『シュタイナーの美しい生活』を読んで、これを信じるか?
田舎の図書館には、誰も読まない本が時々、書棚に置いてあります。この前、哲学関係の書棚に、まだ手垢のついていない『シュタイナーの美しい生活』という本がありましたので読んでみる事にしました。翻訳者は、西川隆範さんという方です。経歴が変わった方で、京都生まれの方です。高野山で伝法阿闍梨位監灌頂。と経歴が書かれています。これからすると宗教家かな?と勝手に想像しますが、そこのところは定かでない。日本の宗教人が、西洋の哲学に関して研鑽されているのは、不思議ではありません。池田晶子さんとの最後の対談者、大峯 顯 氏も、かなり西洋哲学に造詣が深いですね。さて、ルドルフ・シュタイナーという人ですが、1861-1925年の間に存在していた人で、ウィーン工科大に学び、科学を始めとした様々な学問と、芸術、宗教、哲学などに取り組まれた人物のようです。所謂、スペシャリストではなく、ゼネラリストとしての幅広い視野を持った特異なプロフィールの持ち主のようです。哲学書の書棚に置いてある本は、間違えて置かれていない限り、条件反射的に哲学に関した本であると思ってしまいます。『シュタイナー』という名前の響きからして、哲学書の筆者と思っていました。本の副題として『建築から服飾そして言語』とあり、なんだか不思議な気がして本を覗いて見ました。始まりは、『現代文明と美的生活』という題目でスタートしていて、『夜行列車』という不思議な文章から書き出されています。ここで、まず面食らうのが、アストラル体とエーテル体という用語に出合うことです。エーテルという言葉は、古典物理学上の空間物質として存在している・・・それをアインシュタインが、そうではないことを理論的に証明した・・・といった記憶が頭にありましたが、ここで言うエーテル体とは、「肉体の成長・維持を世話する生命実質。生命体・形成力体とも言われている・・・」 という注釈がこの本にあります。ですから、まったく無関係な意味合いです。アストラル体は、「思いの場である心のこと。感受体・心魂体とも言われる」といった注釈になっています。こうして、シュタイナー独自の用語が色々出てきますが、『精神科学』というヴィルヘルム・ディルタイによる用語も、頻繁にシュタイナーの話に出てきます。『精神科学』という言葉からは、日本語的には精神を科学的に究明する・・・と、思いがちですが、どうもこの辺の解釈は色々あるみたいです。私は 『シュタイナーの美しい生活』 を読むとき、あまり頻繁に出てきて、戸惑ったので、これを『哲学』と置き換えて読んでみました。すると、そう読んでもそんなに違和感がないことに気付きました。シュタイナーがどういう意味で 『精神科学』 を使っているのかわかりませんが、この辺は惑わされるところです。シュタイナーの話は、意味深で、感心したり、なるほどと思うところがありますが、彼の思想には飛躍があるような気がします。従来の哲学や科学からの飛躍だと思います。彼独自の思想は、自然の摂理から意味付けした発想があります。そして、思考だけの哲学者とは違って、己の思想を具現化することにウェイトがおかれています。哲学+行動 ≒ 宗教、と言えるでしょうか?シュタイナーは、己の思想を具現化するときに、宗教とは違った・・・独自の世界を構築して行こうとしたところがあります。アントロポゾフィー(人智学)協会の設立は、そうした試みでしょう。この人智学という用語も日本語としては、言葉と中身のずれがあるみたいでわかりにくい用語です。彼が説く、自然界の摂理で物事を再認識し、それに基づいた行動を起こすことは、別に悪い話ではありませんが、なんとなく引っかかるものがあります。現代は、古代の人類と違って、自然と共に一体となって生きていけなくなった。つまり、自然と距離をおいて、生活し、考え方においてもそうなってしまった。つまり自然からの自立ということですか?それは、『人間のリズム』の章を読めば・・・わからないではありませんが、過去に流行ったバイオリズムみたいな考えが、本当にピッたしと適用できていないという思いがあるので、彼の主張するリズムに関する内容には少し半信半疑なところがあります。シュタイナーは、科学的な引用をしているかと思えば、非科学的な発言もしています。非科学的というのは、論理的展開や、実証という積み重ねなくして、ただ自然界の神秘さで、それをそのまま受け入れて、自分達の考えや行動に対しての根拠としているところにあります。神秘主義者は、不思議を分析し、論理付けることなく、それをあるがままに受け入れるというところがあります。彼の場合は、ある程度、根拠に対する、一見、科学的な説明がありますが、何か、弱いところを感じさせます。それが何であるか?わかりません。ひょっとすると、シュタイナーが自問自答することなく・・・迷いの無い信じきったところが、どうも怪しい?と感じるところかもしれません。宗教人は、己の考えは正しい・・・といった姿勢で、人を説得します。「私の考えは間違っているかもしれない・・・」などと、考えつつ人を説得しません。断言的です。そういう意味では、シュタイナーは宗教人でしょう。(ついでに、政治家は、己の考えが間違っているとわかっても、正しいのだと言って人を説得しますね。そして、ソクラテスみたいな哲人は説得ではなく、問答法で、相手と共に考えながら、討論の中から真理求める手法をとります。)自然の中から発生した人類が、いつの間にか、自然とは大きな乖離をもって独立していくところの必然性は一体何なのか?という疑問を、この本を読みながら・・・いつの間にか考えていました。物質の究極である素粒子を解析し、質量の正体を突き止めようとしている巨大科学は、宇宙誕生との関係まで追い求めています。それは現代人が、自然から独立しょうとしている紛れも無い現象です。自然から生まれてきたものが、自然の仕組みを解明しょうとしている。これは、生まれたものが、生んだものを突き止めようとしているのと同じですね。生もうとしたものの正体と、生まれたものとは別の関係にあるのか?それとも、生まれた子供が母親の正体を突き止めた時、その母親もまた、生まれてきた子供である繰り返しになっているのか?誰にもわからない謎ですね。シュタイナーの読本を読んで良かったな・・・と思うところがあります。それは、今日の現代人にとって見失いがちな、自然の営みをもっと身近に感じて、その自然の言い分を生活にうまく受け入れた方が、 『美しい生活』 を楽しむことができるということも多々ある。そうしたところの発見を与えてくれた気がします。そういう意味では、そう感じた刹那において、シュタイナーのパート的信者になっているのかもしれません。善いことを信じることは大切です。by 大藪光政