池田晶子さんが亡くなられて、もう一年以上が過ぎました。
この書物は、2007年3月に発行されています。
すなはち、死後すぐの出版です。
であるのに、何故か?すぐ手元に辿り着かなかった、この一冊の本。
手にして、あまりの面白さに、あっという間に読み終えてしまった!
お二人の対談は、まるで、キツネとタヌキが障子の影で、囁き合っている感じがします。
そこに、筆者の騙されたイタチが聞き入っているといった感じですね。
対談自体は大変わかりやすい言葉で語られていますが、二人が暗示すものが何であるかを、読者はきちんと考えないと、仲間には入れてもらえません。
あるときには、神憑り的な話にもなり、ふと、触れてはいけない怖い話だと感ぜられるものもあり、興味津々になります。立場上、大峯顯氏が池田さんより人生の先達でもあり、哲学と宗教の挟間を行ったり来たりされている長老の発言には、おのずと重みがあります。そして、お二人の共通点として、サイエンスの実績が無いということを引き算しても、この本には、人としての重要なテーマがしっかり綴られています。
宗教としての仏教については、この本を読んで行くにつれ、今までの先入観が改められ、そして考えさせられましたし、釈迦についての新しい理解もできました。しかし、これをどう剽窃して、いったん胃袋の中で溶かし込み、自身の身となり、骨となせるのか?現在、胃腸薬を処方中です。
お二人のお話は、形而下と形而上の世界を行ったり来たりしていて、そのスケールがあまりにも宇宙規模ですから、まるでSF小説を読んでいるような気分になります。SFは、空想の世界であり、読んで楽しむことだけで終わります。
ところが、ここでの話としての形而下から形而上は、現実を突き詰めて行った世界が『空』になるという、難解な認識に立つことが、果たして何を意味するのか?また、個々が想像を巡らすことでしか突き詰められない状況。つまり、現在生きている人々に対して、リアルタイムで共通認識には立てないという大壁がある。その大壁に対して、池田さんも大峯氏も宿命的に、長い~仏教時間で世の人々に『真理』について問い語るべき使命の認識がある。といったことを想うと・・・限りなく思索が続きます。
対談の最後の辺で、池田さんが、「そうですか。十年すればわかるかもしれない」という。すると大峯氏が、「そうそう。そんなに早くわかってもらっちゃ困る。(笑)。なま覚りになるから。」と返事する。そして、最後のところで池田さんが、「あと十年ですか。」と、もう一度吐く。
このとき、池田さんはご自分の死がそこまで迫っているとは思えないような雰囲気で云われるから不思議です。あと、十年どころか、この時点であとわずかな命であるのに・・・。
人生が無常であるとはこのことかなとも思います。
この本から得た仏教的考えで推論しますと、池田何某の『真理』に迫る熱意と突然の死は、ある意味で無常ですが、これでお終いではなく長い仏教時間では、ほんのひとときで、まだまだその展開が巡ってくる予感がします。つまり、仏教的時間で想像すれば、またいつの日か池田何某が、名を変えてこの世に舞い降りて、御託を述べることもありえるのでしょう。その時は、名は池田何某ではありませんが・・・同一の魂では無いとは決して言えません。形而上のことについては誰も証明ができませんので、そんな不思議な気持ちにもなるのです。
その池田何某は、流れ星のように、突然この世に現れて、御託を述べて・・・去って行った。そんな感じですが、生身で現存していた当時の池田さん自身にとっては、究極の答えが知りたかったことでしょう!でも知りえなかった。
己の寿命すらわからないのに、そうやすやすと『真理』の正体は、見出せない。いや、『真理』の方から出向いてくるべきところでしょうが・・・さて、出会ったのは、病床での死の直前か?それとも天国だったかも。
ところで、『悟る』とは、真理を会得するということですが、この本では『覚る』という漢字を使っています。これは何故か?まあ、それはよいとしても、『空』を認識するということは、出来ない相談ですが・・・筆者は、今となって、それが、『空』であったかは断言できませんが、そのような体験をしたことがあります。
私の場合は、ある病気で『死』と向き合う出来事がありました。大学病院にて、初診でそのままその日に、即入院でした。助教授の先生が、すぐに事務局に掛け合って、入院待ちの多くの患者さんから、部屋を優先的に確保してくださり、すぐに病室に入りました。相部屋の患者さんは、皆さん癌におかされた人達で、とても難しい状況でした。何の面識も無い先生がそういった処置をされたのは、恐らく病状が急性であるので、早ければ早いほど救えると判断したのでしょう。
MRIや、その他の多くの検査結果が出るまでには、日数が掛かりますが、流石に、これはひょっとすると我が命、危機に迫られているな。と覚悟しました。家族には、「誰にも私が入院していることは言うな」といって、後は急速な症状がどう展開するのか?そんなことは神のみぞ知るで、まな板の鯉でした。
入院直後の気持ちとしては、己が死ぬことにはまったく恐れはなかったのですが、残された家族には私の死後色々と苦労を掛けるのでは?という気持ちで、それが不安といえば不安でした。
また、入院しても、食欲とか体調は別に悪くはないので、早速退屈しないように、書物とMDを悪妻に持ってきてもらいました。死ぬ前に、読むべき本と聞くべき音楽といった気持ちが少しあったと思います。
書物は、『ソクラテスの弁明』、音楽は『シューベルトのソナタ18番』です。どちらも昔、触れたことがあったが自分としては体得できていない、とても気になるものだったのです。しかし、この不思議な組み合わせで、何かを摑むことが出来たような気がします。
早朝に、大学病院の敷地をひとりで『シューベルトのソナタ18番』を聞きながら、歩いていますと、自然と涙が止め処もなく出てきて、時間が静止して、『空』といっていいのかわかりませんが不思議な体験をしたのです。その時、初めてシューベルトのこの曲がわかったのです。
以前、上記の話をどこかで書いたことがありますが、何故ここでもう一度取り上げたのかといいますと、この本を読んで、「ああ、『シューベルトのソナタ18番』は表象だったのか!」とわかったからです。『真理』を求める気持ちと、表象としての『シューベルトのソナタ18番』がマッチングして『覚った』のでしょう。『表象』という言葉は、池田さんと大峯氏との対談で「表象-語りえぬことへ-」のところで出てきますが、哲学はロゴス、仏教は表象で、という説明はとても納得のいく説明だったと思います。
私の場合は、たまたま、その表象が音楽であったということです。それも、精神性の高いシューベルト音楽の中で、『ソナタ18番』がそれなのです。もちろん演奏は、クラウディオ・アラウです。彼しかいません。
シューベルトの音楽は、『死』、言い換えると『存在』と密接な対話があります。『冬の旅』もそうでしょう。
当時、私の病状は、早期治療のお陰か?症状が止まって、すぐに退院出来きました。そして、癌ではなかったので、今度は即、病室から追い出されました。でも、原因は不明のままです。
そして、「ああ、また普通の生活にもどれば・・・こんな覚った気持ちともお別れだな。」と、退院するときに感じました。それは的中しています。もう、『空』を摑むことも、感じることもないですね。『死』を身近に感じないと、直覚による『空』の認識も無理かな?といった気がします。
ところで、お二人の対談では『私』を超越するということが『宇宙』と同一といった感じが見受けられますが、それってかなり不思議だと思うのです。本当に同一であるのか?勝手に『私』が『宇宙』と同一であると想像しているだけではないのか?つまり、回帰したいと希望しているだけではないか?
それと、『真理』は、どうも凡人にはなかなか姿を見せないようですが・・・何故そうなのか?
もし、誰にでも、『真理』を簡単に捉えられたら、どんなに『便利』なことか?
曖昧な宗教もいらないし、理屈っぽい哲学もいらない。しかし、科学は生活に役に立つからこれは欲しい。そして、『真理』は常に人々の前にて燦然と輝いていればよい。神のように!
しかし、そんな世界などは、存在していない。何故か?
突き詰めると、人間なんぞ存在していなくて、神だけが存在していれば、すべて問題解決で、めでたしなのだが、おめでたくない世界が存在している。それが人間界だから、そこに住んでいる住民は、あきらめの境地か?
しかし、あきらめの境地かどうかも定かでない『住民』にとっては、やはり『真理』などというものは、無用なのだと思う。それが証拠に、喜怒哀楽がある。『真理』の存在とは無縁に四苦八苦している。
人類が皆、池田何某だったら大変なことになる。生活をそっちのけで、『真理』追求の仕事ばかりして、皆、霞を食って生きなければならない。しかし、自然は良く出来ている。ウイルスだけでなく、人類にも多様性を持たせている。だから、めでたくない人間界も面白い。このお二人も面白い存在で、それを楽しんで眺めている読者も同類でしょう。
そんなことに対して色々と書き付ける暇人の筆者も、『真理』とは距離をおいて生活している。
生きて日々を送っている人にとっては、『真理』と同期をとることはできないし、とろうとしてはいけない事だと思う。何故なら、恐らくそれは『死』と同居することになりかねないと予感するからだ。
by 大藪光政