昨日の地震は房総平氏の障り | かんながら

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旅の記録です

 

 
 
 
「昨日の地震は房総平氏の障りですよ」私は珍しく断定口調で、ある方とのメールに返信していた。
 
 
 
自分でも驚いた。
わたしは、検証できないことを断定する人がとにかく嫌いである。
嫌悪といってもいいくらいだ。
 
それはきっと自分がそういう人間なのであろうということは、当然自覚しているつもりである。
 
もちろん、自分はとにかく検証できないことを口外することは、とにかく控えているつもりであるが(過去にはあったし今も「お客様の希望」と言い訳していうことがあることは認める)、ノロ(神女)の血筋として、先祖は神様の御意志を伝えてきたはずであるし、自分は過去世には、そういうことを無数にやらかしたのであろうと思っている。
 
そして(自分が意識的にそれに加担したかしなかったかはわからないが)、権力者にその言葉を利用され、集落の人たちををまとめ動かしていたのは間違いない。琉球ノロというのは、支配のための構造だった、とわたしは考えている。
 
古代の奄美のノロ(神女)は、集落単位におり、純粋にそこに暮らす人たちが生きていくために必要な知恵を神様に尋ね、答える役割であったはずだ。
 
だが、奄美は琉球王朝の支配下に置かれ、(おそらく税金としての)年貢の取り立てが行われるようになり、琉球王朝が求める貢物を得るためにも、その言葉が使われることになった。地域のまとめ役、といったら聞こえはよいが、おそらくは、遠く離れた奄美の島々を監視する役人として、ノロの存在があった、ということは記録にも残されている。
 
つまりノロは、年貢を確実に納めさせるための徴税人、今でいう税務署員という公務員だったのである。
徴税人は聖書では、はっきり「罪人」として登場するのだ。
 
 

 

普段はこの手の話題には「検証できないから」という理由で関わらないことにしているが、

でも今日はこのことについて、伊勢平氏筋の血も引くものとして、いろいろと思い当たる節が重なるので、書いておこうと思う。

 

 

 

 

 
まずは、一昨日(この地震が起きる前日)不思議な電話があった。
 
箭弓(やきゅう)稲荷神社に呼ばれた」というものだった。
 
私の場合はお客様からの相談でメッセージを受け取ることが多い。
箭弓稲荷神社」はわたしは知らない神社で、検索すると、埼玉の東松山にあり、「保食(うけもち)神」を祀っているのに、ご神像が武神であった。
 
保食神はご存知のとおり、五穀豊穣の女神である。

 

保食神
保食神
 
(Wikiより引用)

天照大神月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。

天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から、額から、眉から、目から、腹から、陰部から大豆小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

(ここまで)

 

古事記では同様の内容が素盞嗚尊(すさのおのみこと)と、大宜津比売(おおげつひめ)の話として描かれるので、同様の神様と考えてよいと思われる。どちらにしても、この神は「女神」であることは間違いなさそうだ。

 

 

なのに、

 

保食神

この絵をみていると、どうみても上に乗っている武神がメインである。

下に描かれている(おそらく)狐が「保食神」には見えない。

しかも、狐は保食神のご眷属であって、神ではない。

 

これはなにか明らかに大事なメッセージが含まれていると考えた。

 

(箭弓稲荷神社由緒より)

平安時代の中頃、下総の国(千葉県と茨城県の一部)の城主平忠常が謀反を起こし、またたく間に近隣諸国を切り従え、ついにその威を関八州にふるい、大群をもって武蔵の国(埼玉県と東京都・神奈川県の一部)川越まで押し寄せてきました。

(ここまで)

 

なんと、房総にも平氏はいたんだ!(無知:恥)

しかもこの「平忠常」は首塚や神田明神の「平将門」の孫にあたるというではないか。

しかも、わたしが笠間にうがふくさんをお返ししたときからずっと呼ばれ続けている千葉と茨城。

 

そしてこの「保食神」の弓をみたとき、わたしは秩父神社の授与品の弓がパッと浮かんだのである。

 

そして、この夏、諏訪で起きた地震の日に大した怪我でもないのに、スズメバチにでも刺されたかのような大騒ぎをした(みしまの先祖をたどる旅 続き)「伊勢平氏おじさん」が、八ヶ岳で甲武信岳方面の秩父の山々を眺めながら「秩父を通って、ここまでは山を歩けばすぐなんだよ」とよくつぶやいていたことに思い至った。

 

わたしは三峰山にある時期なんども通ったことがあるのだが、そのとき、山梨まで抜ける道を使えば山梨はとても近かった。だから「秩父と山梨は近い」とインプットされていたわたしには「当たり前のことをいうなぁ」といくらいしか思っていなかった。

 

そして、「伊勢平氏おじさん」は、「神様は、千葉から入り、茨城を通って秩父から諏訪に入ったと思う」といっていた。

そういえば、箭弓稲荷神社、秩父神社、諏訪大社は、ほぼ一直線上にある。

 

でもわたしは、彼がいう「神様」が誰だかはわからない。「神様」について他人と語っても「検証できないこと」と考えているので聞くこともなく、スルーしてしまったからだ。

 

そしてこうして振り返っているだけでもこのところ続いているいろんな障りも含めて関連するしるしがバタバタとつながり、思い当たるのである。

 

「伊勢平氏おじさん」との出会いと顛末については長くなるから今回は書かないが、出会いから、終わり(ということにしておこう)までとにかく不思議すぎた。

そしてわたしは明らかに「伊勢平氏筋の先祖のなにかによるもの」と思ったので、注意深く関係を保つように努力していた。

なのに「力のある霊能者」と称する(他称も自称も)女性の介入によって突然関係を断たれた。

 

この似たパターンが複数(それも夫の死別も含めて5例以上)続いたので、これはなにか、「阻むもの」があるのでは、と思った次第である。

 

その中の一つの関係は、ある方(男性)が「あの人は、ひとりでやっていくから大丈夫」と口添えしてくださったようで、今はお互いに審神者できる関係に戻ったのだが。

こうして、審神者しあえる相手を断たれる事態が続いて、「迷いを断ち切るためにお試しはくる」と覚悟しているはずのわたしも弱気になったが、その間は「普通の人(いわゆる視えない人:あくまでも自称)」たちが支えてくれ、なんとかのりきれた。

 

あと、もうひとつの心当たりは、宝徳山稲荷大社である。

 

わたしはある方からの紹介で秋に宝徳山稲荷大社を訪れた。

伏見から長岡へ(かんながら)

 

実はわたしはこの地に引っ越してから、自分に異変があることには気づいていた。

そもそも、この「天気の子」の舞台の街に引っ越しは、覚悟のいることであった。

今までの10年は表参道に住んでいた。

 

「表」参道である。

それが「北」参道側に移ったのだ。

 

この地は西新宿(都庁、新宿中央公園:淀橋エリア)とドコモタワーの真ん中に位置する場所である。しかも、その裏手には歌舞伎町、大久保が控えている。

表参道は、「ハレ」の場で笑顔の人しかいなかったが、こちらは疲れ切った人たちがしかも高層ビル群にわんさといる。お酒を飲みに行く目的も、主にストレス解消である。

 

わたしはこの部屋の体感温度が異様に低いことに気づいていた。

おそらく社会(会社?)から救われたい生きた人の思いが地形も伴ってここに流れてくるのである。

わたしはノロ筋のサーダカなので、人間の霊や想念は基本「憑かない」性質なのだが、とにかく冷える。

 

あまりにも冷えるので、同じように「もらわない」宇宙人仲間に部屋にきてもらった。自分の感覚を確かめるためである。

 

「ここ・・・」

そして私が思っていたことをすべて言い当てた。

 

○亡くなった人たちの思いの影響もあるが、なによりも膨大な数の生きている人たちの悲しみと不満と怒り、それに欲。

○とにかく冷える

 

そしてお互いにエネルギーを循環しつづけた。

宇宙人仲間のヒーリングは、通常すぐ「あたたかくなる」らしい(わたしはいつも体感は基本あたたかいのでわからない)のだが、3時間経っても冷えていた。

 

冷えるといっても、滝行をしていて、体の芯まで完全に洗い流されてしんとする、というかんじであった。

温度を確認すると部屋の温度は19度あった。

 

しかしふたりとも滝浴びしたあとくらいの冷えっぷりである。

でも宇宙空間の寒さというか山のてっぺんの寒さというかそういう清々しさのある冷えっぷりであった。

 

除霊でも必要かとお香を焚いてみた。

変わらず。

 

それで、ろうそくを点けてみた。

たちまち部屋があたたまりはじめた。小さなろうそくである。マッチ売りの少女でもあるまいし、このくらいの火で部屋があたたまるならエアコンは必要ない。

この部屋は(いくらエアコンが古いからといっても)温度設定を29度にしてもあたたかくないのだから。

 

そこで「宝徳山稲荷大社」に思い至ったのである。

宝徳山稲荷大社は「ろうそく供養」の神社なのである。

とにかくろうそくをお供えすることが大事なのだ。

 

「供養」なのだから、いわゆる「あげてあげる」ということなのであろう。

わたしのところに、わたしは望まないのに宝徳山稲荷神社のお札が来た、というのもそういうことなのかもしれない。(わたしは祈願項目がとくにないので、正式参拝の願意は「神恩感謝」にして、お札は辞退しているが、宝徳山稲荷神社では神恩感謝でも「心願成就」のお札をいただくことになっていた)

 

大幅に話がそれたが、房総平氏である。

 

メールの主は、夜中のこの地震で眠れなかったと書いてきたので、箭弓稲荷神社から、秩父、この夏の諏訪の地震と伊勢平氏関連の人たちとの関係の障りとしるしが繋がっていたわたしは、

 

その返事になにげなく冒頭の

 

「昨日の地震は房総平氏の障りですよ」

 

と書いたのであった。

 

思い出せば、伊勢つながりのある方と会う前に、わたしは将門の首塚にお詣りしたのである 東京さんぽ(かんながら)。そして、このメールの相手の職場は、その首塚の近くにあるのである。

 

 

ここまで「平家」「将門」がきて、関連がないと考えるのも不自然なのである。

そして将門の首塚に書かれていたテーマは「善政」であったのだ。

しかもその日、渋沢栄一先生の像や日銀の博物館も訪れている。

 

「善政」は丹後・但馬の旅のテーマでもあった(丹後からの、W出石神社そして播州への旅(かんながら))で「明智光秀」「亀岡(元は亀山)」にもつながっていく。

そして亀山は、先日の旅(姫神を訪ねる旅〜番外編  夢のこと、呉のこと)で訪れた、呉鎮守府のあった場所とつながるのである。

 

しかも、返信が笑ってしまった。

 

房総平氏と言えば将門ですね。首塚が神田に、胴塚が茨城にあるそうです。
将門を調べていたら、築土神社が出て来ました。今は九段にあるみたいですが、最初は大手町の首塚近く、江戸時代には新宿区の筑土八幡町に移転したとありました。
ついこの間も、ちょっと早く着いたのでお参りしたばかりです。

 

そうなんだ。さすがわが心友(笑)。

房総平氏って知らなかった。しかも将門(恥)。

 

平将門が祀られている神田明神は湯島。

大山石尊大権現(雪の祝福〜大山阿夫利神社)につながる、やんごとなきお方のお茶会(お茶事も神事)も、妻恋神社(”弟橘媛に招かれて”〜弟橘媛と亀岡のかかわり(メモ的に))も湯島である。

 

いろいろと障りがあって、人間関係はぶった切られたが、そのおかげで身軽に動けているともいえる。

これも「かんながら」なのであろう。

 

このことは個人的なことで、しかもなんの検証もできない無責任な記事なので書くつもりはなかったのだが、昨夜早く寝たわけでもないのに、深夜に夢をみて目が覚め、しかもその時刻が、昨日の地震が発生した2時8分だったので、これはとりあえず記録しておこうと思って書くことにした。

 

夢は、箭弓稲荷神社に向けてあるいていると少女がお茶菓子を出してもてなしてくれた、という夢だった。

 

 

(注)Facebookには書いたが、
私の考えは、「あくまでも、地震の理由は、自然現象」であることを書き添えておく。ちょっとキャッチーなタイトルにしてみただけである。