池田晶子 さて死んだのは誰なのか 死とは何か
図書館にまた岩波のイソップ寓話集を借りる為に立ち寄って、ついでに哲学の書棚を覗いた時に、池田晶子さんの新書が入っていた。 「さて死んだのは誰なのか 死とは何か」 と、同じく「魂とは何か」 の二冊だった。こうした本が、最近、池田さんの死後も刊行されていることは承知の通りである。本人の意志ではなく、出版社の熱意であろう?池田さんの本は、哲学に類する本としては広い世代でよく愛読されているので、出版社としてはビジネスチャンスでもある。そうした意図が少し見えていたので、あえて私自身、図書館にこうした本をリクエストしなかった。でも、これらの本を目の前にすると、思わず手にして開かずにはおられない。中をざっと見ると案の定、生前、池田さんがあちこちに投稿したエッセーを寄せ集めたようなものだ。そのキーワードが 「死とは何か」 であり、「魂とは何か」 といったシリーズ物である。後で読んでわかることだが、初めて公開されたようなものも確かに入っている。この二冊の本のうち、 「死とは何か」 の最後のページぐらいに彼女の直筆原稿が掲載されていた。それを見てハッとした。本人も、編集部の人も、これが精一杯丁寧に書いた原稿だという。本人曰く、悪筆であると。それは、見れば一目瞭然である。しかし、色々な文人の書いた原稿は、意外と悪筆が圧倒的であるのは皆さんご存知でしょう。どうしても、思考を凝らして書いていくとこうした解読不能に近い記号になってしまう。例外として、三島由紀夫の原稿を見て人は達筆だというが、私はそうは思わない。彼の筆跡は、彼が己の肉体をボディビルで鍛えて改造したように、彼の直筆もペン習字的に改造されたものだと思う。だから、あまり味のある筆跡とは感じない。私も、元来ミミズが這ったような字を書いていたが、三島の自決事件の最後の原稿直筆を見て、私もペン習字で矯正を図ったことがある。だから、二十代から三十代の手紙は、一見まあまあの筆跡を描いていたと思うが、昨今は、PC入力になったのと、ペンを使っての手紙のやりとりがまったく無くなったので、無量育成塾で急に白板に向かって塾生の前で字を書く必要に迫られた時、またミミズの字体が復活していたのに気付いた。その時はいやな気分だったが、彼女の原稿を見て少し変に気を好くして安堵した。「僕も少しは考える人になった」と。(笑) それで迷わず、池田ファンの愛読者には悪いが、早速、その二冊を占有するかのよう借りて帰った。開いてみると、まだ、ページ折が入っていなく誰も読んでいないような新書であったのは意外であった。発刊順で言えば 「魂とは何か」 が先であるから、これから読むべきかなとは思ったが、最後に掲載してある直筆の原稿につられて 「死とは何か」 を先に読むことにした。この頃、丁度、もうひとつのブログ 「考えて考える人」 に、「生命体と、こころ」というテーマーで書きかけがあったので、それを手早く書き終えてから、この 「死とは何か」 を一気に読み上げた。池田さんの言わんとすることは、だいたい今までの著書から感じていることであるから、とくに抵抗無く読むことが出来る。最後のところで、彼女の生き様において新たに知った状況があり、感動したところなので、そのことは後で述べましょう。今回は私の意に反して、彼女の言葉を丁寧に辿りながら進めて行こうと思う。『わからないのは当たり前』 のタイトルのところで、「私の場合、私が仕事をしているものが、そもそもいわゆる 『仕事』 ではない、一種の 『宿命』 のようなものであるということが、最も大きな理由であるでしょう」 と、自分の仕事を断言しています。そして、彼女はこう付け加えています。 「 『宿命』 というと、かなり大げさに聞こえますが、平たく言えば、『これしかできない』 ということがはっきりわかっているということです」 と、説明している。成程、『仕事』 とは、言い換えると、『天職』 とは、かくなるものかと思ってしまった。私も色々な仕事を随分してきたが、ようやく、遅くにも現在のこれしかないに辿り着いてしまった。だから、これを彼女の口から聞くと、(本当は読むとだが) やはりそうかと再認識して、夭折した人は違うなあ~と感じ入った。彼女が 『宿命』 という言葉を持ち出した説明としてそのあと、「さらにもっと根っこに遡って考えてみれば、そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態にさらされていたわけです。」 と、述べている。 ここで彼女は、 『在ることの不思議さに気付きなさい』 ということと、 『生かされているのですよと』 改めて読者にメッセージを送っています。その上での 『宿命』 発言でしょう。この記事は、初出 「PHP」 2005年11月号ですから、亡くなる一年ちょっと前ですからそうした死をも覚悟した心境になっていたと思います。『当たり前なことにありがとう』 のタイトルでは、「昔の人なら、神様とか仏様とか言ったかもしれません。現代の私たちは、それを何と呼びましょうか。それを何と呼ぶにせよ、何か大いなるもの、人間の意志や思惑を越えた何か大きな存在を、やはり私たちは感じとることができます。」 と語っています。これは、科学や宗教を越えたところのサムシング・グレートを感じ取っているので、物理学者のファイマンと同じ心境のようです。これも、死去する近年の二年前ですね。この本の 「死とは何か」 の題目は、言い換えると 「生とは何か」 と語る上で同じことだと思う。池田さんは、死後のことは誰にもわからない、それは謎であると言っている。では、 『生』 はというと、今、生きている私たちにとっては、生きているからわかっていると、錯覚している。ここが間違いで、生きていることすら本当はまったくの謎なのだ。己の存在の不思議さからくる謎を池田さんは考えてみろと以前から言い放っている。生きていること以前に存在していること自体が謎なのであるから、生きていることはもっと謎でしょう。だから、「生とは何か」のタイトルでもよいのだと思う。「死とは何か」 において、科学と宗教における役割と限界についても述べてある。これについては、同感すべきことばかりで池田さんとは同期がとれていますから、ここで新たに取り上げる気にはなりません。私自身、己の死後を考えたことは多々ある。葬儀の様式のこと。葬儀の参列者のこと。特に来て欲しくない人。 (笑)死後の身辺整理がどうなるのか? (俺の許可無く、勝手に棄てるなよ!)このブログも消えてなくなる。 (おい、誰かこの続きを代筆してよ!)幸い、財産らしきものはないから、骨肉の争いは起きないだろうと思ったりする。 (お金持ちでなくよかった。負け惜しみ)家族は死後どういう生活を送るのか? (死人には入らぬ心配)死ねば、己は本当に無に帰するのか? (そうは思えない)ひょっとすると輪廻転生して、新しく蘇るかも? (そうに違いない)その時は、生前、行ないが善かったのでまた善い何某の人間に生まれ変わってくるのでは? (可能性大)ひょっとすると、今度は格が上がって、神様の部類に昇格するのでは?(笑)ひょつとすると、池田晶子さんと面談できるのでは? (これは楽しみ!)ひょつとすると、ショルティは、人となって、今度は僕が犬になるかも? (それは無いだろう・・・トホホ)ひょつとすると、今度は、ひまわりの会の会長だから・・・ひまわりになるかも? (植物は退屈だろうな?)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・限りなくエンドレスの空想です。小林秀雄は、学生に言っていたっけ、「君、それは空想かい?それとも現実かい?」「想像と空想は、君、違うよ!もっと真面目に考えろよ!」 と、怒られそうなところですね。そこで話を変えてみよう。生死にとって時間は一体どういう意味合いをもつのだろうか?時間という正体不明なディメンション。一秒という時間を細分化していくと限りなくゼロに近づくが、ゼロではない。ゼロは無いということだから、無い時間が積み重なって有の時間が出来るわけがない。しかし、時間の世界では、1/1000秒も、1/1,000,000,000秒も時間としては現に人間の感覚を超えて存在している。どうも、そうなるとデジタルの世界はやっぱし怪しい。世界は、不連続ではなく連続しているのだと考えるべきだ。アナログとして捉えるべきだ。つまり繋がっているのだと。科学の最先端を担っているデジタル技術は、物事を不連続な数値 (0と1) として処理することで我々の生活を快適に、そして便利にして大きく社会に貢献している。でも、それは、便宜上の処理技術であって、時間の本質はもっと違ったところにあるように思える。生きている時間というものは、アバウトでカウントできるが、死後の時間は不明だ。無限かどうかすらわかるはずがない。ゼロかもしれない。ゼロというのは無ということだからだ。無と無限は、言葉上は違った解釈になるが、ひょっとすると同じことを指すのかもしれない。それにしても死後の世界がなくて、生の世界だけが存在するのも片手落ちだ。ちょうど物質だけが存在して、反物質が無いと言い張っているのと同じ気がする。池田晶子さんが亡くなったのは、2007年2月だ。今は、2009年5月だ。少なくとも二年近く、死後経過している。しかし、池田何某本人からみた死後の時間は果たして経過しているといえるのだろうか?何せ、本人はこの世にいない。少なくとも彼女の肉体はこの世から消滅してしまった。これは誰でも確認できる。身内の方にとってはその亡骸とお別れもされたことだから。また、他の者は姿が見当たらなくなった事実を知っているからだ。では、生きている時は、存在時間という物理的な時間が成立するが、死後は、その時点で本人からみた死後時間のカウントが出来なくなる。死後何年何ヶ月も経っていると言ったりしているのは、生きている人類との差分時間でしょう。つまり、相対時間なのだ。宇宙を含めた絶対時間ではない。 ( いや絶対時間なんてものも存在しないかも、宇宙が誕生した瞬間をスタートの絶対時間としてカウントするにしても、では、宇宙が誕生する前は時間が存在していなかったのか?という変な疑問が湧いてくる。時間とは、逆に物の変化のことを指すのかもしれない。まったく変化しなければ時間は経たない。これって、人間の感覚としてある意味で納得。)こうした考えからすれば、生きているということと、死後ということは、時間に対する捉え方によって大きく違うとは思いますが、人類が滅亡すれば、その差分時間すら消滅する。それは生と、死の違いが解消されるのでなく、認識者の存在が無くなるということであるから、これはどう見ても無であろう。それでも、過去、そうした人類が生存していた時期があったと認識するものがいたとすれば、そのものこそサムシング・グレートなるものでしょう。そうなると、人の生死も、人類の興亡も同じレベルなのかもしれません。最後の編集事務局の説明ですと、池田さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、医療者向けセミナーにおける基調講演に出る予定だったのが、すでに癌に侵されて呼吸困難に陥り、二日前にキャンセルをされ、自宅にて講演の内容を口述し、それを伝える役目を果たして帰らぬ人となられたようです。最後の著書とは、この 「死とは何か ― 現象と論理のはざまで」 という幻の基調講演の草稿が最後の著書だったわけですね。最後が、口述筆記だったところは、流石、哲人らしい最期だったと思います。この口述筆記の中で、最後の 「六、謎の自覚」 のところでこんな一節があります。「現在というのも、これは何かというと、これもちょっと妙なんですけれども、自分なんですね。自分ということの意味が大きく変わってきます。時間のうちに存在する自分ではない、肉体ではないところの自分という意味になります。現在ということなら、宇宙は現在に存在しているわけですから、宇宙は自分です。宇宙的自分という言い方が出てしまうんですけれども、その宇宙的自分というのは、いってみれば無限ですから、その無限の自分と有限の肉体の自分と、有限であり無限であるのが人間としての私であるという、この人間のつくりがわかってきます。結局、こういう絶対不可解の構造として我々はあるわけですから、自覚が必要なんです。つまり、自分がいま居る、生きているとはどういうことなのか、ということについての自覚です。考えていくことで謎は宇宙大に拡がるものですから、つまり、自分というのは謎そのものなんだということが、必ず知られるはずですから、答えなんかあるわけがないのです。」ここのところは、やはり、池田さんが長年考え抜いて摑んだことなのですね。 『現在』 という言葉は、一般的には、時間を指すのですが、彼女は、きっぱり、『自分』 だと確信しています。これも、時間に対する捉え方の発露でしょう。『自分』 が居なければ、『現在』 も、存在しないわけですから。主観的唯心の見方として理解すべきなのでしょうか?でも、これを考えた時に、「確かに!」と合点してしまう。それが、池田何某でない、私でも。とすれば、主観、客観の次元でもないような気がする。医療者に対する、最後のメッセージとして 『倫理とは、あらかじめ何か決まったものでは決してなく、いかに行為すべきかということは、その都度、その場で、各人で、考えて判断して、引き受けることでしかあり得ないはずです。』 と、言い切っていました。これって名言ですね。学校の道徳の時間に生徒に諭すべし、でも、今、学校現場ではそんな教育していないでしょうね。まあ、人に池田さんの言葉を押し売りするより、己がこの言葉を糧に実行すべきでしょう。by 大藪光政