高校生二年生の頃でした。田川高校で倫理学の辻先生が哲学について触れられた時、一高生 (現在の東大) ・藤村操が、日光の華厳の滝で遺言を残して自殺を図った話をされました。
世の中、あまり難しく考えると行き詰まって自殺をしてしまうから、考えすぎないように・・・との談話がありましたが、当時としての科学好きな私は、哲学は面白そうだが、やっかいな学問だな・・・といった感がありました。
でも、恐らく、池田晶子さんみたいな方だと、「それは、考えが足りないのです。」とでも、言われそうです。哲学は、思い詰める学問ではなく、考えることを大切にする行為だということに気付かせたのは、池田さんの功績でしょう。
この間、図書館で、ショウペンハウエル著書、『自殺について』の岩波の薄い文庫本がありました。題目だけを捉えてみると、おっかないタイトル本ですね。最近、何故か、ショウペンハウエルさんが気になって、気に入っています?
自然とその本を手にし、持って帰って読んだのですが、タイトルはそうであっても、実際は、他四篇と記してあり、最初は、「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであると言う教説によせて」と言うのが最初に書かれていて、そのあと、「現存在の虚無性に関する教説によせる補遺」 そして、「世界の苦悩に関する教説によせる補遺」と続き、次に、「自殺について」が登場します。
これも、岩波書店の営業戦術ですね。 「自殺について」 と書いた方がよく売れるからでしょう。世の中、一度や二度は、「あぁ~もう死にたい・・・」と思われた方は、結構おられるから、そうした心境の時に、片手にショウペンハウエルの文庫本を手にして、自殺について考えてみたいと、心を突き動かされた方もまた、いるでしょう。
当方は、まったく自分から進んで死ぬ気は無いのですが、何が書かれているのかを知りたくて、借りてしまいました。暗い話か?それとも、深い話しか?と思いましたが、前回の『読書について・・・』は、なるほどと、共鳴しましたので、もっと違う期待をもって読みました。
読むと、なんのことはない、『現存在』についての洞察と、一部はキリスト教主義に対する批判みたいなもので、世間一般が捉えている自殺したい云々等の悩み事とは、少し次元が違う話です。哲学的思索としては、『現存在』を扱っていますから、自殺願望の一般的な考えとまったく無関係ではありません。
ショウペンハウエルは、生活苦や、恋の悩み、己の能力の無さを悲観しての自殺についてのお節介な諭しはされていません。この『自殺について』の本は、つまるところ他篇を読むことで、要領を得ているように思えます。
ショウペンハウエルの文章は、わかりやすく、とても東洋的で、文学的な香りがします。その為か、多くの文学者に影響を及ぼしていることが納得できます。だから、ドイツの哲学者としては、異端ともいえます。
ショウペンハウエルに言わせると、「私の書いた本を読んだからといって・・・自殺についてあなたが考えたことにはならない・・・あなた自身がどう考えるか?それが大切だ!」と、問いかけるに違いありません。
自殺についての、一般的な動機は、多くは生活苦、次に個人的な悩みに尽きると思います。まさか、世界平和の為に悩んで自殺を考えたとか、まったくの他人における不幸を嘆いて自殺を図ったとか?聞いたことがありません。自分でない人の為に悩んで自殺を図るときは、必ず、何らかの己自身に関わりがあって、嘆き悲しんで決心したと言う理由が存在します。
人が自殺を考えた時は、死ねば、その悩みから開放されるという確信でもって論理が成立します。そこが問題なのですね。死ねば楽になれるという確信から、自殺の引き金が放たれるのです。自殺願望者は、生きるのが辛いし、苦しい、だから楽になりたい・・・という最終結論から起こるのです。
世界は、自分がいなくなることで、世界も存在しなくなると考えても、多くの他人が死んでいって、自分が生きている限り、自分が見る世界は、現前として存在している。前者は世界と自分は同一性が認められ、後者は、世界と自分は他動性があるといえる。この二面性をもっているのが、他の動物と違った考える人間の現存在なのですね。
多くの一般人には、前者のような考えはなく、哲学的思考すら日常ありません。ところが、生きることに苦痛を持った人は、苦しみもがいて、何とかしょうと努力するか、しないかは別として、必然的に追い込まれます。すると、目の前には、前者の思惑もチラついてきます。哲学的思考がなくても、本能的に死んだら自分は消滅するので楽になるのでは・・・と思いついてしまうのです。
自殺とは、悲しい思い込みですが、そこには切羽詰まった現実があるのですね。理由如何に問わず、自殺の動機と、その実行は人生の 『終了』であって、『リセット』や、『再起動』ではないのです。そこのところが問題です。『リセット』や、『再起動』は、人生のやり直しというか、そう思い詰めないで、今までのことはご破算にし、心機一転して再出発を試みることですね。ところが、『終了』は、消滅を意味します。
もともと、自分が望んでもいないのに、この世に生を、勝手に創造されて・・・不遇な環境に捨てられて迷惑だったと思えば、一刻も早く、『終了』したいでしょう。でも、東洋の思想にある『輪廻転生』が本当だとしたら、人間に生まれて、その生まれた条件に不満があれば、勝手にすぐ、『終了』してしまうことで、生まれ変わる時の最適な条件を求めるということになり、それを多くの人間が実行すると、人類の出現は出たり入ったりのチャタリング現象が起きて、世界そのものが成立しないでしょう。
本当に、『輪廻転生』というものがあるならば、そうした混乱が起きないよう、自殺した人は、人間には成れず、豚か牛など・・・他の動物になる決まりがあるのかもしれません。そうした考え方は、少し辻褄の合う話かもしれませんが、『輪廻転生』が在るのか無いのか自体が、真相は闇の中です。
もし、まったくの 『終了』であれば、こんな真空なことはありませんが、死んでしまえば、真空だろうなと思った本人すらもいませんから、無常です。その無常とも思われる世界には、現存しているすべての人が、何らかの辛苦を伴って生きているから不思議です。違いは、辛苦の中身と、それに対する対処の仕方です。
もともと自然は、合理的なのか?非合理的に出来ているのか?よくわからないところがありますが、生物の異常繁殖において(世界人口の膨張)、淘汰という制御としての摂理でもって、自殺もその淘汰のシステムに入るとしたら、自殺志願の『私』は、その摂理に歯向かいたくありませんか?その合理的な摂理に対して!
自殺志願者は、知らぬ間に、自然の摂理の中のプロパティにある『淘汰』という項目で処理されているのですね。だったら、そのプロパティを変更、修正、或いは削除すればよいのです。そして、その設定操作が出来るのは、『神』のみですが、ニーチェは、『神は死んだ』と言っていますから、自殺を検討している 『あなた』 が、神に代わってのアドミニストレーター(管理者)になり、『淘汰』の項目から、黙ってあなただけをそっと除外すればよいのです。
何も、死ぬことはありません。あなたのパソコンと同じようにアドミニストレーターになりましょう。それには、ログインのパスワードが要りますね。その暗号は二文字です。『哲学』、簡単でしょう!
by 大藪光政