やり直しの旅  〜伊勢平氏おじさんと白山ひめ | かんながら

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旅の記録です

 
 
熊野行きの直前、伊勢平氏おじさんにバッタリ会った。
 
今なぜか白山信仰がきていて、わたしは代々木八幡宮にお参りする道中であった。
あの神社は昔は白山御殿と言った、らしい。
縄文遺跡がある森の神社。作家の平岩弓枝さんのご実家である。
今は、キムタクが崇敬していると言われている「出世稲荷」の方が有名であるが。
 
 
熊野行きは、その時には決まっていなかった。
彼と遭遇するのはいつ以来だろう。
少なくとも今年になってからは初めてである。
 
昨年秋に、わたしの前から忽然と姿を消して音信不通を貫いていた、まったく勝手なおじさんである。
まあ、わたしも人のことは言えぬ。わたしも音信不通はしょっちゅうである。
 
菊理媛神さまミーティングの日、答え合わせのために電話をしてみたら、彼も私と同じタイミングで怪我をしていたと分かり、怪我が治りかけた頃にはコロナ自粛で家から出られなくなってしまっていた。
 
伊勢平氏おじさんは、霊とか神様はみえないと言っているが、黄色い着物を着た女性をここで見たと言っていた。
霊や神様でなければなんなのだ。わたしだって霊や神様がいるとは明言できないが、いないはずのものが見えて、自分は神や霊みえないと断言しているおじさんの考えの方が、より一層危ういように感じるのはわたしだけなのであろうか。
 
黄色い衣装といえば、菊理媛神(菊)、そして丹生川上神社(中社)で日下宮司から見せていただいた罔象(みずはのめ)女神のイメージが浮かぶ。
 
(丹生川上神社中社の罔象女神)
 
そして、「来週、山に行くのでよかったら」と誘われた。
 
昨年いろいろあった長野の山。
安曇野に向う途中、あの山を見て「成った」と思ったが、まだわたしの中では千葉から諏訪への見えない道がつながっていないのである。
なぜなら、丹後の神人の「あなたは安曇野に行くべきだ!」という言葉に後押しされながらも、30年越しで未だに成就しない安曇野移住。
そこに行き着くのに、支えがある場所。そこが諏訪。
そして昨年の諏訪の豪雨のニュースも、地震もその山にいるときに遭遇した。
ついでに言うと京都アニメーションの放火のニュースも、おじさんが反応したわたしの古巣の創業社長が株主総会で追われるというニュースもそこで一緒に見ることになった。
 
 
なんかあの場所はわたしにとっては大事なポイントなのである。
この話にはなんとしても乗らねばならぬ。
 
突然バックレるおじさんに振り回されるのはごめんだし、もう一度あのような思いをするのはうんざりだとは思うが。
振り返ってみれば、昨年はすごく失礼なことを言われ続けていた。
わたしは頭の中がお花畑で、自分が悪く言われていてもそれをスルーするおめでたい性格なのである。
 
一度、食事でもしながら話をしようと言われ、ご飯を食べながら話を聞いた。
でも正直怒らせないようにしているだけで精一杯で何を聞いたかは記憶にない。
 
わたしの用は、山にいって、自分の中のまつりあわせができているかを確かめることなのだ。
とにかく今は怒らせてはならぬ。
 
 
出会って最初に食事に誘われて話を聞いているときに、「過去の栄光」ってなぜか口をついて出てしまって、泣いて詫びなければならないほどの怒りを買うという失態をしでかしてしまったのである。その時は、家に帰ってダンナのシロクマさんに聞いてもらって安らいだが、本当に怖かった。
サーダカというのは、気をつけていても心の声が、口をついて出てくることがあるのだ。
 
そして食事を終えて「では来週。」って気分よく別れたのに、きた。変な電話。
 
 
 
「あなたみたいな偉い人とはつき合えないので」
 
「??」
 
付き合うとか言ってないけど??別の意味かな。
しかもわたしは付き合いたいとか言ってないのに、昨年は「付き合うかどうかはひと夏考えさせてほしい」って言って、そのまま音信不通なったのではなかったか?
 
 
彼があれこれ言ってきた理由は「(コロナ)自粛してほしい」ということを「わたしは普段から自粛している」と言ったあたりか。
しかしわたしは「旅に出るな」と言われて「行きません」というわけにはいかない。
そして、「書くな」と言われて、「分かりました」というわけにもいかない。
 
 
わたしにとって、旅とその記録は自分自身の心のまつりあわせである。
先祖から引き継いだもの、わたしの過去にやり残したこと、もしくはやってしまったことの贖いなのだから。
もちろんコロナにかかりたくはないし、万が一にも人にうつすのはもっと嫌だが、生命をかけて取り組んでいるライフワークを止めるとしたら、それはわたしにとっては死に等しい。見えない世界の住人のわたしには、いのちより大事なものがあるのである。
 
 
でも、目的を遂行するために「分かりました」と言った。
 
分かったけど、旅には出た。
でも、新幹線は空いていたし、ソーシャルディスタンスは守って、山手線の混雑を避けて自転車で帰宅した。
完璧じゃないけど、これはわたしの精一杯。東京で電車通勤してオフィス行っている人よりは、感染リスクは優位に低いはずである。これで何かあっても「運が悪くてすみません」である。
 

 

 

 

不思議なこともあって、断ってこられて、「予定していた」って言ったら、「山で話しましょう」って言ってくれた。

これにはびっくりした。

今までドタキャンは日常茶飯事であったが、わたしの都合を考慮してくれたことは(結果的には)ほとんどなかった。

 

で、当日。

おじさんのクルマは、前にしか進まない。

そして待たせたら絶対に怒られると思った。

だから熱中症になりそうなすごく暑い日であったが、20分は早く待ち合わせ場所につけるように余裕を持って出かけた。

 

 

なのに。

 

 

タクシーはこない、ほぼ定刻通りにくるはずのバスも遅れてくるという事態に。

それでも待ち合わせの定刻には到着したが、よりによって彼の方が先に来ていた。

 

そして覚悟した通り怒られた。

なんで社会的な立場のある人がここまで小娘(っていうのは厚かましいのはわかるが、養父よりずっと年長なのだからそう言わせてもらう)に本気で怒るのか。

どこかわたしの中では「避けられないアクシデント」って言葉が浮かんでこれが万一にも聞こえてしまったらえらいことになると思ってひたすら謝罪の言葉を繰り返した。

 

わたしに理不尽な怒りをぶつける人はそれなりにいるので慣れてはいるが、怒りはおさまらず、視点を変えてもらうための謝罪のバリエーションも尽きた頃、「他の人にも同じように怒るんですか」と聞いてしまった。

 

 

もちろん火に油であったことは言うまでもない。

 

 

そして、不思議なことにというか、やっぱりというか、東京を抜けたら許してもらえた。

やはりあれは、東京にある、人の想念の波動が彼の脳波かわたしの波動に影響を及ぼしているせいだと思われる。

 

 

 

で、これを書いていて思うのは、わたしも若い頃、きっと怒り始めると止まんなかったなってことだ。

きっと元カレや元ダンナたちがこれを読んだらお腹をよじらせて笑うであろう。

亀が大好きな元ダンナは「一緒に暮らすようになって龍だと思った」と言っていたから。

 

カルマの法則というのかなんというか、自分がやったことは自分に返ってくるようである。

 

 
 
久しぶりの山は、安曇野に行くときに見た時と比べて、もうずいぶん雪が消えていた。
 
昨年はわたしの準備ができてなくて、肝心なことは何も聞けず、おじさんの昔話だけを聞くことになった。
今年は、信長がどうだったとか、明智光秀は、どんな人だったかとか、秀吉がどうだとか、そういうことも含めてもう少し幅広くなった。
 
わたしは自分がなぜこの人と縁があるのかは、この1年の旅でいくつかの仮説を立てている。
そして、ポジティブな縁というか、よい縁ばかりではない、なんか嫌な不調和のある縁があることも気づいている。
母もそうだが、このおじさんも、「そこでそうくるか」という反応をする。
 
ニコニコ笑って近づいてきて、よく考えたら結構辛辣な言葉で人格を否定してくるとか、
忽然と音信不通になるとか。
 
忽然と音信不通になるのは、彼がよく言っていた彼の先祖がしたことの話とかぶるのも興味深い。
 
一般的な人間関係では、こういう縁は嫌い、遠ざけるものだと思うが、もうわたしは拒むつもりはない。
自分の中の嫌悪や恐怖がなくなるまで対応すると決めている。
 
わたしの場合、「分かりました」っていうくらい、縁ある人の「先祖のひき」が強すぎるからだ。
最初の結婚に至っては、お互いの家から遠く離れたそれぞれの家の墓が向かい同士というご縁であった。
幸せで穏やかな縁ならいいが、だいたい未解決だからこそ同じようなのがくるわけで、「微妙に違う」ことが多い。
だから、もうそろそろこの課題を卒業したいのである。
 
 
わたしもずっと中臣(藤原)氏は嫌いだった。
アマビエのお告げと大祓詞のほんとうの意味で書いたように、大祓詞に宣られているそれは、負けた方の氏族では代々「良かったこと」としては語り継がれてはいない。本当は、「そういうことにしよう」とヤマトタケルの人柄によってがそのようにまとめ上げてきたように「よきこと」だったかもしれないが、長い時間をかけて、人の心というフィルターを通されていくと、神の純粋な思いから変質してくるのだ。
 
 
うちでもずっとそのように言われてきたし、そう信じていた。
 
 
なのに、母は、わたしの父と離婚した後、宇佐の藤原の血筋の家にわたしを連れて嫁いだ。
養父は20歳の時に、30歳の子持ちの母と出会い、この人たちを助けなければと思ったらしく、結局10年かかったが思いを貫いて結婚した。
それでわたしが跡継ぎと定められていた伊勢方の家は断絶した。
 
 
そういう意味では、藤原氏の呪詛によって、お家断絶に追い込まれたとも言える。
しかし、人の思いというのは、そうではないのである。若く、真っ直ぐな心の持ち主であった養父は、なぜか母を好きになって結婚したのであろう。
 
そして、亀戸天神の招き 〜日本武尊と平将門、そしてクマ で書いたように、藤原氏もまた事実とは違う何かがあっても「天成の道」を弥栄するために沈黙して御用をしてきた氏族なのだと思い至ったのである。
 
 
 
伊勢平氏おじさんは、職業柄らしく、基本的にずっとしゃべり続けているが自分の考えとか、そういう「大事なこと」は話さないのでわたしのことは信用していないのであろう。
どちらかというと、曝け出されすぎることの方がわたしには圧倒的に多いのに。
まあ、それは自分自身がどこまでもオープンだから起きることだと知っている。
 
 
でもこの1年の旅の蓄積が確実にわたしを変えたみたいで、分かり合える部分が出てきた。
そして山にいる間は一度も怒らせ(れ)ずにすんだ。
彼と山に何回きたのかは忘れたが、毎回なんらかのトラブルが発生してその度に怒らせたのである。
お酒を飲んでいる時以外にトラブルが起こらなかったことはなかったのだ。
(普通は逆だが、おそらく双方共に、楽観的で楽しい方の人格を抑圧しているのであろう)。
 
そして、彼の方は、コロナ自粛の影響であろうと思われる。
スマホもインターネットも持たない上、怪我のためゴルフも散歩もできず、コロナのことで飲みにいくことも人と会うこともしなかったらしい。つまり本当に自分にだけ向き合っていたということである。
 
やはりコロナは恩寵であった。
もちろん、10万円がもらえて喜んでいるわたしが、嬉しそうにそういうとすごく不愉快な顔をしていたが。
 
 
 
そして、東京。
なんと、コロナのせいで脳が溶けているわたしは、よりによって彼に伝えるべき帰り道を間違えてしまった。
 
絶対に電話がかかってくるはずのない時間に電話がかかってきてなにごとかと思ったら、行きの車中と同じテンションの怒声が飛んできた。
初めは自分が間違えたことに気づかず、なんで?と思って聞いていたが、誤りに気づいてもちろん秒速で謝った。
しかし、そんなことで怒りが収まるわけもなく、行きの車内の状況と全く同じことがテレワークで再現されたのであった。
 
「あーーーーもうほんっと、すみません!!」
わたしがいえることはこれしかなかった。
 
それにしても、なぜ旅の最初と最後が同じになるのか。
とほほ。
 
東京のお地場の乱れなのか。
それとも山が特別な場所だからなのか。
 
今回のやり直しの旅が完結できたかどうかは、今後の様子を見るまではわからない。
 
 
とりあえず、わたしは熊野の旅で得た手がかりからの、白山信仰を追う旅を続ける。
日の宮、名田庄、そしてとおの。
 
 
 
 
 
 

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