楽譜から私たちへのメッセージ・教え・過去に生き抜いた、もしくは現在を生き抜く生身の人間(作曲家自身)の生命力を受け取る
各曲・その各部位、それぞれにまったく違う、それぞれに膨大な量の細分化された仮説と、それを何段階にも及び具体化していく作業
たったこれだけ想定して、「やる!」と決めたら、
主観・自意識・あーすればこーなるという理屈・理想・空想・思い込み、などというものはこれっぽっちも入る余地がないことを感じられるでしょうか。
それらに変わって必要なものは、
楽譜・楽器の前に存在する自分自身の、身体の客観的適応能力。
つまり、目の前にある音楽から見て、自分はどうか?ということです。
虚栄心
傲り
見栄
もろさや弱さ
そんな横道が一本も無い状態で向き合っていることが最低条件だと言えますし、そこから、その目の前にある音楽に対して自分の何を差し出すべきか?ということが見えてきます。
そこには、身体が反応して選択していくという実際が現れます。
演奏するということは、
脳内の現れか
体内の表現か
信じるべきものは、
自分の想いか
身体の感覚か
前回に引き続き、ここまで私が言及するのには実は理由があります。
もちろん、フォーカルジストニアを持っているが故に、その克服への道に於いて見えてきたこと・実感することがあまりにも多く、それらを少しでも伝えたいということが、根本にあります。
そしてその内容はフォーカルジストニアに限らず、音楽を志す人に於いても、楽器演奏が生活の中に密着している全ての人に通づる内容であるということ。
・・・本来なら私の中では「視覚」のお話のところで完結しておいて、あとは読んでくださった皆さまの感覚の中で、それぞれ提議なさって頂ければ、と思っていました。
しかし実はなんとタイミングが悪い?ことに、その数日後、国内で某有名・由緒あるピアノコンクールの予選を聴く機会がありました。
ただそれだけのことならよかったのですが、その時、約20名の演奏を聴いて、お一人お一人の、それまでの練習過程がすべて見えてしまったのです。
自分でも初めての感覚経験でびっくりしましたし、聴いた感じ・見た感じの演奏を自分なりにそのまま評価してみるという、それまでの見方が全くできない状態で聴き入っていました。
その感覚は、申し訳ございませんが、言葉にするのは非常に難しいです。
その人の音色・技巧・感性の裏側の、曲に臨み努力してきた実際の中身が見えた感じでしょうか。
今までの私が深く読み取れていなかったと言えばそれまでなのですが(笑)。
ピアノと身体が繋がっている(身体から放たれている)演奏者と、終始乖離したままの(頭から放たれている)演奏者の明らかな違いは、
客観性の濃度です。
結果が求められるコンクールでは、皆が、目指すものは同じです。そしてそれに費やすそれまでの努力・時間・精神力も同様です。
同じ練習をしているにもかかわらず、
では違いを探すとしたら何でしょう?
場数?
持って生まれた素質?センス?
ではその天才的素質とは?何?
それを持って生まれた人しか、(納得のいく)結果は出せないのか?
じゃぁ逆に、その天才的な人の中には、もともと何が備わっているのか?
それは本当に私たちの中には無いものなのか?
あの人にはあって自分には無いもの、と簡単に片付けられるものなのか?
もし育てられるものならば、その過程は?
それは教育者に委ねられるものなのか?
これらすべてを繋ぐ間、そこに存在するのは、
「自己」。
己のすべて。
演奏を聴きながら、このところに、私は、目を背けることができなくなっていたのです。
私の中でもう後には引けなくなっていた。
ある1つとして、姿勢の問題を取り上げてみたいと思います。
「身体の表出」として誤解されることが多い、姿勢→演奏スタイルですが、自分は「表現」している、もしくはアピールしているつもりでいても、それは殆どが「頭の表出」でしかない。
ある中学生の例ですが、右足はペダルに乗せているが(弾く前に踏んでみて確かめることはなく)、左足はつま先立たせて踵が浮き上がっていたり(靴の中で見えないが逆の浮き指のパターンもあり)、鍵盤と腹の距離が明らかに遠かったり、椅子の高さがあまりにも身体と合っていなかったり・・・と、この三拍子揃った奏者がいました。
これは指導者側の問題もありますが、そこはどんな指導をしたか否か知る由もないので、、しかしそれにしても、私のスタイルはこれ!という明らかに自我であったのです。
そのスタイルは、自分の身体ととことん向き合って選択されたもの と、言い切れるかどうか?と言う視点から見たときに、実際に奏でている音楽は、うわべを必死に取り繕って進んでいくような痛々しいものでした。
これは、結果を求めるコンクールに限って起こることではもちろんありません。
足裏は地面を感じているか
今向かうピアノに、場合によって状況によってはハーフペダルも可能な、踏み具合を感じれる踵であるか
座面に座骨が乗っているか
腰が弛み、肘に腕の重さが十分に感じられる椅子の高さであるか
お腹の深いところで呼吸ができる姿勢であるか
演奏に入る前のこの段階で、
(パフォーマンス性の高い演奏へ・・・などという頭から放たれるようなものには程遠く、全く真逆な・・・)「内的な統一感」が必要とされるわけです。
私は大丈夫。これまで十分に練習してきたのだから。
ではなく、
身体が今ここに感じられる。だから私は大丈夫。
となるのです。
演奏云々の前に大事なこれは、武道の稽古に入る前の"黙想"に価するでしょう。
自我を排除し、身体と和解すること、と私は捉えます。
「うん・・・そうか。」
誰でも頭では理解します。想像もできます。
言葉とはそういうものです。
実際にやらなければ抽象でしかありません。頭での理解は、やっている気になってしまう、変な癖も合わせ持っている。
「やる!」という具体を実現させる為には、そこに「自己」を介入させなければならないのです。「肉体のすべて」です。
日々の練習過程で、まずこれをきちんと捉えて、軽視することなく、毎日、本当に毎日、いかに肉体に取り込み、実感していくか。
そしてこの"黙想"に価する前の自分と後の自分の違いを感知する。
先日書いた、
○身体が感じる生理的現象を知覚し、その認知能力のレベルを上げていくこと
というのがここで言う、
○客観性の濃度を段階的に上げていくこと
これは、実際に楽器に触れるその指先の感性と、ダイレクトに繋がっていきます。身体は正直です。
良いと感じたこともミスをして筋緊張した様もすべて客観的に受け入れ、推進していく力へ変換されます。
それはそれはとても素直な、身体の感覚です。
暗黙の中で捉えてられているこの問題を、私はこうして実際に敢えて書くということをやっています。
暗黙の中で捉えられている問題というのは、これらの過程の中身は本人の練習過程で自然成長、自然に獲得していくもの・もしくは指導者の手にかかっている、と一般的に考えられている、という実際です。
私はその問題に目を背けず、きちんと向き合わなければ可能性は開花しないと痛切に感じるのです。
練習していて、なんか弾けない・何かが違う・一曲の中で技術的な差が大きすぎる・完成度がいつも低い
これらは、常に自分の中で提議しているにもかかわらず、堂々巡りと化しているのは、その中身に何が不足しているのか、どんな要素を取り込んでいく必要があるのか、という、乗り越える術を知らないだけなんです。
「できるか できないか(頭) ではなく、
やるか やらないか(身体) 」
それは我が身を差し伸べる行為です。
実際にやらなければ、選択していくことは不可能です。
これを大事に、次回に持っていきたいと思います。
少しでも言葉を穏やかに(笑)。
チャイコフスキーとドビュッシーの譜面から・・・な、お話を。