本というものは、覗いてみないと分からないものだ。タイトルだけでは、中身が判断できない。そもそも、 『人生論』 などといったタイトルの本を手にして、今までに感心したことが無い。別に、そうしたタイトルの本を読まなくても、小説や詩、俳句、短歌などからも人生の機微を学ぶことができる。
それなのに、あえて 『人生論』 と書かれたタイトルの書物を手にする人は、生きることにおいて前向きに進みたい人、それとも、どこかで心の迷いや振り返ってみたい心境の変化、或いは、切羽詰った立場になってどうすることも出来なく、宗教に走ることも出来ず、呆然としているところを、偶然、目に留まった 『人生論』 の本に手を出す。そんなところでしょうか?そうでなければあとは、知っている著者の様々な考えを学ぼうとしている人などでしょう。
先日、ある日本の著名人の 『人生論』 が書かれた本を手にして、辟易してしまった。そうした失敗をくり返すと、またか!という気持ちになる。そうしたときに、この齢になってようやく興味を抱いてきたトルストイの書いた 『人生論』 という本を図書館で見つけた。でも、この本があることを以前からその存在を知らないわけではない。
今月はちょっとお堅い本を、すでに二冊抱えている。だから、軽い小説でも合わせて読もうかなと思っていたところでこの本が目に付いた。小説ではなかったが、思い余って騙されたつもりでこのトルストイの 『人生論』 を併読することにした。その代わりつまらなかったら、つまらない理由を述べる覚悟で借りることにした。まあ、故人なので死人に口無しだから都合がいい。
この本を開いてみると、有名なパスカルの 『パンセ』 と、カントの 『実践理性批判』 、そして、「ヨハネによる福音書」が序文の前に飾られていた。これは、この 『人生論』 を出すに当たって、トルストイが掲げていたものであろう。
さて、最初の 『序』 を読んで、まず驚いてしまった。なんと、内容が 『生命』 に関する論文であった。それも、ちゃんとした、科学に対する批評も交えた論文である。
科学が 『生命』 というものに対して、すべてを解明できるものではないということを淡々と述べている。これは、現代科学に対する思い上がり的な何でも分子レベルまで追求してかつ、その関連を調べれば必ず生命の正体がわかるであろうという誤った考えや、脳科学のような取り組みをやれば、心とは何か?まで、解析できるということに対する警鐘の論文といえる。つまり、科学が解明できるのは、その分野のほんの一部であって、すべてというわけには行かないということを述べている。
初っ端から、大変、魅力ある論文にぶつかってしまった。これは今日でも通用する考えである。しかし、何故 『人生論』 というテーマなのに、冒頭にこうした 『生命』 を取り上げているのか?その 『生命』 という言葉に対しては、生命科学だけではなく、人の生身の思考についても語られてはいるのだが・・・何故だろう?と思って、原卓也氏が記した後書の解説を先んじて読んでみた。
すると、この 『人生論』 は、トルストイが五十八歳の時に大病したことがきっかけで、病後、まる一年かけて執筆されたということです。病気にかかったのは夏で、体調を戻したのが秋ごろだったようです。そうした経緯から、ちょうど今の私と同じ齢ということがわかり、しかも、同じ季節の夏に入るところで私がこの本を開くきっかけになったのは、不思議な因縁だなあと思いました。
草稿としてのテーマは、『生命についての概念』 ( 『生と死について』 ) という題で講演した内容が後で 『人生論』 となったようです。この本は、1888年に出版しょうとしましたが、「正教の教義に対する不信を植えつけ、祖国愛を否定している」という理由で、検閲により発禁本となる。完全な本の形で初めて出版されたのは、フランス語訳本で、1889年頃です。
恐らく、この本は西洋だけでなく、日本の文壇に対してもかなり影響を与えるほどのものだったといえるでしょう。小林秀雄なども科学に対する批評では、このような考えを抱いていたから、こうしたトルストイの影響を受けた一人かもしれない。
原卓也氏は、こうした論文の成立状況からして、 『生命について』 と訳すのがもっとも内容を正確に伝えると言っている。そして、日本語では、生命、生活、人生、一生と、訳語としていくつもあるが、ロシア語ではこれらすべての意味が、ジーズニと言う一語に含まれていると説明されています。つまり、論文の内容次第で言葉の意味をそれぞれ合わせていけば了解できるようです。そうしたところの注意があれば、読者と原作者との交流がうまくいきそうです。
しかし、読み始めて後で分かったことですが、そのことを本当に十分意識して読まないと、意味が通らない場合があります。前記の言葉以外に、 『生命』 と言う言葉を 『生きること』 とか、 『生き方』 と言った風に、自分で適切な言葉に入れ替えて当て嵌めてみる工夫が要ります。恐らく、原卓也氏は、思想家としてではなく翻訳者としての原文の忠実さを守る為に、『生命』 という一語のままにされたのでしょうが、読者レベルによっては、それが逆に読者を惑わすことにもなりかねないようです。
このトルストイの科学に対する姿勢については、今の私には、特に異議なしですが、先日の朝日新聞の朝刊に、うつ病であるかどうかの判定を、遺伝子検査技術を駆使して、チップに血液反応検査を行うことで、うつ病かどうかの判定がかなりの精度でわかるという研究結果が報じられていました。まあ、それでも、医者の問診による診断は欠かせないと言うことを付け加えられていましたが (笑) 、精神に関する変化も科学技術で,ある程度は解析できるところまで今日の科学は発達してきたわけです。
恐らく、今の世にトルストイが生きていたら、「 肝心なのは、科学で色々と一部一部が解明できるようになるのは良いが、その行き着く先の目的は何なのだ!無目的にそうした研究に一生を捧げて死んでいくことが、あなたの善き人生か?」そんな声が聞こえてくるような気がしてしまった。
第一章は、「人間生命の根本的な矛盾」 というテーマで入っていきます。ここでは、早速、『幸福』 という言葉が度々引用されていますが、この、『幸福』 と言う言葉も大変抽象的な言葉であります。 『生命』 において、『幸福』 というキーワードが引き起こす、己や、他の人が関わることによって生じる矛盾もある。それは、「一人、ひとりの人間にとって、生きるということは、幸福を望み、獲得することは、生きることと同じである。」 というトルストイの言葉によって、非常に現実的な位置づけから課題が展開していく。そして、自己の存在と、他の存在との意識の関連付けも語っていきます。
第二章に入ると、「人類のもっとも偉大な頭脳によって人々に啓示された真の幸福の定義、したがってまた真の生命の定義も、本質的にはすべて同じものである」 と言って、孔子、バラモン教徒、仏陀、ユダヤの賢者、そして、キリストの格言を紹介して論を進める。
「人間生命の根本的な矛盾」 と言うことについては、畢竟、人間は、動物的生命をもった存在であるから、理性を持ち合わせていなければ、矛盾は無いであろうが、人間は理性に芽生えたことで生きる上でその矛盾を抱えてしまうということを焦点に語られていく。
こうした、見地で、あとは、「パリサイの徒や学者たちの偽りの教えは、真の生命の意味の説明も、生命のみちびきも与えてくれない。生命の唯一のみちびきとなっているのは、合理的な説明を持たぬ生活の惰性である。」と、第五章のテーマを掲げて、パリサイの徒や学者たちに対する批判を連ねいていく。 ( この批判が、発禁にされた理由でしょう )
ここのテーマを、現代の言葉としての 『生命』 とすると、少し、無理があり、ここでは、『生きること』 と言う風に置き換えた方がピンと来る。それにしても、言論が自由でない時代なのに、痛烈な批判を繰り返しているのを一度読めば、如何にトルストイが強靭な反骨精神を持っているかを知ることが出来ます。
第七章になると 「意識の分裂は動物の生命と人間の生命との混同から生ずる。」 という、ちょっと分かりにくいタイトルになりますが、トルストイがいうところの動物的個我と、理性との関係を指すのでしょう。この辺を読んでいくと大変面白いことに気付きます。そこで、トルストイの暗示するところを我流で解釈してみますと、次のようになります。
『自分と言う存在は、生まれたときからずっと現在まで継続して生きているので時間軸でいう、その延長線上は常に、己の存在の継続だと認識する。だからどのプロットでも、すべては、現在における自分と同一であると思ってしまいがちであるが、実は、その時間軸でプロットするところの人物は、すべて違う人間なのだ。』 と、トルストイが言っているような感じがします。
これは、昆虫で言えば、蝶の前は、蛹であり、その前は、幼虫であり、そして、始めは、卵であったわけですが、昆虫の場合は、こうした外観の形体にも劇的な変化があり、第三者的に見ても、成虫と、それらの成長過程の結びつきを同一の存在としては見づらいものです。また、昆虫にも心があるならば、葉っぱを這っている幼虫と空を飛び回っている蝶とでは、その心持ちもその存在意義も大きく違ってくるでしょう。
その点、人間の場合は、生まれてからの基本形状が左程変わらないので、あとは、その身体上の発育だけなので、大人になった現在の自分からみると、身体上にて過去の自分から今の自分に変化したことを認めることが出来るので、身も心も、現在の 『私』 を延長線上にある過去の 『私』 と同一者だと疑わない人が殆どでしょう。
そうした誤解は、過去の人と再会した時に、大きな疑問としてぶつかることがあります。たとえば、数十年以上会わなかった知人或いは親族と再会した時に、こちらが想い描いた人物とフィーリングや考えがまったく違うことに気付き、相手が変わってしまったと思ったりするのです。そこで、自分は昔とちっとも変わらない私であるのに、何故、こうもあの人は変わってしまったのだろうか?或いは、「あいつは、もともとこんなヤツだったのか?何で、自分はそれに気付かなかったのだろう?」と、首をひねることがあります。
これは、逆に相手の方もそう思っているかもしれません。
人間は、囲まれた境遇と新しく得た知識により、そして、芽生えた理性で、どんどん変貌していく生命のようです。だから、今日の私は、何かの新しい智慧を発見したり大きな経験を得たりすることで、或いは、ふとした人との出会いで、理性はいつともなく大きく発達し、昨日の私とは別人になりえるかもしれません。本当に、それは突然変異のように起こりえるものだと思います。人間には、理性という半分やっかいなものをもつことによって、そうした機会があると思います。
先日、アクロス福岡2Fで、女性カメラマンによる写真展があっていましたが、世界の名所 (人が寄りつかない所ばかり) を、あちこち旅行しながら写真を撮ったその方は、90歳を超えておられました。知り合いの来客と会話されていたのを、傍耳を立てて聞いていましたが、話のテンポも早く応答も的確で、その立ち姿もしゃんとして立派なものでした。この高齢にしては、かなりのバイタリティーを感じました。
そこで、その方が一人になったとき、近づいてちょっと挨拶して、お話をしてみました。その話の最後に、何故、こうも、元気に世界をその齢で、駆け巡ることが出来るのか?そして、生き生きとした話ができるのか?を尋ねたところ、こうした答えが返ってきました。 「私は、過去を振り返らないことにしているのです。今と、明日しか考えませんし、そのことだけを追いかけています。」こうした、返事を聞いて帰って、後で、こうしてトルストイを読んでいると、まさしく、今という自分の存在を大切にしているのだなと、思った次第です。
過去の出来損ないだった自分を色々詮索しても始まらないことですし、或いは、得意満面な頃の思い出を何度も未練たらしく懐かしんでも、過去の自分は、過去の自分、そして、現在の自分が新しく存在していると考えることで、如何に生きていくかに取り組むことの方がより大切でしょう。だから、過去を反省することは大切ですが、それを現在の自分と同一する必要はないようです。
本を第14章まで読み進める途中、翻訳者は、大変な仕事だなあとつくづく思いました。こうして、わかりやすい日本語に翻訳されている文章を読んでも、ここまでに何度もどういう意味だろう?と考え込んでしまったことが度々でした。どうも、哲学を文学的に語っているトルストイの文章は、譬えの引用を持ち出すから、わかりやすい場合もあるが、逆に、その引用はどうかなあ?と思ってしまうこともありますから、譬え話の翻訳も慎重にならざるを得ないと思います。
恐らく、原卓也氏は、普通の小説とは違って、真っ暗な暗闇の中を小さなあかりを頼りに道を探し出し、朝になるともう一度、それが間違いないかを確認し、一歩一歩の道程を明らかにされたのだろう。そのように人が苦労して切り開いた道であっても、初心の登山者はそれでも道に迷う。
だから、この第14章の「人間の真の生命とは、空間と時間の中で生ずるものとは異なる。」などという、タイトルが来ると、難しいと思ってしまう。もう、ここらで、登山を断念しょうかとすら思うかもしれない。人によっては、『人生論』 と書いてあるのに、ちっとも、現実的な方法論がない。今で言う、How to的な事柄はまったく書かれていないなどと不満を述べるかもしれない。そういう方は、昨今のつまらないHow to的な人生論を読むしかないでしょう。
トルストイの、『人生論』 は、「人は何の為に生きるのか?真の幸福とは何か?動物的個我と理性の関係を如何に昇華させるべきか?」などといった、人間の存在を根源的に見つめていくもののようです。
第14章の最後には、大変興味深い考えをトルストイは示しているので、その言い分をここで取り上げてみます。
「理性的な生命は存在する。それだけが存在するのである。その生命にとっては、一分間の合間でも五万年の合間でも同じことだ。なぜなら、その生命にとって時間は存在しないからである。人間の真の生命、すなわち、人が他のあらゆる生命についての概念を作り上げるもととなる生命は、理性の法則におのれの個我を従わせることによって得られる、幸福への志向にほかならない。理性も、理性への従属度も、空間によっても時間によっても決定されるものではない。人間の真の生命は時間と空間にかかわりなく流れているのである。」
つまり、ふつうの動物とは違って、理性をもった動物としての人間には、動物的個我をコントロールする理性によって生まれ変わった心の生命という存在に目を向けているように思われる。だから、そうした肉体をともなわない理性的なあたらしい生命が時空を超えて存在できることを言いたかったのだろう。トルストイの理性が、こうして我々にいつでも呼びかけることができるのも、その証でしょう。
また、大胆にもトルストイは、『生命』 について、動物的個我の誕生から死までのひとかけらの時間の存在は、『生命』 とは言いがたい、こんなものは生命ではないとまで言い放っている。だから彼が言う 『真の生命』 とは、物理学上の一線を超えた形而上の世界のことを言っているみたいだが、それとはちょっと違った意味であろう。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」 ( マタイによる福音書第16章25節 ) を引用してトルストイは、この解釈を次のように述べている。
「いずれ滅びるもの、滅ぶべきもの、すなわち、われわれの動物的個我を否定することによってはじめて、われわれは、滅びることのない、また滅びるはずのない真の生命を手に入れられる、ということである。われわれにとって生命ではなかったもの、生命でありえなかったもの、すなわちわれわれの動物的存在を、生命とみなすことをやめた時、はじめて真の生命がはじまる、と語られているのだ。」
この辺で、トルストイは何を言いたかったのかが、徐に分かってくる。しかし、ここで、やっと本のページも半ばなのですから、小説のように気軽に読めると思っていましたが大変な誤算でした。
それと、読んでいて気付いたことですが、トルストイは同じようなことを何度も何度も執拗に繰り返して訴えていく癖がある。一度言えばよいことだが、言葉や譬えを次々に交えて繰言をいう。この粘りは何だろう?と、思ってしまう。恐らく、大陸の西洋人と島国の日本人との違いか?或いは、狩猟民族と農耕民族との違いかもしれない。
絵画において、西洋の人は、立体的な描写で精神を埋め尽くし、東洋の日本人は平面を極めてその内に精神を隠す。トルストイが、こうした粘り強い姿勢で書き上げていくのは、多くの繰り返し発言でもって論理を叩き上げるようにして構築し、それを正論化しょうという姿勢かもしれない。日本人だったら、俳句や歌のように達観した一言で言い尽くすことに務めるだろう。どちらが良いかは、一長一短で読者次第でしょう。
この後からは、 『愛』 について語られていく。この 『愛』 も、大変抽象的な言葉だ。第24章のタイトルは、すばり、「真の愛は個我の幸福を否定した結果である。」とつけている。そして、その中でも、「愛とは、自分、すなわち自己の動物的個我よりも他の存在を好もしく思う感情である。」と、言い放っている。
ここでも、面白い譬えで、次のように述べている。 「 愛の大きさは、分数の大きさである。分子は他者に対する自分の好みや共感で、これは自分の思うままにはならない。分母は自分自身に対する愛で、これは動物的個我に付与する意義に応じて、無限に大きくも小さくもなりうる。愛や、愛の尺度に関するわれわれの世界の判断は、分母を考えずに分子だけで分数の大きさをはかる判断である。」と、実にうまいことを云っている。
しかし、どんなにトルストイが譬え話で持って論を展開して読者に語りかけても、しばし、同感はあっても、論理的な説明にはならない。こうして、最後まで読んでしまってもこの本は、哲学書ではなく。やはり、文学上の哲学的な語りであろう。
例えば、彼の云う、動物的個我の幸福を捨てて、理性により動物的個我をコントロールすることで、他者の幸福を具現化させることや、恋人や親族ではないまったく無関係の他を愛すること、又は、対立関係にある相手の幸福を願い、かつ、その敵を愛することが本当に真理なのだろうか?という疑問がある。
例に取れば、或る時、地下鉄の線路に目の見えない方が転落したとしょう。こうしたことで、誰か勇気ある若者が線路に飛び込みその方を救ったが、本人は、残念ながら列車にはねられて死亡する。これが、トルストイが言う、真の幸福であろう。自分の生命を投げ出してまでして他の生命を救ったのだから当然そうであろう。
これは、美談ではなく、間違いなく、誰ともわからない他者の生命を救う気持ちが心から瞬間的に発した行為であり、『愛のかたち』 だと思う。そこまでは、正しいと思うが、もし、人類皆がそうした善き理性を持った人びとばかりになると、すると、どうなると思いますか?
プラットフォームに居合わせた人びとは、皆誰しも決してためらうことなく、一瞬にしてその転落者を救おうとして、我が生命を省みず、次々に我先にと、線路上に飛び込むであろう。そうなると、真の幸福を知っている多くの人びとの死体の山が線路上に溢れるでしょう。
あるとき、鯨の大群が岸にめがけて何が原因か?何の意図かわからずに、集団で死滅することがあるのですが、それと似たように、真の幸福の何たるかを知ったすべての人類の誕生によって、世界のあちこちで集団的献身の死の行為が起きることになるはずだが、本当にそのようにはなるのだろうか?
もうひとつのは、自分の家族を殺した相手にも愛を捧げることが果たして出来るのか?ということです。すべての人びとが、個我を押さえて理性で持って行動を起し、愛を捧げるのであれば、その被告である犯罪者の刑事裁判においては、その被告の為に、重刑にならないように、己が弁護しなければならないでしょう。そのとき、どのように身内を殺害した犯罪者を弁護するというのだろう。
動物的個我から発する、真でない幸福と、自分の気に入った相手を愛することなど・・・さえも含めて、すべてを包み込むことが世界維持のバランスとして必要だと思うのです。世の中の多くは、そうした動物的個我だけで生きている人、すなわち、日々の生活に己の幸福を求めてやまない人々がいる。しかし、少数ではあるが、動物的個我とも葛藤しながら、理性の定めるところに行為を見出す人もいる。その絶妙なバランスが必要なのかもしれません。
最後の章の辺になると、トルストイは、人の心だけでなく肉体も厳密に言えば、日々、同一の存在ではないと語っています。つまり、肉体は物質としてもその細胞が、日々、新しい生命と入れ替わっていると生物学的見解も述べています。そして、この辺では生命の死や不死についても次のように述べています。
「人は、もし自分がかつて存在せず、無から現れて死ぬのだとすれば、この独自な自分などというものはもはや二度と存在しないだろうし、存在するはずもない、ということを知っている。人は、自分が決して生まれてきたのではなく、常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識する時にはじめて、自分が死なないことを認識するであろう。自分の生命が一つの波でなぞなく、その生命の中にもっぱら波となって現れる永遠の運動であることを理解する時にはじめて、人は自己の不死を信ずるようになるであろう。」という、大変意味深なことを書き記しています。
これは、肉体の生物学的な死生観ではなく、魂のような超越した存在感を示しているようです。 『自分が決して生まれてきたのではなく、常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識する時にはじめて、自分が死なないことを認識するであろう』 というところのくだりは、まさに、考えさせられるところでしょう。
恐らく 『真の生命』 は、最初から存在していたのだという、過去、未来に関係なく始まりも終わりもなく存在していたという考え方も大変興味深いことだと思います。
それと、『その生命の中にもっぱら波となって現れる永遠の運動であること・・・』 という意味の 『波』 が何をさすのか?光が粒子と波の性質を併せ持っているという物理学的な 『波』 の不思議なニュアンスを併せて活用したような譬えも引きつけられるところです。
さて、最後にトルストイは、「人は常にあらゆることを、信仰を通してではなく、理性を通じて認識する。」と言って、信仰を選択するのも理性であるとして、理性あっての信仰という考えをはっきり示しています。これも、宗教団体にとっては面白くない見解でしょう。 『神』 も人間の理性あっての 『神』 ということですから、もはや、「妄信的な信者になるな!」と、言うのと同じである。宗教で飯を食っている団体にとっては、営業妨害で、聞き捨てならぬことだと思います。(笑)
この本を読んで、トルストイが世界の隅々の思想まで、色々と研究し、思索を巡らせていることに対して、驚きと感慨深い想いを寄せています。そのトルストイが取り上げている、 『幸福』 と 『愛』 についての言い分を理解することよりも、実行することの方が難しいのは明白なのですが、動物的個我をもち続けながら己の理性を磨きつつ、幾多の矛盾を乗越える努力で、他が喜び、結果的に己の喜びとなることが生きている間少しでも具現化することができたらなあと思って本を閉じ、まだ暗い朝を迎えました。
by 大藪光政