オレンジコスモス


この本は、青少年の哲学書入門として、世に出たようですが、かなりの支持を得ていると聞いています。

池田さんは、それまでに18冊以上の本を出版していたのですが、どうしてこのような本を出版したのか?


それは、青少年に対する彼女の想いがあったと思います。


日本における哲学書は、過去、得てして難しく書かかれていることが、一見、高いステータスにあるとされていた感じがします。本当は、考えを言葉で表現する難解さからくるものですが、結果的に難解な日本語で書かれてしまいます。


ですから、翻訳の哲学書をさらに、翻訳することなくして(日本語をやさしい日本語で翻訳) 青少年が哲学というものに親しむことは、困難だったのです。その壁を取り外したのが、池田さんです。


昨今の現代哲学にも、訳者の新しい新漢語が登場して、読者を惑わします。また、言葉そのものも、変にこねり回して理解しがたい文体となって、まるで暗号文のようです。そうした哲学書を読むのもひとつの楽しみかもしれませんが、まだ、まったく人生の経験も乏しい若者に、それらをあてがうことは、哲学アレルギーにしてしまうのは、確実でしょう。


池田さんが、そうした日本の哲学事情を踏まえて出版されたのが、今までの著作物であり、そのまとめがこの本です。ですから、この本はある意味で、ピアノを習うときのバイエルみたいな、立派な教則本かもしれません。素人はバイエルを馬鹿にしますが、実は簡単なものほど、難しいのです。 (哲学も、ひらたい言葉で書くのは容易ではありません)


嘗て、息子が芸大の渡辺健二先生(芸大の副学長)に小学校六年生の時、ベートーヴェン、ピアノソナタ“悲愴”をみて頂いたことがありますが、その渡辺先生、曰く、ご自分が芸大からリスト音楽院に留学したとき、なんとバイエルみたいな初歩からやり直させられたとのことです。つまり、一音、一音の音の出し方からやり直しです。


そんなわけですから、基礎はとっても大切なのです。そんなとても大切なものを池田さんは、この世に残して、見事、散っていきました。ですから、この本は、小説を読むのとは少し違います。つまり、読みながら、一緒に池田さんが問いかけるものに対して、参加しなければなりません。


それは、人が書いたものを読むということは、ただ、人の考えを聞くというだけで、書かれたものはあくまで著者の考えですから、一度読んだら、眺めながら、自分の思いを巡らせることが肝心です。だから、参加しなければ面白くありません。


私が、表題に『池田晶子の14歳からの哲学をながめて・・・』と書いたのは、一気に読んで、ハイさようならとは、ならないからです。この本は図書館でもとても人気があって、常に誰かが借りていて、もう、本には手垢がいっぱいです。私は、とりあえず、最初の『考える』の(1)~(3)だけを覗いてみました。そして、色々考えてみました。


もちろん、池田さんの息遣いも感じながら・・・そんな風にして、そばに置いて、広げては考えてみることが大切だと思います。でも、貸し出し期限がありますから・・・また、返せばよいのですが、青少年の皆さんは、ケチらずにお小遣いから、座右の書として買っておくべきでしょう。(私はこの間、久し振りに座右の書として、一冊の本を買いました。それは池田さんと大峯さんの共著『君自身に還れ』です。)


図書館で借りて読んだ後、もう一度読むと不思議と、また新しい発見があるのです。だから、この『君自身に還れ』の本を買いました。本を買うなんてことは稀なのですが、いつも寝床の傍において時々眺めます。そして、二人の会話にかたって楽しみます。そんな読書もあり、なのです。


さて、この本は、ここでは、『考える』の意味を色々と問うていますが、『考える』と『思う』の違いについても考察されています。これについては、私も前回、『ポール・ストラザーン著の哲学者たちを読んで・・・』のところで述べています。


考えるということは、やはり基軸があるわけで、それが、自分であったり、他人であったりするわけですが、重要なのは、やはり、自分でしょう。幼少の哲学の始まりは、やはり、考える自分がいるのは何故だ?という原体験がある人には、哲学の目覚めが早いのですが、でも、幼少の時に思うだけで終わってしまう人も、沢山いるでしょう。


しかし、人生を歩んでいくうちに、ふと、我に還る人もいるでしょう。私みたいに、頻繁に我に還っても、還っただけで終わる人もいるでしょう。でも、私の場合は、昨年から、ブログを書き始めて、なんだか、深入りし始めた気がします。


考えることは沢山ありますが、どちらかと言うと、気が付くと普遍的なものや、真理は何処に・・・といった現前的な事柄が多いのも私の特徴です。ところが、そうしたものは、いくら考えても、辿り着くことはないのですから、空振りの考えで終わります。


しかし、それでもその為にいろんな書物を読むことで、言葉の意味で、あっと思う発見もあるし、経験から、今まで難解だった哲学的意味が、氷解することもありますから、とことん考えることは、派生的な効果が大なのです。その効果として、世の中のニュースを見ても、その事象をもっと違った考えで捉えることも増えてきます。これは、マスコミに振り回されなくて、自分の立場に立って考える力をもたらします。


また、文学書の読み方も色々と見方が変わってきて、読む力というより、内容を捉えていく力が豊かになるのを肌で感じてきます。だから、哲学する(考える)、ということは無用のようで大変役に立っていることになりますね。


これからの若い世代の方が、哲学をやる・・・つまり、『考える楽しみ』を持つことは、大変重要なことですね。でも考えるといっても、今晩のおかずの献立を考えるのではありませんよ。


自己の存在を認識した上で、現前とした本質を想定して、その想定したところへのアプローチをブーメランのように繰り返し投げ掛けるみたいな行為を試みるのも、何か新しい発見ができる可能性を秘めていて・・・考える行為としては大変楽しいですね。


by 大藪光政