平将門公とイエスキリストと、空也のもなか 〜贖いのちから | かんながら

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旅の記録です

(写真は過去のものです)
 
今日はイエス様が十字架にかけられた聖金曜日である。
 
コロナのことが起きてから、なにわの審神者(さにわ)のサーダカ(霊力の高い人)ぶりが半端ない。
突然閃いて何かを送ってくる。
コロナ前後から将門塚への代参依頼がやたら多い。
 
東京駅の反対側は皇居。今まできづかなかったな。
 
わたしは最初から将門公は、皆が怨霊にしたてあげているだけで、怨霊ではないと言って来たが、いろんな人たちからあれこれ聞いたようで、ようやく彼もそう思うようになったようである。
 
わたしは死にかけたときにわかったが、おそらく死んだら感情はなくなるのである。
意識とともに感情は消えていくので、おそらく感情は肉体に宿っているのである。
身体からはずれるときには、いつも消える。
 
こちら側にみかける怨霊はこちら側(生きている者)の罪の意識で引っ張られているのであろう。
霊を怨霊にしてはならないのである。それは生きているものの思いによってそうなるのである。
 
犠牲に対する感謝を送り、贖わねばならぬ。
贖いというのは、オセロの黒石が白に転じるように、一瞬で起こせる。
 
 
すべてのことには裏と表がある。
いいこと、悪いこと、などないのである。すべてはわたしたちひとりひとりの「見方」によっているのである。
 
この世にあるものは、起きてしまったことは、受け入れていかねばならない。
なぜなら、それは変わらないのである。
悪く受け取って、それを悪いものとするのも、善きことととらえ、善きこととするのかは、ひとりひとりの意識である。
 
同じように、怨霊とするのか、神とするのかも、わたしたちひとりひとりの意識なのである。
 
 
 
 
将門塚には、蛙がいる。
蛙=川衆(かわず)、って書いていた人がいたが、そうなんだろうな。
今ならわかる。川の衆とは、アースダイバー 東京の聖地 にでていた神人(じにん)のことだろう。
 
八坂神社のお地場を見つけたのは、大阪の今宮戎の神人だと書かれていた。
そういえば、この本には、なぜ築地があそこになければならないか、ということも考察してあったな。
 
魚市場

成田山にあった提灯に入っていた文字。もしかしたらこれ?

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この提灯の文字読めなかったが、通りがかったカップルが
魚河岸って書いてあるんだよっていってたもんな。
 
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小池百合子都知事が、築地移転を反対したのは、こういう仕組みもあったのか。
としたら興味深い。ご本人がそんなことを思っていたのかはわからないが。
お地場としての築地の意味があるみたいなんだよね。
 
今回の騒動でも、小池百合子都知事、「命ファースト」で戦っている。
将門公ついてるのかな。
 
このところ、将門公、道真公、聖徳太子について語る人とても多い。
いまこのお三方復活してるよな。
 
 
今日は将門公に赤ワインと膨らし粉のはいってないパンを捧げて欲しいと言って来た。
それはおそらく、聖体拝領の儀式のことを言っているのであろう。
 
キリストの血(ワイン)と肉(パン)をカトリックのミサではともにいただくのである。それはイエス様が全人類の罪を贖うために自ら望んで磔にあったことからなされる儀式である。
 
将門公も、斬首され、その首はさらされた。
「首がおかれた大地は、将門公の胴体や」みたいなことをいっていた。
これが磔刑とつながったのであろう。
 
 
復活祭前の約40日間のこの時期をカトリックでは、四旬節といい、イエスさまにならってプチ断食をする。
イエスさまが40日40夜、悪魔の誘惑に耐えながら荒野で断食をして、サタン(悪魔)の誘惑をうけ、それを退けて、メシア(救世主)となられる。そして有名な「人はパンだけで生きるのではない」という聖句の場面である。
 

ここでいう「悪魔の誘惑」とはなにか。

「(お腹が空いたなら)石をパンに変えたらどうだ」とか「世界をやろう」というのとか。

欲望との戦いなのである。

 

仏教哲学者のひろさちや先生は、イエスは、敬虔なユダヤ教徒であったが(当たり前だがキリスト教ができたのは、イエスの死後である)、利権を持って腐敗していたユダヤ教の聖職者たちには目障りな存在であった。

なので、様々な「悪魔からの誘惑」を受けるのだが、それを「政治のお誘い」だったと言っていた。

つまり、「仲間にならないか」っていうようなことだったのかもしれぬ。

 

でもイエス様はきっぱり断ったのだ。

悪魔の誘惑を退けるということは、そういうことなのであろう。

でも権力者にとっては大変不都合である。

あれこれ誘ってもなびかないので、ついに、処刑されたのだろう。

 

なんか、ヤマトヲグナさんがまとめておられた平将門のストーリーとやはりかぶるところがある。

 

なにわの審神者がいってきたのは、それなりのことなのかもしれぬ。


先日は「空也上人が、将門の無念を供養してはった」と言って来たので、

「ああ、空也といえば、最中があるで」

といって空也最中をお供えしにいった。

(空也もなかさんのHPからお借りしました)

 

 

最中はそういえば、まさにミサでいただくパン(ご聖体)と似ている。

餡は、小豆は赤というからまさに血と肉ではないか。

たまたまだったがやはりそうだったのだ。

 

原宿の瑞穂にも2年前までは最中が売っていたのであるが、やめてしまったそうでいまはない。

だから豆大福を捧げることにした。

いちおうユダヤと日本のつながりを指摘する人たちには「膨らし粉の入ってないパン=餅」といわれているから悪くないチョイスであろう。

 

とはいえ、今日はスケジュールの都合ででかけにくい。

なので、自宅から遠隔参りとする。

 

 

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将門塚の方向を拝すると、要の場所がならんでいる。

明治神宮もまたお江戸のお地場を守っているところなのだと思う。

 

明治陛下は歴代全ての天皇の慰霊を行われた最初の天皇と聞いている。

和魂洋才、外国のそれも積極的に受け入れていかれたのだ。嫌いな牛乳もおめしあがりになりながら。

その大御心を大切にしなければならぬ。めざされたのは世界平和なのである。

 

 

最後の部分に引用しておくが、2013年に出された前教皇ベネディクト16世の四旬節のメッセージがとても素晴らしい。

はっきりと誘惑の中心はつねに、自分の利益のために神を道具化することと言っている。

 

わたしも常々そう思う。

神様がちっぽけな人間の欲望の御用聞きになるはずないと。

 

神様とか宇宙とか、美しく気高い壮大なものの道具として使われるならいいが、人間の御用聞きに甘んじている神様(それは神ではないと断言するが)など崇拝するのはまっぴらごめんである。

 

カトリックのミサでは、キリストのからだとしてパンを食べ、キリストの血としてワインを飲む。

キリストのからだと血を受けることで、罪が贖われるとされる。それが聖体拝領である。

贖われるというのは、一瞬で消え去るということなのである、赦される、ということなのである。

伝わるかわからないが、ここ、すごく大事なのである。

 

 

ということで、将門公が誤解により怨霊化されているのを贖うために、空也のもなか(キリストの血:餡 と 肉:皮)を食することを強くおすすめする。

相変わらず電話は繋がりにくいがコロナの影響で予約なしで買えることもある。

 

一人暮らしなのでなんだかんだで一箱全部食べてしまった。

 

今日は豆大福と赤ワインでダメ押ししておくことにしよう。

 

2020年の復活祭は明後日、4月12日日曜日である。

 

 

 

今年はカトリック教会もコロナ対応ですべてのミサが中止。しかしながらそのおかげでYouTubeでライブ配信があってそれはそれでよい。バチカンのミサなどとても楽しみである。

⭐️ご復活までの聖なる過越の3日間のミサ⭐️

主の晩餐の夕べのミサ :日本時間 4/10 午前1時

主の受難の祭儀:日本時間 4/11 午前1時

十字架の道行:日本時間 4/11 午前4時

復活徹夜祭: 日本時間 4/11 午前4時

復活の主日のミサ、祝福: 日本時間 4/12 午後6時

 

 


 

 
(ベネディクト16世のメッセージ:引用元は下記リンク参照)

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の水曜日、恒例の灰の式をもって、四旬節に入りました。四旬節は復活祭を準備するための回心と悔い改めの期間です。母であり師である教会は、自分に属するすべての人々を招きます。霊的に新たになりなさい。自分をはっきりと神へと方向づけなさい。傲慢と利己主義を捨てて愛に生きなさい。「信仰年」にあたり、四旬節は、自分の生活と教会生活の基準また基盤として神への信仰を再発見するためのよい機会です。これにはつねに霊的な戦いが伴います。悪霊は当然、わたしたちが聖化されることに反対し、わたしたちを神への道から逸らそうとするからです。だから毎年、四旬節第1主日には、荒れ野におけるイエスの誘惑についての福音が朗読されるのです。
 実際、イエスは、ヨルダン川で洗礼を受け、メシアとして「叙任」を受けた後(すなわち、聖霊によって「油を注がれた」後)、同じ霊によって荒れ野に導かれました。悪魔の誘惑を受けるためです。イエスは、公生活を開始するにあたって、誘惑者が彼に示す間違ったメシア像を暴露し、拒絶しなければなりませんでした。しかし、これらの誘惑は、間違った人間像でもあります。それらは、あらゆる時代に、便利で有効で、そればかりかよいものであるかのように偽装することにより、良心を危険にさらします。マタイとルカの両福音書記者はイエスに対する3つの誘惑を示します。それらは順序において部分的に違うだけです。誘惑の中心はつねに、自分の利益のために神を道具化することです。そのために、成功や物質的な富をより重視することです。誘惑者は狡猾です。彼は直接、悪へと促すのではなく、偽りの善へと促します。そして、真の現実は、力であり、基本的な欲求を満たすものだと信じ込ませます。こうして神は二義的なものとなり、手段へとおとしめられます。つまるところ、神は非現実なもの、どうでもよいものとなって、消滅します。つきつめていえば、誘惑の中で問われているのは信仰です。なぜなら、そこでは神が問われているからです。人生の決定的なときに、また、よく考えてみるなら、あらゆるときに、わたしたちは選択を迫られます。すなわち、自分に従うか、神に従うか。個人の利益か、まことの善であるかた、本当に善であるものかの選択です。
 教父たちが教えてくれるとおり、誘惑は、わたしたち人間の条件、すなわち罪とその結果の深淵へのイエスの「降下」の一部です。イエスはこの「降下」の道を、終わりまで、つまり十字架の死と、神からはるかに離れた陰府(よみ)に達するまで歩みました。こうしてイエスは、神が、失われた小羊である人間に救いをもたらすために差し伸べた手となります。聖アウグスティヌス(354-430年)が教えるとおり、イエスはわたしたちから誘惑を取り去って、ご自身の勝利を与えてくださるのです(『詩編注解』:Enarrationes in Psalmos 60, 3, PL 36, 724)。それゆえわたしたちも悪霊と戦うことを恐れてはなりません。大切なのは、勝利者であるキリストとともに戦うことです。そしてわたしたちは、キリストとともにいるために、母であるマリアに向かいます。試練のとき、子としての信頼をこめてマリアに祈り願おうではありませんか。そうすれば、マリアは、神である御子の力強い現存を感じさせてくださいます。それは、キリストのことばによって誘惑を退け、あらためて神を自分の生活の中心に置くためです。

以上

https://www.cbcj.catholic.jp/2013/02/17/8363/

より引用

 

成田山詣りの記事はこちら↓