野菊


図書館で、岡本敏子さんが書いた、「太郎さんとカラス」を手にしました。


岡本太郎に関する本を手にするのは久し振りです。

私の本棚には、丁度三十年前に読んだ、『美の呪力』などの著書があります。岡本太郎が有名になったのは、太陽の塔以来、テレビのマスコミに登場してからだと思います。


当初、画家というか・・・芸術運動家として、フランスのシュールレアリズムによる影響を受けて帰国後、縄文土器に触発された芸術活動で一躍有名になりましたが、その時、日本の絵画を象徴するような富士山の絵に喩えて日本の美術界を、八の字文化だと言って、既存のきれいなモチーフや、美しさだけで媚びるようなものを堕落と言ってのけ、日本画壇に挑戦状を突きつけた行動をとったのは、ご存知の通りです。


その岡本太郎さんに対して、私が若き頃、彼の本を読んで型破りな発言には感動するものの、少し疑問が残り、岡本太郎さんに、お手紙を出したことがあります。手紙の形式は、わざと日本文化を代表する巻紙で、筆にてしたためて書き送りました。手紙の内容は今となっては、詳しく覚えていませんが、書き始めは、岡本さんの考えにいたく感動したことを書き記し、後半は、私が疑問に感じたことを率直に質問しました。


その質問は、確かに岡本さんが指摘するように、日本の絵画はマンネリ化した手法とモチーフで描いているが、これは、画家が自身のフォームを発見したり、発明するとその型にはまってしまうというところにあるのですが、それを批判している岡本さんだって、自分の型にはまった、絵画になってしまっている。というところを指摘したのです。つまり、「常に自己破壊することを求めている岡本さんすら、己の型の範疇に納まっている。だから、それをどう説明されますか?」みたいな質問を投げかけたと思います。


すると、その返事に対して丁寧に、当時、秘書の敏子さんから、返事の葉書を頂きました。


内容は、手紙に対する簡単なお礼と、生憎、岡本さんが渡欧していて留守という主旨の内容でした。実際に岡本さんが、渡欧しているかどうかは、知るよしもありませんが、(居留守を使ったのかもしれないですが)その後も返事はありませんでした。(まあ、私が二十八歳で相手が六十八歳では、話にもならなかったとは思いますね。)


こちらとしては、どんなに偉大な芸術家でも、どうしても型にはまるというのは逃れることができないものだ、との感があるのですが、岡本さんは、それを打ち破るべきだと言いつつ、彼独特の縄文土器のレリーフからつかんだイメージで、文字絵みたいな線画に嵌ってしまっている。


そして、どうも画家というより、芸術運動家的な存在の方が強い。むしろ、そちらの方で魅力があるのですが、この「太郎さんとカラス」という著書を読むと、初めて敏子さんのコメントから、岡本太郎が納得できる答えが出てきました。


それは、敏子さん曰く、「岡本太郎は、民俗学者だから・・・」とはっきり言い切っていた。なるほど、それで、三十年前に読んだ、『美の呪力』も、あれは、画家としての著者ではなく、民俗学者としての著者なのだ。と、納得しました。


岡本さんのものの考え方がすごいところは、おそらく、十八歳で渡欧し、二十歳でパリ大学ソルボンヌ校に入って西洋の文化的躍動を自由満喫に体験したところから来ていると思います。もし、渡欧していなかったら、今日のような岡本芸術は、開花していないでしょう。


この本にも書かれているように、岡本さんは、組織に組み込まれるのを極度に嫌っていますし、そのことが、このカラスと似合いな雰囲気を演出しています。


カラスは、傍から見たところでは、団体行動をとっているので、リーダーとかの上下関係があるのかと思っていましたが、この本の解説では、そうした上下関係無して、そうした集団行動を取っているとのことで、ちょっと不思議な生き物の感じがします。


また、カラスは飼い主に対しても媚びたりしなくて、対等な等距離で、自己の確立が出来ている賢い鳥であることも岡本太郎が気に入っているところであるのは、合点できる話です。


私は、ショルティという愛犬を飼っていますが、このショルティは、今まで飼った犬とは、ちょっと違っていて、おやつや、食事の時は、よく命令に従いますが、自分が満足した状態になると、いくら命令しても、知らんぷりの涼しい顔で、ただ私を冷ややかに見ているだけです。


帰宅したときも、自分が散歩したいときは、大変な出迎えをしますが、そうでなければ、ただじっと見ているだけです。それを今まで、憎らしく思っていましたが、この太郎さんとカラスの本を読むと、なるほど、お互い対等か?と思えば、腹も立ちませんね。


岡本太郎さんが、渡欧からの帰国後、日本で芸術活動に取り組むに及んでは、ジャック・デリダの『脱構築』のような姿勢で既存の文化に対して取り組んでいったのではないかと思います。ですから、『脱構築』は、別にデリダだけの専売特許ではないようです。


話は変わりますが、昔、岡本さんが自宅のアップライトピアノでショパンの練習曲を弾いているところがテレビで、ちょっとですが、紹介されました。


普通、素人がクラッシック演奏を公開することは、無様な姿を公開するのとおんなじで、滑稽なものですが・・・例えば、吉永小百合さんが、川端康成をはじめとした、文士の集まりで(誕生会だったと思います)、ピアノ曲演奏を披露したのですが、とても聴けたものではありませんでしたが、なんと、川端康成、他、皆さん大変満足された真剣なお顔だったので驚いてしまったことがあります。


文士って、本当に芸術がわかっているのか知らん?と思ったことがあります。


そうしたこともあって、半信半疑で、岡本太郎の演奏を聴ききましたが、何と、ちゃんと様になっているのです。 つまり、自分のショパンに対する音楽スタイルをつかんで演奏しているのです。これには、驚きました。そして、一体、何時、ピアノをマスターしたのだろうか?と、不思議でたまりませんでした。(ピアノをやられている方は、ピアノを弾くことをものにするということが、どんなに時間が掛かるのかをご存知だと思います。)


こうした、岡本太郎の幅広い活動を見ていると、うらやましくも思いますし、本当の意味での自由人だなと感心します。芸術に、ジャンルの垣根はないということでしょうか?その垣根を垣根とも感ぜず、平気であちこち己の思うところに出没する岡本太郎は、日本人に対して、ひとつのメッセージを残したと思います。


『芸術は爆発だ!』ではなく、「自分らしく生きることの大切さを身に付ける」という気構えを持てというメッセージだったかのような気がしてなりません。それは、組織に埋没されることなく・・・ということでしよう。


by 大藪光政