって。
 
善政を、待ち望んでるってことなんだって。
テレビないのでわからない。
 
わたしにとっては、偶然に訪れた山崎からの明智光秀公。丹後からの、W出石神社そして播州への旅(その1:大山崎・石清水八幡宮の秘密編)
 
そしてわたしの洗礼名はガラシャである。
ガラシャはGratia 英語ではGraceで、(神の)恵という意味である。
 
獏もいた。そして火伏せのため?龍神が本殿に多数彫られていた。
 
昭和24年の午の日に、100軒を焼く火事があり、それから午の日の前日に火伏神事が行われるようになったそうだ。戦後に始まった新しい神事なのである。
 
 
太平洋戦争中に代々この神社を祀ってきた家の神職が亡くなり、社家が絶えて、紆余曲折あって今があると言うのとなにか関係があるのかも?
 
そして、「ここの宮司は地元の人しかなれないんですよ。いまどきおかしいですよね」っておっしゃったのだけれど、神社が「場」であるならば、その「場」を理解している人でなければ祀れないであろうし、それは合理的だと思ったのだが、「いまどき」の考えではないらしかった。
 
鳥居が不思議な位置にあったりなんか不思議?
 
 
ちなみに箭弓稲荷神社からの狐が川越で捕まって食べられて、川越で祟りと恐れられる事件があって、できたのが雪塚稲荷神社らしい。
 
 
来る途中、ふともしや、と思ってGoogle地図をみたら、入間(航空)基地がすぐそばに。
関東の地理疎いのよね。
 
すごく気になって行こうと思ったのだけど、今日はなんかお腹いっぱい。
 
入間基地のすぐそばにちゃんとあった、稲荷山。
 
あると思ったんだよね、なぜあるのかはわからないけど。
わたしの中でセットなのである。
航空隊と物部、そこにある妙見、そして妙見と稲荷。
 
わたしの数少ない訪問の中での偶然の一致に過ぎないのだが。
 
 
 
 
あと、キーワードは、「太田道灌」であった。
 
先日まで知らなかったその名前(無知)。
太田道灌は江戸城を作った人なのだ。
 
宝徳三年二月の初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の御祭礼は、太田道灌により執行せられ、松山城主上田氏、難波田氏も康正年中より、代々の領主達の尊信最も篤く後川越八代の城主松平大和守は、社地を免租して親筆の献額を捧げ、松平家代々の城主当社を崇敬し御分霊を城内及び邸内に奉斎された。
(境内由緒より)
 
こちらの初午は3月。
ご興味のあるかたは、是非前日の火伏神事をとのことであった。