中国の近代思想として、『康有為(こうゆうい)』を、この本で知ったのですが、タイトルに『ユートピアの開花』というのが付いていましたので、どういう意味合いなのか?と思って読み始めました。
筆者が言うように、『康有為』の『ユートピアの開花』という意味合いが、この本を読んでも今ひとつ、わからずに読み終えました。ユートピアという言葉は、この世に存在しない世界という意味ですから、『康有為』の大同思想に基づく、世界の構築もこの世に存在できなかった世界ということでしょうか?それとも人類が求め続ける世界だったのでしょうか?
そもそも、『大同思想』なるものが、どういった思想であるのか?『大同』という言葉自体は、一般的に馴染みあるところでは、大同生命、大同特殊鋼とか・・・そんな企業名でしか印象がなかったものですから、そうした企業は、大同思想、或いは、『康有為』と関係のあるところから、名付けられたのかな?とも思いました。
『康有為』は、書き出しによると、少年時代から大変な読書家であったようです。そして、中国思想が発達した原動力は、なんといっても、私塾でしょう。『康有為』は、朱九江先生の礼山草堂で学んだのですが、三年のち早くも師説にあきたりないとして礼山草堂を去っています。
その理由の一説を、坂出祥伸氏が解説して下さっているのを抜粋させて頂きますと、次のとおりです。
「韓愈の説いています道術は浅薄なものですし、宋・明代や当代の文章の大家・名家につきましても、その説の実際を求めようとしてみますと、全部空疎で何もありません。ひそかに思いますに、道についていうなら荘子・荀子のようであるべきですし、治についていうなら、菅氏・韓非子のようであるべきです。『素問 (黄帝内経素問)』が医学のことを論じているのでも、一つの体系をなしているのです。ところが、韓愈の場合、文章の抑揚に工みであって、表現がうまいだけのことです。道のことにはかかわりがありません。「原道」(韓愈の道とは何かを説いた一篇)だって膚浅きわまりないものです。なのに、有名になって、千年来文章家はそれに対抗せんものとつとめて自信ありげですが、道のなんたるかが分かっているものはまったくおりません。」と、朱九江先生に対して面と向かって批判したようです。
これからも分かるように、面と向かって師を批判して、礼山草堂去った行動は、処世術としては、『康有為』が如何に下手なのかがわかります。これは、後の彼の行動にも出てきてしまい、行動の具現化を阻害してしまう要因でもあると思います。しかし、『康有為』の言っていることは、本当なのでしょう。本当のことをいうと誰しも怒ってしまうものです。朱九江先生は、怒らずに、『康有為』を『狂』だとして済ませていたようです。
それと先程の彼の言い分を読むと、『康有為』は、理論についての洞察がすごく、知行合一の考えをもった人であるのがわかります。礼山草堂を去った後は、自室にこもり、ひたすら読書にふけったといわれています。
そして坂出氏の解説では、『康有為』は書を捨て、座禅をして「静座のときに、忽ち天地万物は皆我れと一体となり、おおいに光明を放つのを見て、みずから聖人となったと思い、欣喜して笑った。忽ち蒼生(人民)の困苦を思うと、身もだえして哭いた。忽ち親のいたとき孝養を尽くすこともしないで学問などなんになろうと思うと、身支度して帰り、お墓に行った。」と、紹介しています。これに基づくと、彼の大同思想は、どうもこの辺から始まったようです。
坂出氏は、『康有為』をパトスの人だと言い切られていますが、パトスの人というのは、どうも思想だけに留まらずに、行動に打って出るタイプが多いですから、彼の行政や、政治に関する行動もそのひとつの現れでしょう。
そういう意味では、彼は思想家というより、毛沢東みたいな革命家に近いと思います。そして、彼の場合は、革命に失敗した人、つまりユートピアを追い求めるだけで終わった人ということになります。ただ言える事は、それでも当時の人々に少なからず大きな影響を与え、それが中国改革に寄与したのは言うまでもありません。
彼の時代は、清国が多くの列強に侵略されつつある状況下であり、また西洋の科学技術、キリスト教、政治、文化が、押し寄せてきた時代でもあります。ちょうど、日本が開国を迫られて、攘夷か開国か?を選択を求められたのとまったく同じです。『康有為』は、尊王派としての改革派の位置にあったようです。
日本の場合、当時の天皇は政治に対する直接の強い発言力がなかったので、人民による明治維新が成功したのでしょう。それに対して清国は、政治に強く関与した王を担いで改革をすすめようとしたから失敗したのでしょう。権力が『康有為』の直言を受け入れた光緒帝から、旧法派の西太后に移った時点で、彼の改革は断たれてしまったのですから。
『康有為』は、思想や、新しい科学技術、文化に関してはとても、積極的に吸収するタイプの人だったようです。その結果、彼の思想は西洋と東洋のごちゃ混ぜによるアイデアマンとしての多彩な発想を重ねて行きますが、当時の人々はもちろん、現代の私たちでさえ、現実離れした唐突な発想が生まれていきます。
それは、現在の私たちにとっては一部では、当たり前のことになっているものもあります。例をあげますと、『数千万倍の倍率の顕微鏡を用いて物を見れば、大小斉同の理が悟れる』、これは、現在の電子顕微鏡のことになります。『電気や光線が一秒で数十万里を走ることを知れば久速斉同の理が悟れる』、これは、現在の光ネットワークによる瞬時の情報がもたらす成果・・・と言いたいところですが、簡単に手に入る情報で、斉同の理が悟れるには至っていませんね。あと、男女平等の制度とか、ありますが、『康有為』は、己がこの世界に来現したのは、もっぱら衆生を救済せんが為であると、言い切っています。こうなると、『康有為』は教祖的存在になります。
『康有為』は、書家としても一流なようです。そして坂出氏によると、彼は『風気変遷の自然』ということを強調されているとのことで、「およそ先の文字はかならず繁であり、その変化するやかならず韓簡である。故に篆書は繁であるが隷書は簡であり、楷書・真書は繁であるが行書・草書は簡である。人事が便利なほうにはしるのは、これこそ天が与えた知恵の自然のありかただ。」といった内容を紹介されています。これは、世界の文字が象形文字から、意味のない便宜性ある簡略された文字へと流れていったダウイーンの進化論的説明をしていることになります。
『康有為』の学術源流で面白い内容を坂出氏は、紹介されています。それは「凡そ物は皆気から始まる。既に気があって然る後に理がある。人を生じ物を生ずる者は気である。能く人を生じ物を生ずる所以の者は理である。人が日々に気の中に在りながら、それを知らないのは、猶お魚が日々に水中に在りながらそれを知らないようなものだ。朱子は、理は気の前に在るとしているが、その説は非りである。気があれば、即ち陰陽がある。その熱いものは陽であり、冷たいものは陰である。・・・・」、とあります。
こうした『康有為』の考えは面白いと思います。どこからこうした発想が出てきてのか?それはわかりませんが、『物』が『気』から始まる。という発想はどうでしょう?原子物理学が発達した今日でさえ、物質の究極の正体を突き止めることはできていません。如何なる新しい素粒子を発見しても、きりがありません。
質量のない物質があるとすれば、それはもう物質ではないと思うのですが、そうしたものを『気』と仮定すると、そうした『気』から究極の素子が生まれ、物質が構成されてゆく・・・・というひとつの考えを私は過去に抱いていましたが、それと似ているなと思いました。ただ、しかる後に理があると『康有為』は言っていますが、彼の言う『理』は、法則のことでしょうか?でも、後の文を続けて読むと、どうも『気』と、『理』の意味合いが不明確な気がします。
私の考えと基本的に同じとすれば、『気』が生じて、それが『理』によって構成したものが、物質、すなわち、『物』である。そして、物と物との関係をさらに『理』により構築されたものが、この世の世界ということになります。こうした出来事を、どちらが先に始まったか?という考えはある意味で「鶏と卵はどちらが先か?」と同じで愚問かもしれません。でも、真の問いとは、わからないことを問うということですから、無視できません。あと、「何故、質量の無い『気』から物質が構成されたとき、質量のある物質ができるのか?」といった疑問も生じます。そうしたことを考えるとちょっとロマンチックになりますね。
ところで、『康有為』は、面白いことをしています。万木草堂といった私塾を開いていますが、これがとてもユニークですね。この塾では、中国の公羊伝を真っ先に読み、中国の古書だけでなく、西洋のすべての学術書も読むようになっています。その中には、声楽から化学、電気、などなど多様なジャンルが入っています。つまり万木草堂は、広く見聞を求めて、とても自由な学問の場であることがわかります。
そして、学習法としては、聴講と筆記づくりと読書のほかに学生は皆、功課簿というものを一冊与えられて、読書して疑問があったり、感銘を受けたりしたらすぐに功課簿に書き、半か月ごとに提出させられて、康先生が長文の批評で答えたとのことです。学生の質問が百字たらずなのに、康先生は数百の長文で答えていたそうです。この功課簿は、万木草堂塾にとっては、大変重要な方式だったようですし、先生と生徒との対話形式でのこうした文章でのやりとりは、現在の教育でも大切な方式だと認識しています。
私が、こうしてこのブログに掲載しているのも、ただ読書するだけでなく、自分の読後感を書き記すことで、結構自身の為になっていると思います。つまり、これと同じでしょう。そして、今は、師がいませんが、そのうちいつか「あんたの考えは間違っている!」と、いう方が現れるでしょう。
先ほど面白い事をやっていると言いましたが、それは名付けて、『人間検索マシン』です。これは、『孔子改制考』を編纂する方法が、面白いのです。学生を使って自分の仕事を手伝わせるのですが、これは現在の大学でも大学院の院生を使って研究活動に役立てているのと同じですね。
この時代では、コンピュータなどというものはありませんでしたから、どうしたかというと、『康有為』は、人をコンピュータ代わりに活用したのです。つまりデータベースづくりで検索機能を持たせたようです。坂出氏の解説にはそうしたことは書かれていませんが、解説を読むと、まさにそうしたことを、『康有為』はやっているのです。だから、情報処理技術も彼は持ち備えているから、やはり只者ではありません。
こうした只者でない 『康有為』は、ついに孔子を、キリストを手本に神格化しょうと試み、孔子教という組織をつくり孔子信仰を通して国民の団結を考えたようです。こうしたところが、やはり何としても苦しい中国の立場から現況脱却を試みようとした彼の行動であったようです。
彼の後年では、『万国公報』と称した新聞まで発行して政治活動をおこなっています。これは確かに、ひとつのマスコミ戦術としては、効果を上げています。このように『康有為』はどちらかといえば知略の長けた、革命家だと言えます。ですから、中国での純粋な哲学とか思想を新しく築き上げた人ではなく、過去の中国思想を受け継いで、かつ、西洋の良いところを余すところ無く吸収して、なんとか祖国を救おうとした愛国者としての革命家と見た方が、私としては納得できるものです。
人には様々な生き方があります。それは、生まれながらの宿命的役割を持って生まれ出たと思ってもよいでしょう。『康有為』は、中国でその時代が要求した人物のひとりです。中国のオリンピック開催式を中継で観ていますと、共産主義国家といいながらも、今日の中国は世界の中国として世界を受け入れる必然性にあり、そのアピールとして中国の歴史を織り込んだ五千年の息吹を演出しました。
この開催式を観て、率直に中国の壮大な歴史をイメージしました。それは、始皇帝の兵馬俑が会場に現れて動き出したかのような、一寸の狂いも無い壮絶なビッグショーでした。なのに、翌日の朝日新聞の朝刊には、日本の選手団がばらばらに後進しているさまが、載っているだけでした。今の新聞は駄目だなあとつくづく思います。情報を印刷しているだけですし、それも感動的主観がない。
日本は、経済も政治も、すでに曲がり角に来ていますが、国と地方の一大借金、総額千兆円のつけを、一体誰が、解決してくれるのでしょう。『康有為』みたいに、それをやってくれる人物が、宿命的にあなたの近くに出現していませんか?でも、『康有為』とて、晩年は逃げて回ったのですから・・・実際、知行合一は難しいですね。
by 大藪光政