出石の謎解き 〜永遠の命の示し・メシヤは出るか!?  ”なぜか【358】” | かんながら

かんながら

旅の記録です

ちなみにわたしの誕生数は35/8である(笑)。
 
そして洗礼名はガラシャである。
 
わたしは人を崇めるのがすきではないので、Graceという言葉で選んだだけなのだが、「麒麟が来る」で注目の明智光秀の娘もガラシャで、彼女も丹後に縁があったりで興味深い。
 
さて、なにわの審神者(さにわ)が復活祭の前くらいから「イエスキリストが」とか「すこもり」とか言っていたので、
キリストの血と肉をみたてて(将門公の供養をされたという空也上人にちなんだ)空也もなかをゆうパックで差し入れておいた。
 
そして昨日いよいよ「明日で終わる(過越のまつりのことだと思われる)」みたいなことをいっていたのだが、今朝目覚めたときに、
 
「出石」って言葉が降りてきて、
今年1月の満月(月食)の日になぜか丹後から但馬の出石神社を経て運ばれた、
 
 
の夜明け(晩?)を思い出していた。
 
きっとこれだな。
 

 

 
 
出石は、イエスキリスト(石)が出るって書くからな。
ちなみにイエス様の職業は大工である。石の大工ということらしい。
 
そもそも、この旅はわたしの計画したものではなかったのである。
「いずれ行こう」と思っていたこの神社の奥宮の真名井神社にいく「ついでに」いこうと思って計画に便乗する予定の旅だったのである。
 
しかも、わたしにとって出石神社はあくまでも「ついで」であった。
その上「流れた計画」であったので、いかなくてもよかった。
 
 
なんかの邪魔?応援?が働いて、その計画自体が流れ、年明けた別の日に、なぜか急に思い立って、丹後にひとりでいくことになったのであった。
丹後の小長谷修聖先生のところにお邪魔したら、但馬の出石神社は、真名井神社と深く関わるご縁の出会いの場だったということがわかり、先生にうながされていくことになったのである。しかも夜に。
 
そして、先生と筑波山のご縁のその方との出会いも夜だったとおっしゃっていた。
 
その日はたまたま満月で、月食を迎える日でもあった。
 
 
 
そして、そのまま「ついで」に淡路の出石神社にもいくことになったのである。
月食の夜明け(晩)に。
 
 
今朝その旅のことをぼんやり思い出していたのである。
そして、朝の参拝にいって、ちょうど本殿前についたと同時に、「なにわの審神者(さにわ)」がメッセージを送ってきて、
 
「後ろの正面は神」と書いてあった。
 
意味がわからぬ、と思ったが、かごめの歌が流れてきて、「うらめしや」と浮かんだので、「裏=メシヤ(救世主)」ってことをいっているのかとわかった。
 
 
イエス様は磔の3日後に復活して、永遠の命を私たちに示す。
聖書は繰り返し、肉は滅びる、血は永遠、ってことを言っている。
 
イースターを迎える儀式の一番最初は、イエス様が荒野で、悪魔の誘惑と戦いながら、断食をした40日間からくる四旬節の最初の日。その日を灰の水曜日といって、私たち人間は神によって創られた塵にすぎないことを自覚して、謙虚に生きることを思い出すために、司祭からひたいに灰を受ける。
 
なんか本当にそうだな、って思うんだよね。
 
本当にダンナは灰になって北極の風にのって北極に消えてしまったし。
 
そしてメシヤ(救い主イエスキリスト)が出たら、肉(目に見えるもの)は、全て滅びることを知ることになる。
そして、血(霊性)は永遠だと知る。
 
わたしたちが授かる永遠の命とは、「血(霊性)」のことだとわたしは思う。
 
目に見えるものは神が作った塵にすぎない。火に焼かれれば灰になる。
 
経済は神が作ったものではない。
だから、どうなるかわからない。
おそらく、力をもった人間の思う通りになるだろう。
そして、「いずれ」滅びることになる。
それは、「肉」であるから。
 
 
だから、経済のために、霊性を損なうと苦しいと思う。
なぜならそれ(血)は、永遠であるからだ。
 
 
わたしは「天国も地獄も、死んでからいくところではない」と思っている。
今のじぶんの境涯こそが、天国であり、地獄であって、
身体の死を迎えたあと、永遠にそこにとどまることになるのだ。
 
 
わたしたちは、身体を持っているうちしかなにかを「なす」ことはできない。
 
死んでしまったら、自分の境涯を自分で変えることはできないのである。
 
 
誰かにやさしくしたり、償ったり、幸せな体験をしたり、
自分が天国を体験することは、生きているうちにしかできないからである。
逆に、地獄の体験も、生きているうちにしかできない。
ただ、その体験によって培われた霊性は、肉体が滅んだ後も永遠の命をもって生き続ける。
 
 
だから、今、自分がどうあるか、が大事だとわたしは思っている。
だからわたしは精一杯生きている。他人ではなく、自分が納得するように。そしてそれが永遠に続いてもいいように。
 
 
みんな死を恐れるけど、わたしには、死は安らぎだと思ってきた。
なぜなら、死がなければ、わたしたちは、痛みや苦しみも永遠に味わいつづけることになるからである。
この世には不治の病というものも存在するのだから。
 
 
地震で、火山の噴火で、事故で、コロナで、、、、
わたしたちは、ある日突然肉体の死を迎える可能性はいつだってあるのだ。
 
 
肉体が滅びたとき、わたしたちは自分たちの霊性とともに永遠の命を生き続ける。
救い主が復活して、永遠の命が授かるって、そういうことだとわたしは思う。
 
 
永遠に、今の境涯を持ち続けること。
それが、天国なのか、地獄なのか、は自分自身のありようで決まる。
 
 
だから、あなたが今地獄だと思っていたとしたら、亡くなったときに行く先は、地獄である。
そして、あなたが今天国だと思っていたとしたら、亡くなったときのいく先は、天国であろう。
 
 
いいことをしたら、天国、悪いことをしたら地獄、というのは人が人をコントロールするための方便にすぎない。
 
 
メシヤ(救世主)が出たら、「永遠の命が授かる」ということはそういうことだとわたしは思う。
 
目に見えるもの、人間が作ったもの、すなわち「肉」は「いずれ」滅びるが、「血(霊性)」は永遠なのである。
みな見える方のことばかり考えているかもしれないが、わたしは、後者の方がよっぽど怖い。
 
コロナは、経済も、人も、死に直面させている。
 
目に見えるものは壊れてもまた作れる。
経済もまた、同じようにはならなくても、人々が希望すれば、たてなおすことができるだろう。
 
でも!
自分の意識、霊性、それは身体のあるうちにしか立て直すことができない。
だから、みんな死を恐れるんじゃない?
 
 
だから、みんなに言いたい。
 
ちゃんと生きなきゃダメだよ!!