つつじ


四月の記事が、 たったの二本になってしまいましたが、何分多忙を極めています。それは、ローカルとしての行政区で区長になりたくないのになってしまったからです。(このことは、別のブログでもその愚痴を書いています。)


ローカルの区長職は特別職にあたりますので、報酬も"特別"なわけで、寸志程度です。だから誰もなりたくないのですが、当方がなってしまったのには、ひとつの考えがあったからです。それは、中坊公平先生のおっしゃる『現場に神宿る』という意味からきています。


書物ばかり読んで人生を過ごし、ブログみたいな記事ばかり書いていると、次第に地に着いた思考が出来なくなってくるからです。福田恆存が講演で川端康成の作品を『子供の文学』と揶揄したことがあります。もし、川端康成がご近所の町内会の会長を一度でもしたことがあれば、恐らく彼の文学が少しは変わったと思います。


そうした、市井の中を観察だけするのと、自ら手を汚すこととは大きな隔たりがあります。つまり、母親の働き振りを見まねてままごと遊びをするのと、実際に母親の手伝いに参加するのとでは経験的収穫が違ってきます。


さて、ショウペンハウエルの『読書について』の本ですが、これは、岩波の文庫本で『思索』、『著作と文体』、そして『読書について』の三部に分かれています。翻訳者は、斉藤忍随氏です。肝心のテーマの『読書について』は、わずかの二十ページです。それをタイトルにもっていったのは本を売る為だったかもしれません。


まず、表紙の売り込みコメントには、ショウペンハウエルの痛烈な箴言があります。「読書とは他人にものを考えてもらうことである。一日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」と書かれています。


この言い分を面白く感じて、図書館から借りて読んだのですが、爆笑することがいくつかありました。私が大学生の時、ショウペンハウエルといえば、『デカンショウ、デカンショウで半年暮らし~、後の半年やー寝て暮らすー』という歌を歌っていた、あのデカルト、カント、ショウペンハウエルの哲学メンバーで知られていました。


ですから、厄介なおじさんという印象でしたが、実際に読んでみると、ドイツの哲学者としては比喩とウイットに長けた人といった感があります。そして、ヘーゲルとの確執もあったようです。そうしたことを紹介すると紙面に限りがありません。


まず、《思索より》 「学者とは書物を読破した人、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その前進を促す者で、世界という書物を直接読破した人のことである。」 と、面白いことを云っています。 ( 『蒙』とは、道理に暗い人を教え導くことですね。)


それから、《思索より》 「もともとただ自分のいだく基本思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない」と言い切っています。これは重要な箴言です。確かに、自己の考えがあって、他人の書物を読むときに共感を得たり、時には不快感を覚えたりしますから、やはり基本は自己の考えでしょう。


次に、《思索より》 「低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているにすぎない。すなわち彼らの名はジャーナリスト。適切きわまる名前ではないか。これをドイツ語で訳すと日給取り。」 このいやみは、今の日本の作家にはきついだろうなと思います。大衆小説家であり、長老の五木寛之さんは、これを読んだかな?


次に、《思索より》 「著者には三つのタイプがあるという主張も成り立つ。第一のタイプに入る者は考えずに書く。つまり記憶や思い出を種にして、あるいは直接他人の著書を利用してまで、ものを書く。この種の連中は、もっともその数が多い。第二のタイプの者は書きながら考える。彼らは書くために考える。その数は非常に多い。第三のタイプは執筆にとりかかる前に思索を終えている。彼らが書くのはただすでに考え抜いたからにすぎない。その数は非常に少ない。」 これも、著者なるものにとっては手厳しい分析ですね。


ショウペンハウエルは、このように分析力ある哲人(哲学者と書くと、彼は怒るでしょう。わしは学者ではないと。)なのです。それで、このブログを書いている本人はどういった立場にあるのかといいますと、似たり寄ったりかもしれませんが、「記憶や思い出あるいは、読んだ本を種にして、己の考える場として書くことで思考を濾過したり、昇華させたりしている。それで自身が求めている考えを構築していく場としている。行き詰まった時は、書くことからはなれて、閃いて考えがまとまったら書きたくて書きたくなって書く。」といったところです。


ですから、ショウペンハウエルの分析はわかりやすいですが、実際の著者はこのようにシンプルな分類には出来ないのでは?と思います。でも世の中こうした単純な分類に属する人が多くいるのかもしれません。


ショウペンハウエルが厳しく訴えているものに、匿名著者を挙げています。 《著作と文体》 「自分の発言を自分の名前で主張できない者が、ただ匿名の方法によるだけであらゆる責任からのがれたり・・・」と限りなく、匿名著者をこき下ろしています。 思索家の池田晶子さんが、ブログなどを嫌っている理由に、ブログの著者はあまりにも匿名が多いこともそのひとつとしています。ショウペンハウエルの言い分が、この件に関して同じ繰り返しで登場するのは、当時恐らく、匿名による批評に我慢ができなかったのでしょう。匿名を排除せよ!これは、異議なしです。でも、そんなことをしたら、ブログは閑古鳥が鳴くでしょう。ブログは匿名で成り立っているのです。


《著作と文体》 「・・・精神を備えた人々の作品をひらくと、著者たちは真実の言葉で我々に語りかけて来る。だからこそ、彼らは我々を鼓舞し、我々を養うことができるのである。彼らだけが充分な意識をもち、入念な選択を試み、特別な目的をいだいて、一つ一つの語を結合して行く。したがって彼らのものの言い方と、あの精神を欠いた著者たちのそれを比べてみると、実際自分の力で描いた絵と手本にたよって機械的にしあげた絵とのひらきがある。つまり精神を備えた著者の書く一語一語には、真の画家が一筆ごとにこめるような特殊な意図が込められているが、凡庸な著者が書くものでは、すべてが機械的な組み立てに終わっているのである。」


この箴言は、美しい表現を持った指摘ですね。「ただ書けばいいというものではない。」ということでしょう。「書く以前に、己に確固たる精神があるのか?なければ、書いてもつたないぞ!」という風に聞こえてきます。これは良心をもった書き手としては、耳の痛い説教です。


《読書について》 「無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活をおくる。」 このショウペンハウエルのコメントは、今回、行政というものに関わったのでそれを痛感しています。お金は賢者が使って生きるものだということを実感として感じます。


《読書について》 「紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」 と、ショウペンハウエルは美しい箴言を発する。


これは、忠実に翻訳されているので・・・これを、 「紙に書かれた思想は一般に、山道に残った登山家の足跡以上のものではないのである。登山家のたどった道は見える。だが登山家がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」と、書けばさらに美しくなるがショウペンハウエルが言わんとする骨子は、「自分の頭で考えろ!人の考えを読むだけで留まるな!他人の考えは、あなたの考えではない。あなたの頭で歩きなさい。」ということでしょう。


ショウペンハウエルさん。これは、私も賛成!早速、あなたのご意見をここまで辛抱して紹介してきましたが、少し、あなたに意見したいと思います。つまりあなたが言う、「お前の考えを持て!」に答えて。


「多読はいかん!」とおっしるが、それは目的によります。科学技術を学ぶものにとっては、対象に関する様々な専門技術書物を図書館から、どさっと抱え込んで、求めている技術を検討するのが一番です。ただ、科学技術の場合は、あとで必ず自らその技術を使って考えて応用する力がいります。


また、技術者は様々な柔軟な思考を養うためにも、並行して、文学書、哲学書を読むことも必要でありどうしても多読になりますが、それでもジャンルが広がるので、個々のジャンルとしては多読というところまでいきません。


あなたの時代と今の我々の時代とは違う。現代は科学技術がもたらす便利な世界です。今の時代の人々は、不幸にも忙しい。時間がない。だから、インターネットや広告に載っている、わかりやすくて読みやすい本を求める。 とくに現世利益な本を求める。そして少しでも他人よりも知識があることを求める。それが、今で言う『私のスキル』として他人と差別化をする。そうした本があれば、人は競ってそれを求める。だからベストセラー本が生まれる。あなたが言われる『多読』という言葉の毒は、「多読により、自身が考えることを失う」ということでしょう。


現代の『多読』にふさわしい本の条件のひとつに、読むときに考えるつらさがない本があります。つまり考えなくても読める本のことでしょう。 一方、『多読』にふさわしくない、読んでも難解で意味のない本も図書館に行けば多々あります。それらを排除して良書を選び求めるのは、読者による『読書を考える』心構えでしょう。


己の考えを構築するために、様々な知識を真剣に探し求める。その行為のひとつが読書です。しかし、多読により己の考えを見失ってしまう。あるいは捨ててしまう。その箴言が当てはまらないよう、自戒しなければならないというのは事実です。でも、本を読まねば、己の考えだけでは、浅はかな考えしか構築できませんね。


ショウペンハウエルさん。あなたは、現代の我々以上に本を多く読破されたから、そのような境地がおわかりになったのではないですか?ご心配なく!現代人の多くは、ほとんど本は読まなくなっているのです。テレビや、インターネットで忙しくて、本を読む暇はないのです。


ショウペンハウエル曰く、「・・・・」 つまり、死人に口無し。


さて、最後の箴言を紹介しましょう。


《読書について》 「 読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩、などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。」と、書かれていましたが、これは、まさに現代にも充分通用することです。所謂、ベストセラーは、怪しいぞ!ということでしょう。


今回は、珍しく読んだ書物の引用を多く書き出しましたが、これはこのブログテーマが、『書物からの回帰』だからです。それで、ショウペンハウエルの、『読書について』が符合していましたから引用を多く掲載した次第です。そして付け加えますと、このブログテーマを、『書物への回帰』ではなく、『書物からの回帰』とした理由が、書物へ戻るのではなく、書物から自身の考えにもどるということを求めたからです。


読書が目的ではなく読書がひとつの基点で、それらの知識を行動で試し、実践として経験しながら、そしてまた読書し、そしてまた考える。こうしてアウフヘーベンできればと思っています。四月は、そういう意味では、最初に述べましたように行動が主になっています。様々な住民との対話や議論を通して、もっか、『住民』の正体を勉強中です。そして、当の本人もその『住民』なのですから面白いものです。


by 大藪光政