前々回の視覚から続きます。


" ピアノを弾くという一つのことをするのだけれど、それはものすごく客観的であり、私自身も楽器も空間も、まるごと大きく全体を身体で捉えている感覚 " の、
「客観的」というところにスポットを当ててみたいと思います。
その、客観性を生む五感のひとつである視覚が重要であることを述べましたが、
そこから脳へ、つまり思考へ繋がるための道が、やっと見える ということになります。

念のためここで誤解が生じないように。
客観的な思考→身体 ではなく、私はあくまでも、
客観性に満ちた身体→思考 という、
身体がそのように出来ている状態が先である、ということを言いたい。
つまり、身体を脳の奴隷にすると、必ず身体は反撃する、ということであり、その結果、どういうことが起こるか?
そう・・・ご想像がつくでしょう・・・ここぞという時に、身体が、ミスを起こすのです。
ましてや、
「あれだけ練習したのだから!」
というような、本能を無視した考えにどっぷりと浸っていれば、
このミスや 冷や汗・・・
「自意識を丸裸にしてやるしかない」という言葉に変わって、そのような罠を仕掛けてくるだけなのです。
指に猛練習を虐げれば虐げるほど。

かなり厳しい話かもしれませんが、本番でのミス の克服を強く目指した時に、これを真摯に・真っ正面から、まず受け止めていかなければなりません。
ただ単に「練習不足」と、片付けてしまったり自分を慰めて無かったことにできる問題ではない・・・と、経験者なら、それは心の底で勘づいているはずです。
そして「私」の中のピアノ人生は、そのための闘いの連続、いわばそのような歴史を繰り返すだけで終わってしまいます。
さらに実はそれは、これっぽっちも悪気がない
というのが、厄介なところです。
自分が正しいと思うことを選択してやってきた、と " 思っている " からです。

フォーカルジストニアの私は、この症状は、ここで言うところの、常に精神が丸裸な状態である と言えます。


この自意識という自分を超えたところに自由がある。
だけど、それが本当の(本来の)自分の姿だということでもある。




客観的に物事を考えるということは、まぁ大体のところその意味は解ります。主観の逆で、自分の見方から離れて考えることです。
しかし、ここでは演奏するための身体・五感が総動員するための身体ということを前提に置いた上での話ですので、では一体、思考から入る客観視の何が問題なのか?
例えば逆から見て、
その客観的思考が「他の意見・評価」であってはならない、というところにあります。
師事している先生の意見だから。は違う、というこれです。これは、小さいピアニストには顕著に表れます。子どものコンクールなんかを見ていると、"腕はこう動かしなさい。身体を使って弾きなさい。"と先生が言ったから・・・な弾きっぷりは、いくら技術が優れていても、聴く人が聴けばわかってしまう・見る人が見ればわかってしまう、一目瞭然です。(それを言うなら「身体を感じて弾きなさい」でしょう。感じる とはどういうことか?教師との信頼関係が成されていれば、小さいながらも一生懸命それを模索することでしょう。)
「評価」も然りです。その辺りは、演奏できぬが空論大好きな音楽評論家にでも与えておけば良い話です。

そしてもう一つ、客観的物の見方は主観が中心にあって生まれてくるもの として捉えてしまっては意味がない(100%客観的とは言えない)というところです。これは、主観的自分(親分)が考えたもう一人の自分(子分)がいるようなもので、結局主観だらけの塊になるような、自分の中でぐるぐる回るだけで方向性が何も変わらない感じ・・・音楽に対する傲慢な弾き癖へ向かってしまう恐さ さえ私は覚えます。この辺りは後で詳しく例えて書きますが、
まぁ要するに、だから、脳は厄介なわけです。
そこをまず見つめていかないと、以後の話の理解は難しいと思います。

では、演奏上に不可欠な「自分はこう弾きたい」という意志や個性は一体どこで出て来るのか。
それは、主観的なものを尽く排除・もしくは極力 薄めていく という作業の先の先に、紛れもなく表れてきます。
過程なくして、結果はあり得ません。
その過程で、多大なリスクを容認し、綿密に緻密に磨き上げてきた先に、主観性が浮かび上がります。これが先程の「本当の自由」の意味です。
その奥で裏を返せば、自分のあみ出した方法・意見・イマジネーションを持っている。ということです。
この道すじがないと、先程の、本番での意図しない弾き方やミスがあったとするならば、非現実的な空間で丸裸にされたような状況の中で、「幻想・理想を思い描いていただけだった」と気づき、理想には程遠い、もう一人の自分とご対面することとなります。
こういう結果になるから・・・妄想・幻想・理想・固定観念をソソクサと作り上げるのが大好きな脳は、だから、厄介なのです。
失敗したくないという自分を、ぬくぬくした温室に閉じ込めて予め守りたいだけなのです。


では、その過程にある大事な、客観性に満ちた身体に求められることはなにか?


○身体が感じる生理的現象を知覚し、その認知能力のレベルを上げていくこと
○イマジネーション(知的で冷静な想像力)を外部から際限なく取り込むこと
○自意識の影響を受けない運動能力=緻密で膨大な仮説の想定力と実行力



これらを引き出す手掛かり・道標となるものは、現実に私たちの目の前にあります。










ここまで書いて、





今、





涙が出ています。













・・・その物とは、作曲家たちが残した、愛おしい《楽譜》です。

それは音楽をする私たちにとって、
ジストニアの私にとって、
「かけがえのない愛 」というよりほかに、言葉がありません。
私たちは、私たちのこの身体・この手をもって、それを受けとることができるのです。

厳粛に

厳格に

しかし、喜び・慈しみ・愉しみ を持って。








長くなりましたので次回に続きます。













楽譜というのは極限られたメッセージしか記されてはいない。けれど、そのシンプルなものから、身体がいかに多くを感じ、読み取り、選択していくか。

これは、

武道の世界における先人の言葉から や、「形(かた)」・作法 というものを日々稽古し、無限に鍛錬し、いかにその意味や本質を見抜いていくか。

という世界と、やはり同じものを見る気がしてなりません。


ピアノも、身体と向き合う日々の丁寧な稽古の積み重ねであります。。。