[ 大分の中津城 ]
加藤 廣氏の作品に、『信長の棺』 という小説があって、以前、これを読んだ事がある。これを読むきっかけは、小泉元総理がこの本を読んで面白かったという感想をどこかで聞いてそれが頭の片隅にあって、後ほど、この本を図書館で見かけ、それを手にしたことから、加藤 廣氏の作品を初めて読むに至った経緯がある。
そして、加藤 廣氏の第二弾としての作品である 『秀吉の枷』 の本は、息子がこの本を買ったことから、「親父、読まないか?」と、誘われて読んでみようという気になり、年の瀬に一気に、上、中、下巻を読み終えました。
加藤氏は、作家としては異色の人であるのは有名ですね。中小企業金融公庫の役職を歴任して企業のコンサルタントなどをしながらの作家としては遅咲きの人です。
恐らく、そうした地道な職業の中においても、様々なタイプの人々との関わりから、人それぞれの生き方を見抜き通すことで、こうした作品に結実させることが出来たのでしょう。
この時代小説は、フィクション或いはノンフィクションのどちらにも偏っていないと思います。時代背景は、きっちり調べてあるし、かといって、今日までの定説については、疑問点をあぶり出し、自説をたくみに展開する姿勢があり、フィクションのようでノンフィクションのようなファジーな領域を軽妙なタッチで、うまく、そして、面白く描き切っています。
だから、読者は、本当かな?と思いつつ、物語に吸い込まれてしまう。そういう意味において、この小説は、立派に成功を収めていると言えるでしょう。私が、この作品で共感を得られるのは、歴史というものは、後の人によってある程度は、創作されるというところの真実を正直に演出してくれる著者の姿勢です。
この本を読むに当たっては、当然、私は娯楽として読んだわけですが、著者は時代物小説を娯楽として十分堪能させてくれました。それは、ウソのようなホントのような語りが、大人の娯楽としての醍醐味になっているからです。
そもそも、図書館にある児童が読む歴史上の伝記は、すべて、その人の立場で描かれていて、それを読むとその人の偉大さがわかる仕組みとなっています。だから、信長を読めば、革命者としての信長はすごいなあ~と感心しますし、秀吉を読めば、人をあっと言わせる賢さに感服させられます。そして、家康を読めば、人生において辛苦に耐えたものが、最後は果実を得ることができることを悟らせてくれます。
じゃあ、誰の生き方が一番良いのか?と小学生の子供だったら考えるでしょう。しかし、児童向けの伝記ではなく、こうした大人の時代小説を読めば、皆、処世術を駆使して強食弱肉の世界を如何に生き抜くか?その為には、道徳も糞もない!といった索漠たる視点に立たされます。
信長や秀吉が活躍する戦国時代は、人間の気質の激しさをもろに下呂させていますが、今日においては、そうした、えげつない処世術による乱暴は犯罪ということになります。( 福田恆存は、講演で処世術は決して賤しむべきものではなく生きる上で必要なものであるみたいなことを言っていました。)
ノーベル賞を受賞した益川さんは、「あと二百年したら世界から戦争は無くなるだろうと言ったら、『そんな脳天なことを・・・』 (実際の益川さんが言われた表現とは違いますが、そんな雰囲気を感じました。) と言う人がいるが、過去の歴史から言ってそんな気がする。」と言われています。
これは、確かに、人間の気質はいつの世も変わらないものですが、時代を経て、少しずつではありますが、人間社会は明らかに変革を遂げています。
この小説を読めば、人間と言うものは権力をいったん手中に収めると、如何に傲慢になり、意の向くまま好き勝手をし出すかがわかり、また、その傲慢さ故、我が身や一族があっけなく滅んでいくという虚しさの余韻を味合わせてくれます。
今日では、総理大臣という権力者ですら、たったひとつのことでも物事を決めていくのにままにならない時代ですから、こうした時代劇を読めば、やはり、世の中は大きく変わったのだということがよくわかります。
つまり、権力者といえども、他人の意見を拝聴しなければ許されない時代が、今日の世界なのです。そうしてみると、益川さんが言われた 『この世から戦争が無くなる話』 は、まんざら空想的社会ではなく、人類の歴史から見れば、ごく近未来に実現しそうな社会である気がします。
だから、これは、たいした達観で予言されているなあと思います。もちろん、現在、存在している人は皆、誰もその頃までは生きていませんが・・・(笑)
そうした、戦争がこの世から消え去った近未来の人々は、どんな想いで過去の戦争を題材とした小説を読むのでしょうか?今の日本人の多くは、戦争未経験者ばかりですが、最近の湾岸戦争は多くの人がテレビで知っています。イラクがアメリカによって徹底的に攻撃されたとき、恐らく多くの人々はテレビを通してノンフィクション映画を見るように興奮したと思います。
私自身も、血気を帯びるようにアメリカの攻撃を見ていました。これは、人間の本能なのでしょうか?自分さえ安全で損失を伴わないことがわかっていれば、平気でその戦いぶりを見ることができるのです。アメリカの爆撃で、イラクの兵士が吹っ飛ばされても可哀想という気持ちすら抱きませんでした。戦争だから当たり前なのかもしれません。
それは、小説を読むときに、権力者に惨殺される人々を可哀想だとか思わずに、ただ息を呑んで読み続ける姿勢と変わらないと思います。要は、自分が惨事を味わっていないから、そうして、平気でいられるのです。
そうした他人の惨劇を平気で見られる立場にあることが幸せであるのかというと、なんだかそうした悲劇の人々に対して失礼な気もします。
無難に生きていられるということが、幸せなことなのでしょうけど、そうした状況下で不幸な人々を直視して見ていられる立場というのも実に変な気分です。
娯楽本として読める時代劇と言うのは、やはり、生々しさが風化した年代でなければならないのでしょうが、その生々しい戦いがあっての今日なのですから、実に、妙な娯楽本なわけですね。
by 大藪光政