三月の花


この間、朝日新聞朝刊の広告特集に、財団法人 文字・活字文化推進機構 会長 福原義春さんのコメントがありました。福原義春氏は、資生堂の名誉会長として、また文化人として有名であることはご存知の通りです。


福原義春氏の読書法は、何冊もの本を同時並列で読むといった方法で、読みかけの本が机には五冊ぐらい在るそうです。そして、読み方として最初に後書きから読み始め、次に前書きを読み、そして本文を少し読む・・・その時点で自分の印象と食い違ったらその本を読むのは止める。つまり、読む本は限りなくあるから・・・選択をするということでしょう。


これを読んで、私と似たような読書法だなあと思った次第です。違うところは、最初に前書きを読んで、そして後書きを読む。ここで、その本の骨子を摑み、あとはその骨子を念頭において一気に読み出す。もし、前書き、後書きがつまらなければ本文は読まない。但し、これは専門書の場合のみです。文学書や哲学書はすべて古典のみですからそうしたことはしません。


同時並列で何冊も読む理由は、その方が気分の切り替えにより楽だからです。但し、専門書の場合は複数冊でも良いですが、文学書と哲学書などは、一冊ずつに限定しています。何せ、やっと沢山の本が読める時間を持つことが出来るようになったのは、昨年の春からですから・・・読書時間を大切にしなければと思っています。


福原義春氏のお歳は、七十六歳ぐらいですからもう喜寿を迎えますね。その読書に対する意欲はすごいと思います。私はそうしますと年齢的には、まだ洟垂れ小僧ですか? 福原義春氏は本を読むことで人生のクオリティーが高まるとおっしゃっていましたが、私はそんな実感よりも、読書を通して、面白い考え、新しい発見、知らなかったこと、意外な考え方、などなど自身のイマージュを刺激させるものを求める・・・そうした惑星探査みたいなことが好きなだけかな・・・と思っています。


さて、話を本論とします。先日から起きている二つの事件から、どうも前回書いた中島隆蔵氏の「 『荘子』、俗中に俗を超える」を読んで・・・のところで私が述べている疑問がどうも解けたような気がして、今回その追記として書くことにしました。


二つの事件とは、八人もの死傷者が出た事件と、駅ホームでの突き落とし殺人事件です。いずれも共通しているのが若い男性です。いずれも動機は、自暴自棄のようです。そして殺す相手は誰でもよかった。ということですから、当然殺傷された側は、まったくつながりのない、無関係な方が被害に遭っています。


八人殺傷事件の犯罪動機は、まだ要因がはっきりしていませんが、定職のない不安定な生活から生きる望みを自から断ち切ろうとして他人を巻き込んだものと推定されます。もうひとつの突き落とし事件は、高校から大学への進学が家庭の事情で出来なかったことから発した動機のようです。その家庭の事情とは、父親が派遣の仕事で生活がやっとで、息子が大学進学の希望を言ったら、経済的に大学にはやりきらないと息子に云ったそうです。息子はお父さん子で、父親を頼りにしていたということです。


この事件の状況を紐解くと、どうも社会問題であると考えられます。つまり、加害者の動機と被害者とが直接に結びつかないのです。しかも、自暴自棄になって自殺するのではなく他人に当たっています。それは、ある意味で社会に対する最後の抵抗であったかもしれません。事件を起こすことで叫びたかったのかもしれません。


日本の現在の社会は、職につくことにおいては格差が生じています。それも昔の格差とは違って、定職に就けないという非常に生活不安定な人が増加している。その中には、派遣労働、季節労働などの仕事があります。企業にとってはそうしたスポット的な雇用は大変無駄が無く経費節減になります。しかし、そうした労働者を扱っている実態は悲惨なものがあります。


つまり、こうした社会環境が事件を引き起こす要因となっているのです。荘子の考えから発している、「 己に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」 としているところの『己』とは、どうも『特定個人』を指すのではなく、『社会的人間』を指すようです。


自分と加害者とは関係が無い。或いは被害者とも関係は無い。そう思っていること自体がおかしいということになりますね。超越した考えを持てば、自分は加害者であり、被害者でもある。決して無関係ではないという恐ろしい結論になる。加害者は被害者であり、被害者は加害者でも在る。そういうことになります。


自分と他人は同一存在だということです。自立というのは、自己発見であり、他人と自己の識別ということでもありますが、そこにエゴイズムが生まれてきます。そしてそのエゴイズムから他人と己とは無関係という構造が成り立ちます。でも、畢竟それは荘子の考えからすると過ちなのでしょう。


すなわち、「 社会的人間に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」 そういう腑に落ちた勝手な解釈になりました。そう云った考えに立ちますと、まったく罪の無い無関係の人でも、そうした事件に巻き込まれるのは、社会的必然から起因しているということでごく当たり前なことになります。


事件の被害者や家族の方には大変お気の毒ですが、こうしたことは社会が変わらなければ防ぎようがないのです。社会を変えるには、政治力が必要ですが、その政治力は国民の選挙によって構築されますから、政治家を選ぶ投票がいい加減であれどうであれ、必然的にその影響は人間社会に還元されます。その行き着く先が、たまたま個人としての己であるこということもあるわけです。


やっぱし、「 社会的人間に固有する自然必然のさだめによって、そう在らしめている 」 は、真理と考えないわけにはいかないでしょう。つまり、『己』 には 『自業自得』 だけでなく、 『社業社得』も含まれているということでしょう。自分がなした行為に対してだけでなく、社会がなしたことに起因する火の粉も掛かってくる・・・ごく自然なことなのですね。


by 大藪光政