前回までの話は、
さっぱり分からない、自分には縁遠いと思う人もいるかもしれません。

今向き合っているものに対して「真剣になる」と、不思議な現象としての「今まで実感することのなかった感覚」を覚える。この身体の目覚めのリアルな体験・・・私の教室で私が行うレッスンでは、それでもその都度これを連続させる・継続する。
これらを導くことは、檻から解放した行く先の私の責任であるとすら言えるかもしれません。
頑なに檻の柵に捕まり続ける、稀な生徒もいますし、開放感に酔いしれてハメを外すやんちゃな生徒も稀にいます。
だから、信頼性の高い教育的空間はとても大事です。生徒たちと、身体の不思議に思わず笑いが出たり、感動の涙が出たり、何が起こるか予測不可能であるし、何が起こっても、それは揺るぎないものです。
分からないなりにも、自分の中に眠っていた良いものを見つけて、それを信じていく。そしてそれらを現実のものにしていく。ということを、大切にしています。


話を戻して、
さっぱり分からない・自分には縁遠い・世界観が違う
私自身毎日の学びの中で、もしこのような諦めの気持ちが湧いたとしたら、それは「表現する」という目的の意味を取り違えている、その結果であります。
言い方を変えてみると、
ピアノという楽器の演奏、そのための私の学びの中身と目的は、《表現》です。そこには、「自分には分からないから・・ という主張」は微塵も必要のないことです。
分からないことを大事にせず、シラっとして勝手な自己解決で表現してしまった演奏は、ピアノに向かったただの運動であり、興醒めな世界でしかない。
芸術というものの道は、これが最高 とか、これで完成だ とかいうような到達点はなく、どこまでも学びと極みの連続です。無限にある階層とそれぞれに細分化されたものを構築していく作業の繰り返しです。
ここでどうしても侵してしまうことは、
自分なりに解釈してしまう。
理想を夢見てしまう。
その理想がお手本のようなものへとすり変わり、自分の思い込みでしかない表現へと走ってしまう。

練習の過程で介入させなければならない「肉体」に意識を置かず、「思いに酔いしれる」という、思考が優先してしまう。
その独りよがりな世界から脱出して、
目の前の肉体が表現しようとする、リアルで客観的な自分への見方、そのレベルを上げていくことが、最優先です。
そこには常に楽譜が自身に寄り添っていて、教えを導いてくれるのです。


表現することの第一階層、つまり基台となる部分を支えているものは、「想像力」。
これは、その先に現れてくる どの階層においても必要不可欠なものであり、また、それぞれに伴った問題点も多岐にわたって常に存在し続ける。
しかし、表現する=イマジネーション、つまり、目指すはそのイマジネーションにいかに近づいて行けるか?という逆行の姿勢に、全てがかかっています。

○曲名・表題から
○調性から
○リズム・テンポから
○音形・和声・運指・デュナーミク・アーティキュレーション・・・

こ存知の通り、たったこれだけ挙げても、そこからのイマジネーションは無限にあるのです。そしてそれぞれの中は更に、何十もの階層がある。
故に(くどいようですが)、そこに自分勝手な解釈・あこがれ・思い込み というロスが入る余地はありません。もちろんのことでありますがロスは音楽の流れにあってはならないもの。隙間が発生してしまうからです。そしてその隙間は、他でもない、「邪念の恰好の入り口」です。

楽譜に表れている前述○の、たとえばそれらを、リアルに、そしていかに客観的に自分の中へ取り込んでいくか。


ドビュッシー 前奏曲集第1集より第2番
{0A01EDAF-4922-4497-A0F1-E0F2114B944B:01}

これは「Voiles」という表題ですが、日本では「帆」と訳されています。この第1集全曲通して見てみると、確かに"風"というキーワードが浮かんでいますが、必ずしも一貫性を持っている訳ではないようです。とした方向から見て、この「ヴェール」とは、よく言われている説としての、「舞台で踊る踊り子さんが身に纏うシルクの布」であることが強いようです。
惚れっぽい?ドビュッシーが魅せられた、舞台で踊る美しい女性とともにひらひらとなびく柔らかな衣装。そこに漂う空気。照明。非現実的な神秘。
ドビュッシーが体感したものが、ここに表現されている訳ですが、演奏する私たちは、それを、どこまでもリアルに受け止めていかなければなりません。
演奏する者がリアルな体験を映し出しているからこそ、聴く側はそれに惹きつけられて感動する。
演奏する者の妄想でしかない演奏ほど(妄想を見せられた演奏ほど)興醒めするものはないし、だから、"ただの運動"のように見えてしまうのです。


ある一部を除いてほぼ、全音音階で書かれた曲です。{DCD6AA60-F29E-422F-B3B1-9ADA8F1FE984:01}
(全音階 と 全音音階は、全く意味が違いますのでご注意ください。)
この音階だけを上行下行ともに何度も弾いてみる。指先の感覚と耳の感覚が溶け合うまで。いろいろな指使いを設定して(2,2,2…でも3,3,3…でも黒鍵への指くぐりでも)、自分の中での違いを確かめてみます。
日本びいきで知られるドビュッシーですが、この東洋風を想わせる全音音階に、どんなにか魅力を感じていたことでしょう。
その感性にどっぷりと我が身を投じれば、たくさんのことが溢れるように、本当に現実に(音として)なっていきます。

ついでと言ってはなんですが、打って変わってチャイコフスキー。
{D024AF3A-ADE6-4DD8-B855-7B3A0253DFF8:01}
「四季」より11月トロイカ。

この曲は前回のお話の中のコンクールの課題曲になっていました。
こちらは五音音階が使われています。{D73FB610-9FB0-4084-A033-BB1C1F62EBAF:01}
楽典に載っている音階で言えば、雅楽の音階 、 呂旋法(呂音階)です。
紛れもなく、中国から伝来してきた東洋の、日本の音階。あちらの西欧の方にしてみると、なかなか捉え難い曲であると聞いたことがあります。
これに基づいたその上には、どこまでも終わりのない・どこまでも延びていくメロディーの美しさ!あの "ロシア旋法" で覆われています。まさしく五音音階とロシア旋法の融合です。

ロシアの果てしなく続く大地
鈴の音
粉雪の舞い
暖かな煖炉で語り合うような、対話

そこには、チャイコフスキーが体験した様が現実にあったのです。


日本から遥か離れたロシアとフランスという地から、東洋的な音楽に魅了して想いを馳せた、2人の芸術家。
どちらも、このとてつもないイマジネーションを強く持ち、それを土台とし、様々な形式を駆使し、生き生きと展開させています。


知的で冷静で、そしてリアルな「想像力」。

これは、譜面上の様々な部位の、分解した練習に於いても、常に支え続けてくれるものであり、
「表現する」という目標に向かう過程での疑問点・問題点・仮説設定能力・選択能力・肉体が知覚する生理的反応の認知能力を持ち続けていく パワーの源となるものです。








E Fis Gis H Cis H Gis Fis E・・・

上下行何度もこれを指先で確かめていると、5音音階とは?トロイカとは?11月のロシアとは?チャイコフスキーとは??などなど、シンプルな疑問が湧いてくる。
目的は頭で答えを出す事ではなく、疑問そのものが自分の体内を巡り、肉体的な感覚として、各ピースが繋がっていくことだと思います。つまり、肉体的に具体化していける ということです。
表現することに不可欠な、「分からないことを大事にする」 ということは、だから、とても重要なんです。

○「表現する=イマジネーション 」の常設⇒基礎練習・分解練習を具体化する

○「基礎練習・分解練習」⇒イマジネーションを具体化していく

音楽に対して、謙虚 且つ 丁寧に遂行される、この逆の姿勢が、確実に肉体を育てます。


これって、ジストニア克服への道筋においても結局、同じ意味を持っているんですよね。。。

○身体の解放というイメージ⇒日常生活の各シーンの在り方

○巡り・弛み・温かみ・揺らぎ・無心・・・⇒ジストニアの解放


目に見えない感覚としての動き を 具現化していく、
音楽の世界、そして ジストニアを知る世界。。。