塾生に勧める読書本として、イソップ寓話集をテクストに仕立てていたが、その次はどれにしょうかと本を何冊か選定していた。その中で、中村白葉氏、翻訳のトルストイの民話集に目に止まった。
ロマン・ロランが、「トルストイの思想の深みがのぞいている。芸術以上の芸術、永遠なるもの」 と絶賛し、トルストイ自身が、『全著作中もっとも重きをおいた作品』 とのふれ込みで本の表紙を飾っていた。
この文庫本の表紙タイトルは 『イワンのばか』 である。この話は、一度聞いたことがあるので、実は、それに釣られて選んでしまった。中を読むと、イソップ寓話集より、ずっと、やさしい文体で漢字も難解な漢字をさほど使ってはいない。
イソップ原本の翻訳文庫本は、まあ、大人や大学生でもろくに読めない漢字があるので、絵本や児童本とは違って、ちょっと、驚いたが、これはこれで、大変良いと思った。文章を通して読めない漢字を推理して中等科の塾生に、読みと意味を当てさせる自学習にはもってこいであった。ただ、子供に読み聞かせするには、問題の箇所もあったので、そろそろ切り替えようかなと思っていたところである。
その点、トルストイのこの文庫本だと、そんな難解な漢字は、左程出てこないが、その代わり、今度は、 『書かれている意味合いをどう摑むか?』 のところがやっかいだ。中等科の塾生が初等科の塾生に対して、朗読しても、読む方と、それを聞く方も、どちらもトルストイの気持ちを理解するまでに辿り着くだろうか?という疑問があった。
裏を返せば、これを指導する私がどこまで、トルストイの気持ちに近づけることができるかというところが大切なのだと感じた。トルストイについては、『戦争と平和』 の作者であることも、小説家としても、ゆるぎない名声を欲しいままにしているなど誰でも承知でしょう。
しかし、私は、トルストイの小説には距離をおいていました。それというのも、トルストイと宗教との関係について、誤解している面があったからです。第三者のうわさから、文学に宗教を介入させてしまっているというニュアンスを与えられたからです。これは、この民話集を読んで誤解であるというのがよくわかります。
とくに、 『洗礼の子』 を読めば、それに気付きます。まるで、宗教家を馬鹿にしたところがありますから、驚きですね。ロシア正教会から、破門を受けたとされているようですが、そんな気配が十分感じ取れます。しかし、トルストイは、神を冒涜したのではなく、俗っぽい宗教人を正しく描写したに過ぎないようです。
まあ、この民話集をきっかけに、トルストイの長編小説も読むことになるかもしれません。
さて、この民話集の中では、 『小さい悪魔がパンきれのつぐないをした話』 と、 『人にはどれほどの土地がいるか』 と、『鶏の卵ほどの穀物』 が、綴られており、次に目を通したのが、 『洗礼の子』 であった。前半は、成程、イソップとは違って、「寓話としてはかなり内容において、ピンとくるものがあるな」と、すぐに感じました。イソップは、寓話としては、成程と感心するものと、「はてな」と、ピンとこないものとがあります。それは、原書だから、直訳なので、意訳をしてないからだと思います。
これら最初のいずれの民話も、人間の欲とかを皮肉っております。そしてそれらを読んでいくうちに、多分、 『洗礼の子』 は、面白くないだろうと踏んでいました。ところが意外にも、面白い展開でお話を構築していましたから取り上げてみる気になりました。
先程、展開が面白いと言いましたが、入れ子みたいな話の転回をおこなっているところを指します。これは、ロシアのマトリョーシカ人形が、1890年前後から存在しているというから、ひょっとしたら、トルストイはこのマトリョーシカ人形でヒントを得たものか?或いはマトリョーシカ人形の方がトルストイの入れ子をまねていたかもしれない。それは、ただの空想ですけど。
もうひとつ、面白いと思ったのは、洗礼の父が入ってはならぬと言った封印された部屋のドアを開けて、王座に座って笏(しゃく)を両手で取った瞬間に、突然、部屋の四壁が崩れ落ちて・・・そこには、全世界の様子を観ることができる仕掛けになっていた話です。つまり、今で言う、壁掛けディスプレーに、なったということですね。
この話を読んで、「ははあ~ん、ひょっとすると、ドラえもんの作者は、このトルストイの、 この 『洗礼の子』 を読んだことがあるのでは?これをヒントに、ドラえもんの押入れの扉を開けると別の世界に行くことができる発想が生まれたのでは?」 と勘ぐってみるこの私が妙におかしかった。
『洗礼の子』 という、読みは、(せんれいのこ) と読むと思っていたが、翻訳者の中村白葉氏は、(なづけのこ) と、振り仮名をわざわざつけている。宗教人ではない読者が読む時、ここでは、(なづけのこ) と読んだ方が自然と入って行くことができる。
トルストイの民話集では、肉体労働の尊さを評価し、泡銭を拵える商人を批判し、戦争を仕事とする軍隊を操る人を軽蔑している。現代の風潮を予言するかのように、汗を流して働かない者を徹底して批判している。過去のトルストイの時代以上に、昨今は、株などの空売りでお金を得る人、土地転がしでお金を稼ぐ者、自分が使うでもない土地を買い占める者が、続々と出現している。
汗をかかない仕事を持つことが、お金という富を築くもっとも手っ取り早い手法であることになった社会は、すでに、お金に麻痺している。富を得たものが人生の勝ち組と言い切っている今日である。この現実をトルストイが知ったら、泡を吹いて、卒倒したに違いない。
何せ、お金でお金を生ませて、他人が作った最高においしいものを食べることが、至福の人生であると多くのセレブ族は、そう理解しているに違いない。まあ、トルストイに言わせると、「貯金通帳の残高の桁に数多くの0を増やして、死ぬといい。決して、友人も、親族も、身内すら欲張りだから、誰も現金の札束を一緒に埋葬はしてくれまい。お前に似た、お金に目がくらんでいる同類の人種に囲まれて死んで逝くがよい。」 と、言いそうな感じですね。
さて、肝心の洗礼の子は、 山の下から口に水をふくんできては、やけぼっくいに水を掛けながら、“行” をしている、こういう噂が立ったことで、彼のところへは大勢の人がやって来た。それらの人々は、“行” をしている洗礼の子の行為から勝手に推測して、御利益があると思い、色々な贈り物を献上してきた。これは、当時のロシア正教会の宗教団体に対するアイロニーのように感じる。
宗教団体のあり方に対して、当時としては、言ってはいけない厳しい注文をつけたことになる。つまり、信仰の本当の継承というものは、「 “行”そのものではなく、もっと素朴な “個の目覚め” をマトリョーシカ人形のように、地道に展開して継承することだよ」と、言っているように私には聞こえる。
また、犯罪に対しての対処法も、罰というものが、ある意味で、『目には目を、歯には歯を』 のハムラビの法典のように、如何に正当化しても、しっぺ返しの行為をなすようでは、益々罪は増え、決してこの世から犯罪は無くなることはなく繰り返されると言っているようだ。
それに対する解消法は、 “個の目覚め”を説いていくしかないと言っているに違いない。
“個の目覚め” のひとつが、 『他人の糧を当てにせず生き抜くこと』 これは、まず、己自身の自立でしょう。二つ目は、 『信念の通すことに対しては死すら恐れぬこと』 これは、死ぬ覚悟、言い換えれば、生きる覚悟でしょう。そして、三つ目は、 『限りなく人を慈しむこと』 これは、わかっていても、とても行い難しい、慈悲の心を持つことでしょう。
三本の “焼けぼっくい” に水を掛ける継承の解釈としては、その水を掛ける作業にあらず、"個の目覚め”に至らせる為の譬えとしての作法であると感じました。
大切なのは、やはり、"個の目覚め”そのものに至って、それを第三者に継承することでしょう。宗教が組織化していくと、本来の目的を忘れ、大衆に、御利益をぶら下げて、組織が肥大化していく・・・トルストイは、そんなのは宗教とは言わないよと、言っているようですね。
トルストイは、こうした時代の風潮を想定して、これを憂い、この短編を書き上げたのでは?と想像します。
by 大藪光政