蘇鉄がもたらす福音の予感 〜龍田神社と聖徳太子 | かんながら

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旅の記録です

 
 
このところ頻繁に登場するなにわの審神者(さにわ)のエリアは一足お先に緊急事態宣言が解除になったようだ。
といっても生活はかわらないらしい。
ただ、社会復帰に向けて意識があまりディープなところに入らないようになっているのは意識的か無意識か。
潜水艦が浮上するときのように人間というのは無意識に準備するようである。
 
それは社会全体がそんなかんじとかんじる。
そわそわした感じがあって、それはそれでとてもよいことである。
 
 
ただ、わたしはここからがソーシャルディスタンスが必要なフェーズに入る。
 
わたしが深海魚みたいなものだからか。
 
あまりそわそわした感じになれない。飲んでるときはとても楽しそうと言われるが、
 
飲み会のとき以外は怖い人と思われているらしい。
 
 
深海魚は、深海でみるから大丈夫だが、浅瀬に来ると不安がられるものである。
 
 
酒を飲んだら性格が変わる人がいるが、抑圧しているものがでてるので、それこそが本当の姿だと言われるがたぶんそうだ。
 
 
わたしはさしずめ明るくていいかげんな性格なのであろうが、それだとお金の計算とか、時間を守るとか、社会生活や仕事がちっともできなくて社会に適応できないから仕方がない。
 
きっとわたしと飲んだことのある人は大なり小なり心当たりがあると思う。
 
 
結婚しているときは、専業主婦をさせてもらっていたし、
仕事でもお茶を出したり、用意するお弁当の数を確認したりというような現実的なそことはやってもらえるから本当にありがたかったし、
 
わたしがダメな分、お客様が自立してて、人が集まるイベントではそれぞれの人たちが頼まなくてもやってくれていた
 
 
わたしは、水槽で飼ってもらっていたようなものである。
ストーリーは思い出せないが、そういうアニメがあったような気がする。
崖の上のポニョだったか、魚をバケツに入れて飼っている男の子のはなし。
 
 
人の顔と名前などもよほど頑張らねば覚えられないし、
今ではスケジュールの管理とか何度もなんども確認せねばならないし、
 
 
なにより、何を食べようとか、何を着ようとか、
基本的な生活に対する欲がないので戸惑うことばかりだ。
 
 
結婚していたときから、感謝していたが、失った今は、ありがたさが本当にみにしみる。
 

で、なにわの審神者が最近もたらしたトピックに「棕梠(しゅろ)の葉」とか「ナツメヤシ」というのがあって、わたしはこのところ龍田神社の蘇鉄(ソテツ)が気になっていた。
 
 
龍田神社と龍田大社、どちらが本筋か、みたいな話ではなくて、
 
たんに、わたしは
 
「龍田神社は蘇鉄(ソテツ)が植わってて島の香りがするので、こちらのお地場が好き」
 
というだけのことだ。
 
 
そして、Wikiによれば、

社伝では、

聖徳太子法隆寺の寺地を探し求めていた際、白髪の老人に化身した龍田大明神に逢い、

「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」

と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。

 

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では大和国平群郡に「龍田比古龍田比女神社二社(二座)」と記載され、式内社に列している[2]

明治維新後、神仏分離によって法隆寺から分離し、境内にあった寺院関連建物は全て破却された[2]明治4年(1871年)には三郷町立野の龍田神社(現在の龍田大社)の摂社となった[2]大正11年(1922年)3月に龍田大社から独立し、近代社格制度において県社に列している[2]

 

つまり、聖徳太子が法隆寺を建てる場所を探していたときに、龍田大明神と出会ってこの地に法隆寺を建て、明治時代までは法隆寺であった、つまり元・法隆寺ということである。

 

まあ、普通に考えればそうなのだ、なんといってもここの地名は「龍田」なのだから。

 

 

ただ、なんでソテツの木があるのかはわからなかった。

子どもの頃、私が育った学校の校庭にはソテツが植わってて、「実は毒」というのになぜ植えるのか謎であった。

 

でも食糧危機の時用に植えてあるのだろうくらいに思っていた。

奄美では、ナリの実と呼び、味噌にしたりして食べる習慣がある。1週間とか水にさらしてでないと食べられないので手間がかかる。

 

 

以前の記事(昨日の地震は房総平氏の障り)でも書いたように奄美は、琉球による支配と、薩摩による支配と2度支配されるという歴史を体験しているが、

 

奄美はサトウキビが高く売れるので、一部の選ばれた集落を除いて、コメを作ることは許されず、

全ての土地はサトウキビにするようにお上から言われてきたのである。

 

そうして崖っぷちにこっそりとソテツを植えて飢えをしのいだときく。毒のあるソテツですら、献上せよと言われてきたのだそうだ。

 

 

畔に彼岸花を植えるのも、毒だがもしも飢饉のときには工夫すれば食べれるから、と聞いたことがある。毒だから、通常は盗まれることもないのだ。そうやって万一に備える知恵があったのである。

 

 

 

なにわの審神者(さにわ)は、富士山本宮浅間大社のご社紋が、棕櫚の葉だと伝えてきたのだが、朝拝に出かけた帰り、目に入ったのがこれだった。

 

 

 

この葉っぱは!

 

 

復活祭の1週間前の日曜日は「枝の主日(受難の主日)」とされており、棕櫚(しゅろ)の枝を祝別して信徒に配る儀式で、イエスさまの「エルサレム入城」を記念して受難の週・「聖週間」の始まりを画する。わたしたちの教会では、その枝はソテツだった。

 

イエス様は、自分が処刑されるのをわかっていて、すべての人の子の罪を背負うことを決めて「メシア(救い主)」としてエルサレムに入る。
 
そんなことをしたらイエス様をメシアと思っていないユダヤ人たちの反感を買うのはおわかりだったはずである。
 
でも民衆は救い主が現れたと、駿馬ではなく、小さなロバにのって入ってくるイエス様を棕櫚(シュロ)の葉を振って歓迎するのである。
 
 

枝の主日の神秘について詳しくはこちら(聖パウロ修道会HP編)

 

 

そのソテツの枝は1年間自宅に飾っておき、エルサレムの入城の場面を思い出すものにする。
 
そして灰の水曜日という四旬節(イエス様が荒野で悪魔の誘惑を退けながら断食をする場面)のはじまりのミサで使う灰をつくるときに教会に持っていく。
 
 
 
そして灰の水曜日にその灰を額に受け、「塵にすぎないお前は塵にかえる」という言葉とともに持ち帰る。
 
 
私は灰の水曜日のミサが一番好きかもしれない。
クリスマスよりイースターより、なんか安心するのだ。元に戻れるという安心感。
 
 
 
で、棕櫚(シュロ)の葉。
それで、棕櫚の葉は、イエス様の印で、日本ではそれはソテツの葉なのだ、と告げた。
 
 
 
厩戸(うまやど)皇子とも呼ばれる聖徳太子ゆかりの法隆寺のある場所の龍田神社にその「ソテツの巨木」があるとは意味深ではないか。厩戸(うまやど)が馬小屋で生まれたイエス様とかぶるからである。
 

 

 

 
しかも聖徳太子のご命日である2月22日にちなんでいるとしか思えない、南青山2-22で撮影されたらしき広告(上の写真参照)がかかっているビルの足元に、オリーブとともに植わっているというのはできすぎである。
 
 
聖徳太子は駿馬にのって、富士山を超えて山梨あたりから奈良まで3日で駆けたらしい。
 
 
聖徳太子がどんな用事があって奈良からあの辺りを往復していたのかはわからないが、わたしが昨夏伊勢平氏おじさんに連れられていった、山梨から長野あたりは、「御牧」という御料牧場があり、駿馬を育てていた土地なのだそうである。
 
 
 
千葉から入り、茨城県、埼玉、山梨と山を抜けてくれば長野(諏訪)はすぐそこである。
山伏が通ったルート。きっと秘密があるところ。
 
 
山伏はたんに修行や薬草探しのために山にいたのではないのである。
少なくともわたしはそう睨んでいる。
 
 
 
南朝方がインターネットも電話もない時代に、なぜ吉野にこもることができたのかというと、
 
彼らは、山を動く民(山伏)と海という道を使っていたからである。
 
だから、山の中に塩鯖の寿司(柿の葉寿司)があるのであろう。

 

 

 

以前に書いた(昨日の地震は房総平氏の障り)ように、これはこの夏からきている伊勢平氏がらみで何かある場所であることは間違いないとなんとなく踏んでいる。
 
それが何であるのかは、まだわからないのだけれども。
 
 
 
聖徳太子は駿馬を駆ったといわれているが、イエスさまはロバに乗ってエルサレム(平安京)に入る。
みすぼらしかったんだよな。
 
救世主は、偉い人、という考えを正す教えなんだと思うのだ。
 
 
わたしのこども時代は、聖徳太子といえばお札に描かれているスーパースターだったが、今は檀家ゼロ、それどころか「存在しなかった」説まで出ているくらいだから、往時のきらめきはないのかもしれないが。
 
 
 
 
それにしても蘇我氏と物部氏が戦った奈良の地に、(ソテツ)とはなんとも意味深である。
 
 
なぜなら、物部氏は製鉄民だからである。
 
 
そして昨日の記事(続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁))で書いたように「熊野(ゆや)」と関わる。
久美浜の歴女から寄せられた情報によると、ゆ=製鉄を暗示するのだそうだ。
 
 
蘇我氏の蘇とは、これまた偶然なのかわざわざなのかしらないが、乳製品のことをいう。
 
関西の河南(カナン)エリアに住んでいた渡来系かもといわれる民族であったとしたなら、なかなか面白いではないか。
 
 
イエスさまが自らがメシアであることを宣言するために、エルサレムに入城するときに、民の歓迎の象徴として道に敷き詰められ、そして振られるものが蘇鉄(ソテツ)としたならば、ソテツは新しい時代への象徴である
 
 
 
蘇(蘇我氏)と鉄(物部氏)が、融和して 蘇鉄(ソテツ)
 
 
 
 
今日はいみじくも主の昇天の日。東京には青空が広がっている。
 
 
 
そしてわたしも、突然ダンナを喪ってからもうすぐ1年になる。
 
葬儀が終わって、火葬場で遺骨とともに神父さんとお別れして以来一度も教会にいっていない。
 
 
イースターにはミサにいこうと思っていたが、まさかの全世界でミサ中止。
 
そして本来だったら今日のミサ(主の昇天の主日)にはこっそり出ようと思っていたがまだ教会の門は開かれていない。
主の昇天というのは、イエス様が処刑から3日後に復活し、40日を経て神上がりされた記念の日である(本来は木曜日)。
 
 
祖父も笑っていたし、きっとしろくまさんもこれでちゃんと神上がりするかな。今日はそれにふさわしい久しぶりの青空である。
 
 
それに、聖徳太子ゆかりの四天王寺も、聖徳太子以来はじめての閉門という事態になったが、明日から段階的に開いていくようである。
 
 

 

 

今日は出羽で山伏修行をしたときにご一緒だったお友達が、しろくまさんが亡くなった記事に気づいて4年ぶりに訪ねてくれ、一緒に明治神宮を参拝。

 

芝神明宮が「今行くべき場所」というのは彼女からの連絡でさにわが取れたのだった。

そして次にすべきことも。

 

 

あるいていたら、白いものが上から音を立てて落ちてきて、何?っていったら、白い骨。

オオタカ?カラス?

当たったら怪我したよ?

なんのメッセージなんだろう。ふ・し・ぎ。

 

 

 

 

緊急事態宣言は解除されていないけど、もう東京も解除のきざし。

 

でも、ここからが、正念場。

 

かからない努力と、かかっても耐えられる健康な身体にすることしか、コロナに打ち勝つ方法はないのだから。

 

 

 

 

また今日も、人の愛にふれてうれしかった。
本当にありがとう。
 
 
 
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続・答えあわせの東京散歩 〜その2 芝公園というお地場(聖徳太子がつなぐ不思議なご縁)