この本は、以前、朝日新聞朝刊の読書欄に紹介されていた本です。今、東大、京大でベストセラー1位の売れ行きだという触れ込みで紹介されていました。もともと、天の邪鬼であるから、そんなタレコミに誘惑されて読むことはないのだが、著者紹介で外山氏は、人の名前を覚えるのが苦手だという話に興味を抱いた。
私の場合も同様、公私共に人の名前を覚えるのが苦手だという一大欠点があった。幼少の頃は、何でも記憶力が抜群であったのが、いつの間にか、自分に感心のないことは全く記憶出来ないようになってしまった。それが名前まで波及してしまったようだ。余程憎たらしい人とか、すごく印象を与えた人の名はすぐに覚えるが、後は皆無である。
また、もう一つ苦手なのは、新しい曲のタイトルとか、初めて知る地名も同じである。しかし、よくよく考えると、そうしたものに限らず、仕事上の新しいプログラムソースもすぐに覚えるが使わなければすぐに忘れてしまうので、またやれば思い出すからと半分あきらめている。仕事の些細なことについても、ゾロゾロとそうした健忘症の気配が見えてくる。そこで、歳のことは考えたくないから開き直って、そうしたものは記憶する必要がないという我田引水だがそうした確信を持っている。
過去をもう一度よく振り返ってみると、高校の時も、好きな世界史は教科書丸ごと記憶して試験は楽勝だったけれども、嫌いな日本史はそれが出来なかった。これは、日本史の教師が嫌いだったせいだと思う。どうも、記憶力と好き嫌い、記憶と関心度に深い関係の秘密がありそうだと思った。
そこで、この名前を覚えるのが苦手だという私と同類の著者である外山氏の話を伺ってみようと思ってこの本を図書館に頼んで手に入れた。この本は、1986年に出版されてすでに第五十六刷発行となっている。手にした新書の文庫本は、今夏、八月十日に印刷されている。新聞の紹介と発行日が妙に同期しているから、色々と業界で商魂たくましく繋がっているのがよくわかる。
それでも、24年間ぐらいの月日が過ぎても読み直されているから中身は満更でもないと思われる。息の長いベストセラーなのかもしれない。さて、目次で一番最初のタイトルは、「グライダー」である。これは、現在の大学生の立場を皮肉っているというよりも、今も昔も変わらぬ日本の大学生の立場を正しく描写している。東大、京大でベストセラーというから、エリート大学でも、これに書かれてあることで身に覚えのある学生ばかりでしょう。
要するに、学生が、主体性を持って生きていくことのもどかしさとして、学問への目的と行動における自立心を指摘している。簡潔に言えば、「乳離れ」ということである。学生をグライダーとして喩えたのは、進路も風任せだからでしょう。まあ、ここに書かれてあることは学生が卒論などに取り組む時の姿勢について、お灸を据えているといったところみたいですね。でも、多くの学生は、受験勉強でそうした依存的な学習に慣れていますから致し方ありません。学生に非はない。教育制度に問題がある。
この本の後書きに、1983年、当時の著者は、「・・・この本も、技術や方法を読者に提供しょうという意図はもっていない。いわゆるハウツウものにならないようにしたつもりである。・・・」と、述懐している。しかし、この本を読んでみたところ、そうともいえないなあと思った。たとえば、「手帖とノート」みたいなテーマのところなどは、立派な実務的ハウツウものだと思う。
しかし、面倒臭がり屋の私にとっては、そうした内容のハウツウを知って大変感心はするが、まねをしょうとは思わない。元来、私はそうしたメモを取るのが苦手な性分である。年末に立派な手帖を欲しいと思えば仕事上、ただで何冊も手に入るがあまり欲しいとは思わないし、便宜上というより体面上、会議とか個別面談のアクセサリーとして、一応、持つには持つが、メモは滅多に取らない。マイクロソフト社のアウトルック・スケジュール機能も何度か使っては見たが、結局、面倒なので止めてしまった。約束事の日時は、すべて携帯に打ち込む。そうでないと、メモしても、そのままになって忘れてしまうからである。(笑) 携帯だと自分の傍でアラームが鳴る。現在は、ずっと、このスタイルだ。
では、本当に私の記憶力が弱いのかと言えばそうではないみたいだ。たとえば、会議の内容で後日に意見を求められると、会議担当の書記がメモした内容以上のことをすべて記憶しており、それをA4にてWordで打とうと思えば何枚でも文章と図で仕上げることが出来る。これは我ながら不思議である。要は、その会議で重要かつ、問題となったことに関する仔細と、それに対する自身の見解が出来ているからかもしれない。
外山氏は、この本を書くときにハウツウ的にならないようにと恐れていたようだが、やはり、思考の仕組みとか方法論を語るということは、畢竟、ハウツウになってしまうのは否めないでしょう。しかし、普遍的なハウツウを発見すれば、それはそれで価値があると思う。この本にはそれが十分に含まれているから、その場限りのハウツウではない。だからあまり気にされなくていいのでは、と思う。
それにしても、外山氏から学ぶことは幾つもあった。やはり、学者はすごい。文章の作り方にしても、しかり、あまり、自己を表に出さないように書くことが、品のよい文章にするみたいだ。これには、薄々気付いてはいたが、書いていると誰の発言か?わからないように書くのも卑怯に感じるし、客観的な読み手も戸惑うのでは?というところもあるが、 『私は』 を外すことで、格調的になるのは事実であろう。詩などは、決して作者の存在を前に出さず表現しきるから、格調が生まれるのでしょう。
つまり、名文は、如何に文章上の自己を殺して、自己を表現するか?ということでしょう。『オレが』 、『オレが』 と、云った気持ちで前に出てしまう文章は、頂けないということですね。そういう意味では、オレがオレがの私としては、かなり反省!(笑)
あと、文章は、書いた後で寝かせると云ったことや、音読してみるというのも、それが良い文章作りであることは、百も承知だが、日本人は水墨画や水彩画が得意なように、勢いで描くことに長けていて、油彩のように何度も塗り重ねて寝かせて描いていくのが苦手だ。つまり、気が短いのかもしれない。だから、ついつい、文章も勢いで書いて出してしまう癖がある。但し、後で後悔することが多い。この癖(病気)なかなか治らない!(笑)
あまりに、寝かせて手を加えることで、段々つまらない長文になるとまずいのですが、寝かせるほどに、つまらない要らない言葉が削られて必然的なものだけが残る・・・本当はそんな文章がいいのでしょう。
ところで、文章づくりもパソコンの普及と性能、そして、インターネット時代になって随分と形態が変わってきたのかもしれない。外山氏は、すでに長老ですからパソコンで文章を打ったりしてシステムを利用する機会は少なかったと思いますが・・・中には、うちの親戚の叔父みたいに、八十歳を過ぎても矍鑠としてITを駆使している人もおられますから・・・なんとも言えませんが、殆どの方は使われていないでしょう。でも、昨今、多くの大学生はパソコンで文章を書くのは当たり前となっていますし、リポートも、ワードで打って仕上げて提出するのが当たり前のようです。
外山氏が、最後のところで、「コンピューター」と題したコメントを述べておられますが、「パソコン」という用語でなく、「コンピューター」と、題した氏の雰囲気からしても、若い人にとっては世代の相違を感じるでしょう。当時としては、コンピューターといっても違和感はありませんが、昨今では、コンピューターというと、幅広い活用ジャンルでの大枠的なシステム構築を指すようです。今日では、生活に身近なパソコンというネーミングで親しまれていますね。
『考える』 、 『記憶する』 、 『行動する』 の三つのうち、人間よりはるかに機械が上位なのが、『記憶する』 ですね。そのデータベースとして、記憶保存の信頼性と記憶容量に関してはストレージ機器に勝るものはありません。PC用メモリーが今日、低コストで限りなく増設可能な時代に入りましたし、昨今では、メモリーをパソコンに収納するより、プロバイダー経由でもっとも信頼の出来る場所に保管出来るし、又、そのデーターの共有化も当たり前になってきました。公的な図書館、博物館、美術館の資料がすべてデータベース化され、自由に検索される時代、そして、さらに誰もが手軽に膨大な計算処理が出来る時代です。
このような時代でも、人間にしかできないことは、『思考』 という作業です。その作業の手法を整理してみた一例としての本が、この本です。学問には本当にいろいろな分野があるものです。『考え』 の考え方を研究することも、学問として成り立つということですね。 でも、それは畢竟、方法論ですね。そうした方法論を学習して効率よく勉学や仕事を進めたいというのは、学生だけでなく学者もそうなのでしょうか?
最近、私も文章を作成するに当たって効率化の為にジャストシステム社のATOKのお試し版をインストールしてみました。確かに、長いフレーズを変換するのは、マイクロソフト社のIMEよりもうまくいきます。しかし、しばらく、使っていると、ATOKのアクセサリー的なツールが、逆に邪魔になる場合があります。中には、IMEの使い良さも発見します。道具って本当に選択が難しいですね。
ところで、ATOKとIMEをPC上にて、同居させて、交互に使い始めると面白いことが起きます。両者がPCの覇権を争うみたいに、ぶつかり合うのです。こちらがセレクトしたようには素直に切り替わってくれません。ツールバーが二つもデスクトップ上に表示されたりします。困ったものです。ジャストシステム社に問い合わせてみましたが、明確な説明が得られませんでした。切り替わったとき表示が残っているだけだと言われましたが、利用者はそれでは困るのです。使ってみて気に入らなければ、それはそれだけの話ですという雰囲気の応対でした。そういうことでは、いつまで経ってもマイクロソフト社のIMEとWordに日本のPCが支配されたままになるでしょうが!と言いたくなる。
話は脱線しましたが、脱線したついでに、あの池田晶子さんは、ワープロを三日坊主で投げ出したという話を読んだことがあります。彼女はもともと車の運転にしても機械音痴のようです。本人もそう認めていたようです。でも、よく考えてみると不器用な人にとっては、下手にワープロ(旧システム)或いはWordや一太郎のような文章作成ソフトを使って文章を仕上げるよりも、手書きの方がより効率的な様な気がします。
また、どちらが名文を生み出すか?本当にわからないところですが、システムに依存したほうが、誤字脱字や、訂正がスムーズに処理されますから、校正作業はシステム依存の方が上位でしょう。
でも、トドノツマリは中身ですから、中身がつまらなけれぱ、おしまいですね。
『名文は心身ともにあり』 ということでしたら、やはり、直筆での作成が一番でしょう。
でも、漢字が思い出せない・・・或いは、下手な筆跡で自己嫌悪に陥る文筆家にとってシステムは、やはり救世主でしょう。
つまり、松葉杖かなあ~。
私は差し詰め、松葉杖でブログ畑をあちこち歩き回る下手の横好き者ですがね。(笑)
by 大藪光政