書物からの回帰-朝顔


前回の最後のところで、木田元氏の「哲学は人生の役に立つのか」を読んでいると書きましたが、哲学者としてはこの方の経歴はとても面白いですね。 江田島の海軍兵学校で終戦を迎え、テキ屋や闇屋など生きる為には何でもやるという“良心”をもった変な心意気、ハイデッガーがわからないということで哲学に深入りしてしまったという、とても素朴で実直な方みたいです。だから木田氏の自伝として読めば素直に面白く読めます。


木田氏は、もう、81歳前後におなりになっているでしょう。

四年前に胃がんの手術をされたそうですが、ご高齢の場合は癌の進行も遅いみたいですから、もし、仮に完治していなくても、がん細胞の発育は遅いから死ぬまで大丈夫でしょう。いらん世話かな?(笑)


さて、「哲学は人生の役に立つのか」という問いかけですが、これは、木田氏がこれと似た質問を学生から受けています。その回答として、社会に役に立つとか、世のため人のために役立つとかについては、「役に立たない」と、きっぱり言われています。それを読んだとき、そんなことはないだろうと・・・頭をひねりましたが、よくよく考えてみると、確かに、歴史がそれを表立って証明しているようです。


たとえば、木田氏がとても気になった哲学者のハイデッガーですら、独裁者ヒットラーの片棒を担いだのではと、陰口を叩かれたように、必ずしも哲学をやる人間が社会の為につくすとは限らないのですから、「役に立たない」と思っても仕方ないでしょう。ただし、ヒットラー政権が真に"善き政権”であったと言えるなら、ここで例に挙げるわけにはいかないでしょう。


ともあれ、仮に哲学者が 『社会に役に立つ』 のであれば、今度の衆議院の議員選挙には、すべての哲学者が立候補して国会で活躍すればよい。しかし、今度の衆議院選挙には、もう、間に合わなかったが・・・。(笑)


やはり、哲学者は哲学者であって、その道しかないでしょう。哲学を仕事とする人、或いはそれらに関わっている人は、大きく二つに分けると、哲学という歴史を含めてその体系を学問としてとことん研究する人か?もしくは、新しい物の考えを啓示する人か?のいずれかでしょう。中には、最近例外として、池田晶子さんみたいに哲学的思考で世に問うタイプの方も出て来ているようです。


昨今では、 『ソフィーの世界』 ブームから 『池田』 ブームへと続いているせいか? (池田さんはソフィーとは、一緒にしてもらっては困るといっているが・・・) 哲学をわかりやすくした本が結構、出回っているようです。この本は、哲学書というより、哲学者としての木田氏の回顧録みたいな本で読みやすいし、木田氏の思い出話を通して哲学との関わりが綴られていて、ひとつの生き方として学ぶべきものがあります。


序章では、「 『幸福』 なんて求めない」と題したことが書かれていますが、木田氏は 『幸福論』 というものが嫌いだとはっきり明言しています。そういえば、池田晶子さんも 『幸福論』 については、苦手なようだったのを思い出します。世の中、 『幸福』 という言葉をごく普通に語りますし、その意味も大体共通しているようです。つまり、庶民的には、健康で生活に困らなく、家庭が円満である状況を指すようです。


ここで、 『家庭』 という条件を勝手に付けましたが、世の中の多くの人々に、『幸せな家庭=幸福』 といったイメージがあるのは何故でしょう?『幸福=個人の幸せ』 でもあるはずですが・・・家庭が飛躍すると、『国民のしあわせ=幸福』 、そして、『人類のしあわせ=幸福』と、拡大していきます。


しかし、すべての人類が幸福になれるか?ということはもちろんのこと、国民、いや、町内の隣人さえ、必ずしも幸福になれるかどうかはわかりません。エネルギー保存の法則からすると、どちらかが幸福になれば、どちらかが不幸になる。つまり、エネルギーは常に一定であるとする摂理に従っているみたいです。となると、幸福は人と人の間を飛び交う言葉の不思議な世界に漂っている感がします。


昨今のように、この言葉が安売りされている状況の中で、表立ってこうした言葉を使ったポスターの紙面や宣伝文句が連呼されますと、妙に警戒心が湧くのは何故でしょう? 『幸福=まやかし』 といったイメージを受けているせいかもしれません。


幸福とはある意味で、人間の満足する心の状況を指すのでしょうから、大きくいえば文化の違い、小さいところでは実生活の環境によって人それぞれの幸福があるのでしょう。だから、絶対的な幸福というものが存在しないという想定の元では、哲学する者にとっては関心がそこへいかないということになるのでしょうか?


しかし、こうした、幸福を 『移動真理』 として捉えてみると面白くなるかもしれませんね。 『移動真理』 という、勝手な造語を創りましたが、これの意味するところは、「どんな人の幸福においても真理は存在する。」と、仮定して考えて見ます。すると先ほどの 『移動真理』 というものに対して、真理とは不動なものという先入観で決め付けると、変なことを言い出したと思うでしょう。人によっては、それぞれの価値観に基づく幸福というものがあるからして、一見、真の幸福というものが捉えられませんが、実は、真の幸福という固定的な真理は存在しないが、その人のパラメータによって、真理が移動するという考えです。これは、勝手な思いつきなのでここではそのくらいにしておきます。


木田氏は、『社会に役に立つ』 というより、自身の為になったということでは、認めておられるようです。この本の多くの語りは、氏の "おとなしい” 武勇伝みたいですが、 『これからの青少年の勉学に対する姿勢』 と、いったところまでを網羅した親心としての道しるべみたいなものでしょうか?


「哲学は人生の役に立つのか」については、論理的に追求されていませんから、勝手に読後の読者にどう判断するかを任せたところがあります。


哲学そのものを学ぶということや、様々な現象から 『真理』 といったものを導く思考は、直接的にはその人の経済的生活にはなんら影響を及ぼしませんが、そうした物の道理を学ぶ、或いは知ろうとする思考作用は、その人の知的作用として、知性から理性へ、精神から心に至るまで伝送され、行為としての実行動のボルテージを高めることに相違ないでしょう。


とすれば、少なくともその人に対してなんらかの変化を与えることになります。その変移は、必ず、蓄積され、変化した心から新しい試みのステップが行為として現れる可能性は、少なからずあります。つまり、その、新しい行為が、ひょっとすると、間接的に生計にもプラスかマイナスか、どちらに振れるのかわかりませんが、それなりの影響を及ぼす可能性があって当然でしょう。


心の変化が行為の変化となって、それが人の人生を変えるということになりそうです。とすれば、そうした今までとは違った新しい価値観を持った人が現れることで、今度は、他の人へと丁度、ウイルス感染のように伝播していくでしょう。それによって、共鳴した人々の存在が増加することで社会も必然的に変化していくことになります。


答えとしては、哲学は、How toのような道具ではないから、即、実用には向かないが、そこで生まれる新しい思考や歴史上の哲学としての遺産は、人間に大きな影響を与える力を有しているのではないでしょうか?そうした影響によって育まれた人間同士が、多数、連鎖感染することで、社会にも影響を及ぼすことになると考えても不思議ではないでしょう。


人は誰しも、歴史を変えた多くの人物を、簡単に列挙することが出来ます。その歴史上の変革は、列挙された人物の心と行為によって具現化されたことは当たり前のことです。そのモチベーションの源といえば、その人に染み付いた経験上の人生哲学であるのは否定できないでしょう。その人生哲学は、人生経験から滲み出てきたものもあるし、読書による文学作品からもらったものもあるでしょうし、哲学書から学んだものもあるでしょうが、いずれにしても、 『哲学』 という、隠されたジャンルであることには間違いないでしょう。


この本の読後感から、木田氏のような破天荒な生涯に、哲学という魅力ある学問が寄り添っていたという話は、とてもロマンチックな話だと思います。小生も、様々な異次元的経歴を持っていますが、大きく違うところは哲学で生計を取っていないというところでしょうか?でも、木田氏も哲学で生計を取ろうとしたことはなかったでしょう。気が付いたら、それで、たまたま食べているということでしょうか?


木田氏は、おそらく哲学で生計を立てているといったお気持ちは、さらさらお持ちでないでしょう。まあ、晩年、人間誰しも好きなことをして生きていられるのでしたら、大変な幸福者ですね。でも、結果として、しあわせな人生を歩んだ今の木田氏にとっては、『幸福論』 などというものは不要なのかもしれません。未だ幸福になれていない人は、幸福というものが何たるかを知りたいのかもしれません。それは、ハイデッガーがわからないばかりに、哲学の道に入ってしまったのと少し似ているみたいですね。


小生も、正直申して、大変な幸福者です。好きなことをして生きていますから。でも、こうなるまでは、そうもいきませんでした。大変な幸福者になれたのは、ここ、数年、最近のことです。しかし、そう感じるのは、私の主観でありますから、ご近所の方は、「あんな悪妻と一緒では苦労されているだろうな・・」とでも、気遣っておられるかもしれません。(笑)


さて、主観的な 『幸福』 であっても、人間、いつまでこんな 『幸福』 が続くとは限りません。不幸になったときは、それなりの覚悟が入りますが、もう、自分の父よりも長く生きていますから、ジタバタしてはいけないとは思っています。


さて最後に、この本は、ある意味でブログを書籍化したような感がありますが、それは、口述筆記による方式で原稿を仕上げられたからでしょう。高齢の作家が健康の都合上、こうした手法を取ることは、まま、あるみたいですが、真の哲人は口伝による啓示がほとんどですね。


それは、何故でしょう?書くことによって、逆に、言葉に溺れてしまうからかもしれませんね。不必要な文章で本質を伝えられなくするより、口伝で率直に語りかけた方がましなのかもしれません。


本居宣長が、学ぶことについての方法を知りたがった門下生に対して、早道とか手法とかいうそんなものはなく、日々、怠ることなく辛抱強く地道に学に励むことが肝要という話を、小林秀雄がしていましたのをふと思い出しました。木田氏の学問に対する姿勢は正にそうであったようですね。木田氏の爪の垢を煎じて飲まねばなりません。


図書館に木田氏の蔵書で、「反哲学入門」というのが、ありましたから、来月には読んで見ようかと思っていますが、この間、借りてきた外山滋比古氏の 「思考の整理学」 を読み終えましたので、先に、これについて書いてみようと思っています。


by 大藪光政