木田元の「反哲学入門」を読んで。
この前、木田氏の 「哲学は人生の役に立つのか」 を読んでから、この 「反哲学入門」 の存在を知ったわけですが、今月に入ってこの本が図書館にありましたから、すぐに借りて読みました。内容的には哲学の歴史的背景をやさしく書き記したものでしたから読みやすい本ではありましたが、『反哲学』 という言葉に関心を抱いていた読者として、読後の不満がくすぶったまま読み終えた感じになりました。書き出しは、なかなか面白く読むことが出来、ソクラテス時代前後における哲学創世状況を再認識することができました。ところがこの本の前半を過ぎても、テーマである 『反哲学』 なるものの話が一向に出てきません。読みつつもただの西洋哲学史だなあ~と、訝しく思って我慢して読み進みました。その代わり、プラトンに関するところで、ソクラテス以前とソクラテス以後の哲学が大きく変わったという指摘は、面白いものがありました。それは、プラトンがピュタゴラス教団に学んだ数学の論理的思考の影響か? 『超自然的原理』 という発想で、ソクラテス哲学からの飛躍があったということは、なるほどと頷けたところでした。それから先は、プラトン哲学とキリスト教の深い関係も興味湧く内容でした。「キリスト教は民衆のためのプラトン主義にほかならない」という指摘は、考えさせられるものがあります。また、福沢諭吉の 『実学』 に関することや、ガリレオの功績といったところも、科学の生い立ちを知る上でとても参考になります。そして、話は、近代哲学の背景として、イギリス経験主義哲学、デカルト、カントの哲学などに入っていきますが、それでも、 『反哲学』 に関することは、まったく触れられません。そして、いよいよ、人間理性は、カント哲学から自然の科学的認識と技術的支配を約束されつつ、それがヘーゲル哲学によって自然的および社会的世界に対する超越論的主観としての位置を手に入れたと木田氏は言い切っています。 つまり、ヘーゲルによる近代哲学の完成はこの超自然的思考様式の完成を意味すると言っているのです。そういえば、プラトンとヘーゲルについては、池田晶子さんがもっとも西洋哲学で関心を抱いた哲学でしたね。日本人には、元来、こうした超自然的思考様式というものになじみがなく、自然的思考の世界でしたが、明治以降、西洋の文化の導入の中で、こうした西洋哲学が入り込んで来て、それが今日に至るにおよんで、哲学といえば西洋、東洋もすべてをひっくるめて、思索するものすべてを哲学であると世間一般は理解しています。さて肝心の 『反哲学』 については、この本の後半の第五章でようやく、ニーチェの登場で、 『反哲学』 の説明がなされています。木田氏のそれを抜粋しますと、次のような内容になります。(原文のまま)「プラトンの言うイデアの世界のようにこれまで最高の諸価値とみなされていたものは、超感性的、超自然的なものとしてどこかに実在しているようなものではなく、実は人間の支配機構、つまりレーベン(生)を確保し高揚させてゆくのにどれだけ役立つかを見きわめる目安として人間の手で設定されたものでしかないのに、それが誤って事物のうちに投影され、超感性的存在と思いこまれたのです。言ってみれば、そんなものはもともと存在していないのに、そうしたありもしない超感性的価値をあると信じ、それによって逆に感性的な生を抑圧しながら、ありもしないそうした価値を目指して営々と文化形成の努力をつづけてきたのですが、いくら努力してもそうしたありもしない目標に到達できない徒労に気づいたとき、空しい虚無的な 『心理的状態』 に陥った・・・ニヒリズムということなら、それは、もともとありもしない超感性的価値をあたかもそれこそが真の存在であるかのように外に投影し設定したときからはじまったと見るべきでしょう。ニーチェは、感性的世界、つまりこの自然を超えたところにそうした超感性的・超自然的価値を設定した元凶はプラトンだと見ています。そして、彼に言わせると、プラトン以降のヨーロッパ哲学と宗教と道徳は、総力を挙げてこのありもしない超感性的価値の維持につとめてきたのであり、その意味ではそれらはことごとくプラトニズムなのです。」これは、形而上としての 『神』 だけでなく、『絶対真理』 すらありもしないと言って否定していることになりますね。こうして、ヘーゲルまでの哲学を、プラトニズムであると指摘し、反哲学としての起点がニーチェであると見ておられます。ニーチェの言葉を借りて言えば、「われわれは、われわれの確保の条件を存在一般の述語として投影してきた。高揚するためには、われわれはおのれの信念において安定していなければならないということから、われわれは、 <真の> 世界は転変し生成する世界ではなく、存在する世界であるということを捏造してしまったのである。」と、プラトニズムを批判しています。ニーチェは、プラトン的思考を批判するのはいいが、ピュタゴラスの定理のような数学的世界、或いは真善美における抽象的世界などをどのように区別して扱おうとしているのでしょう? こうして取り敢えず、木田氏とニーチェの言い分を聞けば、プラトンとキリスト教、そして超自然的原理の行き詰まり現象などを指摘されるとそれもそうだなあ~!と思わないわけはない。でも、肝心なのは、だからどうなの?と、次のステップが気になる。ところが、ニーチェは、「われわれの宗教・道徳・哲学は、人間のデカダンス形式である。 ― その反対運動が、すなわち芸術。芸術は生の否定へのすべての意志に対する無比に卓越した対抗力にほかならない。すぐれて反キリスト教的、反仏教的、反ニヒリズム的なものにほかならない。」といって、美による救済、芸術によるニヒリズム克服の企てだったと木田氏は見ているが、芸術もある意味では、形而上の世界なのにこれではおかしいのでは? と、思ってしまった。あとは、木田氏のご専門であるハイデッガーについての経歴紹介をされておられますが、このハイデッガーは、どうも怪しい。難しい論理と造語をまくし立て、周辺の哲学者をその気にさせて煙にうまく巻いた崇高なペテン師のように思える。木田氏のお陰で、哲学から反哲学へとチェンジした成り立ちぐらいは、少しだけわかったのですが、当初述べた読後の不満は、 『反哲学入門』 という表題の 『反哲学』 の意味がわかっただけで、その反哲学そのものについて木田氏の深い自問自答の姿勢が感じられなかったことなのです。哲学及び反哲学の歴史的位置づけはそれなりに大切でありましょうが、この本では、反哲学を考えるということについての思索がありません。これでは、思想史のただのお勉強で終わってしまいます。実社会で生きているものにとっては、役に立たなくてもよいから、せめて、木田氏の忌憚のない 『反哲学』 としての思索展開をして頂きたかった。池田晶子さんは、プラトニズムの復活かな?と思わせるような論法で、文筆家や、著名人を論理で切り捨てた話は有名ですね。出版界は、自社の商売の"商品”にいちゃもんをつける彼女を一度は干したが、それに臆せず立派に戦った。そうした池田さんがプラトンやヘーゲルから学んだ哲学が現代社会でも十分に通用するから面白い。これからの若い哲学者は、社会に対して己の意志を表立って強くアピールすべきではないだろうか?文献ばかり漁って翻訳したり、解釈したりするのも立派な学問かもしれないが、その学問を通して社会に問うことの方がもっと大切ではないだろうか?何もせず、歴史的古文書の中で幽閉されてそのまま埋もれ死すのも、この世に生を受けてせっかく生まれてきたのにもったいない気がする。もっとやんちゃをしてもよいのでは・・・?とは言え、こうした思想史の研究は、なおざりにはできない。我々にとっては、木田氏のようなお仕事をされている方の存在も社会には必ず不可欠です。話は変わるが、池田さんがシュタイナーに対して、オカルト的指摘をしたのは、ちょっと言い過ぎで、そうした宗教が絡むような霊的なところではなく、自然の神秘性に対して科学という論理性を超えたものがあることを認識したというシュタイナーの立場を理解すべきでしょう。シュタイナーが当時のヨーロッパで活発になった科学や哲学を学びつつ試行錯誤しながらも、結局、ソクラテス以前の哲学、すなわち、自然哲学派のように回帰してしまっていると解釈した方が正しいのかもしれない。あのプラトンが書いた、ソクラテスがギリシャ神話を否定しなかったという話は有名でしょう。シュタイナーは、自然に対する深い洞察でもって当時の流行の超自然的哲学から離れて独自の哲学に入っていっている。それは、実践をともなったひとつの自然志向かもしれない。言ってみれば、眼前に存在する神秘的自然を信仰しているのであろう。( 哲学から行動を起こすと信仰という行為になる )しかし、それも、目に見える世界を超えたところの神秘性だから、それは、ある意味で超自然的哲学になってしまう。ただ、組み立てられた論理が脆弱なだけだ。でも、論理性が弱いからといってそれを否定することはできない。論理性がないから、あなたの存在は認められないということはないのと同じかもしれない。シュタイナー哲学は、些細なところで論理が脆弱だからその当時の池田さんのプラトニズムとはかみ合わなかったのだろう。しかし、晩年の池田さんは、明確な論理で展開しない仏教や東洋哲学に関心を抱いていたから、やはり日本人として、おのずから回帰しているのかもしれない。まあ、歴史上のことは、その場に立ち会っているわけでもないから、なんとも言えないが,二千五百年経っても、そういう先達の考えすら達していない現代人が多くいるから、哲学には古いも新しいもなく、善し悪しも一概に言えないですね。木田氏が指摘するように、もともと、日本人には、プラトニズムみたいなものを元来持ちえていないのであれば、逆を言えば、日本人は、古代からずっと現在までニーチェの起点と似た立場の生き方をしていると考えて見てみるのはどうでしょう?日本人の多神教崇拝は、言ってみれば神を絶対視していないということですし、生活の便宜として活用しているだけでしょう。だから、偶像としての神様は、石ころでも大木でも見かけが立派な風格でさえあればなんでもいいのでしょう。東洋哲学は、畢竟、眼前にある自然崇拝の思想ではないのでしょうか?西洋のキリスト教が、日本流のキリスト教でしか普及しなかったのは、狐狸庵先生が小説で証明していましたが、今までの話で行くと、プラトニズム的な思考には、日本の民衆がついて行けないからということになりますか。by 大藪光政