この間、図書館から論語に関する本を四~五冊借りてきた。こんなことをするには大きな理由があった。それは、今、試行錯誤のメセナ活動として無量育成塾を開いていますが、その塾生に対する取り組みで論語を活用してみようと思ったからです。
塾生は今のところ、小学校二年生から中学校三年生までの縦のクラス編成です。そうなると、ちょっと指導が大変です。休憩なしの120分間のうち、60分間は自由学習でわからないことは、私か上級生に聞くことになります。その後の30分間は、物語、詩、俳句などを各自自由に読ませたり、あるいは作文や詩や俳句の創作をさせたりしています。もちろん、自由学習の最初からずっと本ばかり読む子もいます。
そうして、あと残りの30分間、全員が集合して、上級生による物語や詩の朗読があります。( 最近は、全員が各自別々に朗読を行うこともあります。) 朗読の作品については、色々と質問をして下級生から上級生までどのように理解しているか?その掴み具合を万遍なく聞き出し、それに対してアドバイスを与え、各自が考えてもらうということを行っています。
こうした学習環境として、公民館の二階を四部屋借り、そのうちの三部屋は来たもの順で各部屋に分散し、クラスが出来上がりる仕組みを今のところとっています。ですから、メンバーはそのときで自然とランダムに変わることになります。すると、塾生同士の交流が満遍なくできます。これも、試行錯誤の上でのひとつの発見です。
さて、肝心の何故、論語に飛びついたか?の理由は、話せば長くなりますが・・・。
何せ、低学年(小学生四年生以下)はサルや犬や猫と一緒で、とても賑やかで落ち着きが無く、手なずけるのにひと苦労です。厳しく叱れば済むことですが、それでは窮屈な環境となって、こんな無垢で小さい子供たちにとっては、休憩時間無しの120分間を過ごすのは無理です。
そうした縦の学年が同居した環境で、“学ぶ”ということは、ある意味で“真似る”ということですから、上下関係をうまく利用すれば、それが可能になると判断しました。何も、塾まで来て、学校教育と同一の画一的な指導をするのも能がないと以前から思っていましたから、グッドアイデアです。
孔子が晩年、教育に取り組んだ時、同年齢だけを集めての指導というものはなかったと思います。年齢はバラバラでしょう。その縦の関係がちょうど、今、指導している塾と同じ環境です。
論語は、後の弟子やそれに関心を抱いた人々が編纂して出来上がったもののようですが、現代でも十分に考えさせられることを多く含んでいます。つまり、解釈が、人それぞれに色々あるからです。ということは、年齢別、すなわち、学年別でも、解釈が色々あっても不思議ではないでしょう。
理解することは、各自、まちまちであっても、それは、人生経験と学習の積み重ねであって、どれが正解ということもないとすれば、学年や年齢層を超えたものがありますから、“考える”ということにおいては、同時教育に使えるということです。
あとは、読みですが、これは先日、意外な結果を知らされました。毎回、ランダムに揃って出来るクラスメートのチームで論語読みのコンペをしましたら、なんと、偶然、低学年ばかり ( 2年生~4年生 )で構成されてしまったチームが一番になりました。
論語読みは、代表の後に続いて残りの者が後をつけて声を出して一緒に朗読する作業ですが、このとき、何故か?上級生と下級生が偏って構成されてしまったので、これだと、難しいだろうと思ったのですが、下級生は、発奮してわずかな練習時間を無駄にせず一生懸命練習していました。これに対して、上級生は嘗めていました。
結果は、統一性のある声の響きで、しかも、全員が論語の章節ごとに代表読みを交代して見事に読みきりました。つまり、読みについても、なんら心配は要らないということです。わずか15分間の練習時間で、もう暗誦している子もいたくらいです。
こうしたことから、論語が縦の学年教育に最適だと思ったのです。もちろん、詩も論語と同じで、しかも、最近いろいろな方がたくさん出版をされていますから、低学年の“哲学”代用教育にはうってつけですね。
さて、論語の解釈というより、論語から学ぶ人生訓みたいなものを私自身も勉強しなければなりません。塾生に偉そうに説明しても、自身が不勉強では笑われてしまいます。つまり、私自身の勉学にもなっているから一石二鳥ですね。入学金も授業料も取っていないから、僕も、一緒に勉強させてもらわないと割に合いませんから!(笑)
塾生にこう尋ねてみました。 「論語読みの論語知らずとは、どういう意味か?わかるもの手を上げなさい!」すると、シーンとして、みんな首を捻っています。そして、程なくして女の子が、「先生、わかりました!声を出して論語が読めても、その意味がわかっていない人のことです。」と、なんと、小学二年生が発言しました。これには、驚き、うれしくなりました。その子は、常日頃、よく本を読んでいる利発な子ですから、中学生を差し置いてでも、時々、素晴らしい発言をしてくれます。
そこで、「ほお~すごいな君は、よくわかったね!」といって、次に、「実は、もうひとつ突っ込んで解釈を考えて欲しいのだけど?」と、みんなに質問してみました。今度は、流石に全員、しばらく黙っています。
「それはね、どんなに、論語の意味を言葉の上でよく知っていても、行為がそれに伴っていなければ、知らないというのと同じだと言う事だよ。それを知行合一て言うけどね。」といって、日常生活の事例をあげて説明しました。
ひろさちや氏の “ 『論語』 生き方のヒント” を選択したのは、ひとつに、その論語から読み取る人それぞれの解釈の中で、論語を生かす為の拡大解釈みたいな挑戦に興味を覚えたからです。ひろさちや氏は、数年前、宗教関係の書物を一冊、手にしたことがありますし、テレビ対談を一度だけですが見たこともあります。難しいことをわかりやすく紐解いてくれる人としては、池田晶子さんと共通点があります。
この本の出版元は、日本経済新聞社です。ということは、意図的かもしれませんが、企業の経営者や会社の勤め人の為の拡大解釈も入っている。そういう意味では、学者らしからぬ “生きた学者” なのかもしれません。ひょつとすると日本経済新聞社と事前に本を出す上の申し合わせがあったのかもしれませんね。
ひろさちや氏は、“はじめに”のところで、いきなり、「孔子は、現代で言えば経営コンサルタントでありました。」 と述べています。これを読んで、同じことを言うなあ~と感じました。私のブログで、加地伸行氏の『孔子』を読んでの感想に、それと同じことを述べています。まあ、時系列でいきますと、この本の方が古いので、ひろさちや氏の方が、早く、述べられたことになりますが、多分、氏は、もっと以前からそう思われていたのでしょう。
さて、この本は、第五章までの構成になっています。ほとんど、共感がもてる内容なので、私との食い違いだけについてなるべく絞ってお話しましょう。まず、第一章は、「精神貴族であれ!」 というテーマです。この章で賛同することは色々ありますが、そのうち、(6)については、納得のいかないものがあります。
(6) のタイトルは、「エリートの責任」です。この中で、氏は、すばり、アメリカの経営スクールでの話しを引用して、経営者と労務担当部長の仕事に関する、職務分掌が問われています。すなわち、日本人は、経営者の領域まで、ついつい立ち入ってしまう。それに対して、アメリカ人は、きっぱりと雇用主と雇用者の区別を仕事上割り切っている。という、お話です。
この話は、ある意味で日本人の世話焼きな差し出がましさが、国民性から来ていることもあり、それが、経営に対して弊害となることもありましよう。氏は、そのことを指摘して部下は、会社全体のことを考えなくてよいと極論に至っています。また、その話の展開として、庶民は自分勝手でよいといって、日本のことを考える必要はない、考える必要があるのは、エリートたちだけだと言い切っています。
ここのところは、恐らく、過去の歴史からみて、経営者や為政者に虐げられてきた能力の無い国民に対してというより、エリートは、論語の意味を歪めることなく責任逃れをしないで、もっと自覚しろといっていることではありますが、そうは言っても、やはり、能力の無い国民こそ、もっとしっかりして、エリートの言いなりにならず、大局を掴めることに努めるべきではないかと思います。それが、論語を通しての教育というものだと思うのです。
(8) の「孔子の教育理念」 についてのところでは、これは、難しい問題で、確かに現在の教育と孔子学園の教育理念は大きく違います。簡潔に申せば、現代の学校教育は、主に 『知と技術』 を与える現場であり、孔子学園は、『人としての道を知る』 道場です。( しかし、孔子学園も 『知と技術』 についても教えていたのではないか?と思いますが )
現在の学校教育が、人を人材育成する為の 『材料』 や 『素材』 としてみているなどと手厳しく批判されています。確かに、そうした一面は否定できませんが、それでは、そうした学校に従事している先生方が浮かばれません。そうした体制の環境の中でも、くじけず、立派に生徒と人間関係を築きながら頑張っている教師もたくさんおられるでしょう。また、『知と技術』 を学ぶことも大切です。要は、程度の問題、つまり、バランスの問題です。すなわち、現在の教育環境が偏っていて、中庸でないということでしょう。
第二章の「日本人よ、愚かな生き方をするな」では、日本人は、儒教を誤解しているといっています。すなわち、権力者の都合の良い解釈をしているというのです。 『忠』 と 『孝』 の関係です。臣下としての 『忠』 の立場と、子としての 『孝』 の立場でどちらを優先させるか?ということです。ここで、ひろさちや氏は、面白いことを言っています。 『忠』 は、契約原理であり、 『孝』 は、血縁原理であるから、血縁原理が優先されるということです。それは、そうですね。だから、会社より家庭を優先すべきだと。家族を犠牲にして会社に尽くすのは愚かしいというのです。単身赴任は、愚の骨頂になるという結論です。
私も、実はこの考えです。しかし、私がアイホンからロームに移籍したときは、幅広い視野を求めての転職であり、ロームからの脱サラでの独立は、自分の性格上の問題で必然的なものでしたので、家族を犠牲にしない為の行動ではありません。悪妻にとっては、大変な迷惑だったと思います。(笑) 両社は、とても立派な良い優秀な会社でした。私が選んだだけあって!(笑) 待遇も良かったし、何といっても、そこにいる人々は、みんな、とても良い方ばかりでした。今でも、遠くになりましたが、毎年、お正月には多くの年賀状を戴いています。うれしい次第です。
ひろさちや氏は、サラリーマンのご経験が無いのでしょう。自分の為=家族の為=会社の為という連鎖を体験されていないのでしょう。そうした連鎖の中で、確かに、血縁原理が最上位です。その上が己です。己なくして血縁原理も糞も無い。己のために会社に尽くす。これを仕事を通して気付くことが大切だと思います。まあ、「そんなことはない、会社は、過酷である」 というのであれば、その会社を選択したあなたが悪いのです。つまり、自己責任の社会なのですから、やむ得ません。道を選び直すしかないでしょう。
(20) の「余計なことはしない」というところで、「ん!」という話があります。酔っ払いが電車の中で若い女性にからんでいる話です。終電車の中で、そうしたことに遭遇した場合、氏は、それを止めるのは、JRの職員の仕事であるから、伝達だけすればよい。と言い切っています。警察官でも何でもないあなたに、酔漢を注意する義務は無いとも付け加えています。すなわち、孔子はそう言うだろうと思うと氏は、孔子の姿勢を解釈しています。
これも、突出した見解ですね。
おまけに、日本の法律ではそうしたことで、善かれと思ってやった善意ある行動で、逆に、悪漢に怪我でもさせたら、起訴されるからという理由も挙げています。日本人には、そうした割り切ったことが果たして出来るのか知らん?そうしたクールな感情を持ち得ないのが日本人の善いところではないでしょうか?だから、日本の治安が良いのですから。昨今は、逆に、そうした人のトラブルに関わりたくない風潮が、犯罪の増加にも影響しているのではないでしょうか?孔子の考えがおかしいのか、孔子に対する解釈がおかしいのか?それはどちらでしょうか?他人とは無関係に生きるような生き方が善いのでしょうか?「余計なことはしない」ということは、TPOをわきまえてのことであって、この場合は、例が悪いようですね。
第三章では、「孔子のように生きてみないか」というタイトルです。“僕は”、気が付くと、孔子に対する自身の解釈の範疇において、レベルとラベルの違いはあるけどそんな生き方に沿っているようなところもあるなと、最近、思っています。
ひろさちや氏は、孔子の人生に対して、敗者、勝者の言葉でもってレッテルを貼ろうとされていますが、何をもって、そういう基準を定めるのか?というところで、それはやはり、価値観の相違ではないかと思います。コンサルタントとしてのビジネスでは、、稼ぐという意味で下手な敗者でしょう。しかし、名を世に残すという意味では、大変な成功者であり、歴史上の勝者でもあります。
でも、その勝者は、生命体のひとつの存在として、宇宙にとって一体どういう意味を持っているのか???と、なると、絶句ですね。
第四章は、「一度しかない人生だから」というテーマですが、その中の( 31) 「楽しく仕事する」 これは、私にとって、ぴったしの生き方ですね。最近、やっていることのどれが仕事で、どれが遊びかわかりません。線引きをすれば、やはり、報酬をもらっている分野ということになりますが、すべて、真剣に一生懸命やっていることには差異がありません。
(34) に、「真の祈りとは何か」というタイトルがあり、続いて、(35) に、「請求書の祈り」というのがあります。これは、畢竟、現世利益がもたらす依存症候群なのでしょう。
この間、別府に旅行に行ってきました。道中、国東半島のど真ん中にある、某宗派の某寺を訪れました。この寺に入るには、入場料が要ります。(上品に言えば拝観料) 但し、お堂内でのお坊さんの解説付きなので、まずは我慢です。それで、いろんな菩薩の紹介がありました。自分の干支と同じ菩薩像を堂内で見つけるように言われました。私は、寅ですので、虚空蔵菩薩でした。この菩薩の 『虚空蔵』 とは、どういう意味ですか?と解説の若いお坊さんにお聞きしたら、「△?○?□?※・・・」とのことでした。
それで、素直に、「わかりませ~ん。」と言ったら、ムキになって、また説明して、「ワカリマシタカ!」と、私の顔を覗き込む。それで、わからないなあ~という顔をして黙っていたら、何度も、「ワカリマシタカ!」としっこく問いただす。回りの多くの連れ達は、僕が議論を吹っかけやしないかと、内心、冷や冷やしているのがなんとなくお堂の冷たい空気から伝わって来たのがわかった。だから、あえて突っ込みもせず、また再度、わからないなどと言っても大人気ないのでそのまま黙っていました。(沈黙は金なり!)
その説明を受けている僕の面前には、アクセサリーのお守り、御札などや子供が欲しがるようなグッズまで、色々なお土産品が山のように積まれていました。だから、「さあ、買って帰らんかい!」とでも言われて押し売りされているように、そのお坊さんの「ワカリマシタカ!」が、その掛け声のように不思議と聞こえてしまった。
別府といえば、温泉と高崎山です。高崎山のサルどもとの、ご対面観光ですね。でも、この高崎山に観光に行くのは気が乗りませんでした。何故かと言うと、生意気なサルが気に食わないのです。観光客のポケットに勝手に手を突っ込んだり、女性のハンドバックを引っさらったり、帽子をとったり、本当に癖の悪いサルどもに会う気がしません。
ところが、今回は仕方なく、旅の道連れとしてのお付き合いで現地に行きましたが、いやはや、驚きました。あのきつい急な坂道は、モノレールで楽チンだし、なんと、野生のお猿さんは、とても、マナーが良い。ボス猿も出迎えてくれるし、過去の悪いイメージが払拭されてしまいました。まったく、悪さはしません。おやつもねだりません。ひと昔と違って、これはいったいどうなったのだろうかと思い、どんな躾をしたのかを聞いたところ、係りの人曰く、「人間のマナーが良くなっただけです。」ということを教えてくれました。つまり、人がサルに対していろいろなものを与えるから、行儀が悪くなったのだと。今では、サルにえさを勝手に与える人がいなくなり、自然とサルの方も求めるために悪さをするということがなくなったのだそうです。
その話を聞いて、ピーンと来るものがありました。それは、あの某寺においても、観光客が色々なグッズを買いあさるから、お寺まであんな風になってしまうのだと気付きました。誰も買わなければ、あんなお土産をお堂の中まで持ち込んで売ろうとすることはしないだろう。ついでに言うと、誰も、お金を払ってまでして見に行かなければ、拝観料も取るようなことはしないだろう。そして、お坊さんに余計な質問をしなければ、私の理解度をおせっかいにも詮索されなかっただろうと思った次第です。他が悪いのではなく。己が悪いのですね。(笑)
あとで、わかったのですが、HPにひろさちや氏の石碑が掲載されていました。ひろさちや氏も、しっかり宣伝に担ぎ出されているのですね。(笑)
鉄輪温泉にある山水館にての二次会では、みんなで酒の肴として、お釈迦様が、某寺のような状況をどのように思われるのだろうか?などと、想像しながら、宗教についても語り明かしたのは言うまでもないことでした。(もちろん、疑問を投げかけて酒に酔い 一番早く寝たのはこの私ですが・・・笑!)
最後の第五章は、「もう少し人間通になりなさい」と記されています。その (42) では、「人を見て法を説く孔子」と題して書かれていますが、これは、私もよく、公私共に実践していることです。相手が画家であれば、画家の話を、ピアニストであればピアノの話を、つまり、相手の話題とレベルになるべく合わせて対話もしますし、仕事もその企業レベルに合わせたサポートをします。
(45) は、「世間の物差しを捨てる」と、ありますが、これは、ちょっと違うなあと思います。世間の物差しは世間の所有の物差しであって、己が捨てることは出来ません。だから、煩悩がつきまとっているからなかなか難しいのです。どんなに受験勉強で有名大学まで一直線に進むことが人生において、如何なものか?と思っても、これは世間相場の物差しで、すでに出来上がっていますから、一個の人間がそうした考えを捨てても、世間は厳然としてそうした仕組みを持ち続けています。大切なのは、その存在を直視しつつ、それが良くないと思うなら自分にしかない物差しを探し、あるいは発見してそれを作るべきでしょう。そして、その物差しを自画自賛すればよいだけだと思います。どちらが真に良いかはわかりませんから、それが 『知らぬが仏』 というものでしょう。(笑)
最後の (50) 「日本人よ、節操を持て!」 こんな言葉に耳が痛いと思う人は、節操があるひとでしょう。節操がない人にはピンと来ない説教だと思います。『日本人よ』 を 『政治家よ』 でも当たりだし、『医者よ』 とでも、言えるし、『宗教家よ』 でも皮肉として言えますね。(笑) そして、ワールドでは、『アメリカ人よ』 でも、OKだし、大きく出れば、地球上では、『人類よ』 でも、言えちゃいますね。おまけに、宇宙では・・・『太陽系よ』 これは、言えないか!言えるのは、人類までですね。つまり、“考えることの出来る自然=人間”は、節操があったり、なかったりしますね。節操って、エコみたいに、エネルギーの無駄遣いは止めましょうなんて聞こえてしまいます。でも、エコも結局、節操を持てでしょう?まあ~話をはぐらかしましたが、まじめに考えると、『節操を持つ』 ということが、人間にとって大きな課題ですね。大変な難問です。そんなことを人類の誰でも果たして出来ることでしょうか?
むしろ節操がないということは、人類の宿命なのかもしれません。
今度、某寺を訪れたとき、ひろさちや氏が、某寺の新しい石碑に、「僧侶よ、節操を持て、ワカッタカ」 と、記したものを建ててあったら、僕は氏を尊敬したいと思います。その時は、きっと、大受けして立派な名所になっていると確信します。某寺には、度量の広い名僧がおられるでしょうから、建立に大賛成されるでしょう。
ひろさちや氏は、この書では論語から、かなり、過激な解釈をされていますが、その為おかしな拡大解釈も見受けられます。しかし、氏の役目は、恐らく、孔子の中庸を目指す上において、日本人の偏った心のモーメントにおける支点を大幅に移動させ、釣り合い (中庸) をとるための企みだという気がします。つまり、今日の患者に対する最適な処方箋なのかもしれません。
by 大藪光政