オレンジコスモス


この間、ポール・ストラザーンが書いたジャック・デリダを読んでから、どうもデリダの考えが気になったのですが、丁度、田舎図書館にどういうわけか、デリダの本が二冊ありました。どちらも誰も借りて読んだ痕跡の無い本です。ひとつはデリダの思想を紹介する本と、もうひとつは、デリダの公開講座の本です。それで、どちらかを読もうと考えた挙句、なるべく本人の肉声が読める方を、ということで後者を借りました。


二つのセミナーが掲載されていましたが、事前に打ち合わせになっている形式だったので、読んでもあまり面白くもありませんでした。途中退屈だったので斜め読みになってしまいました。この中では、公開討論は少し目を引くものがありましたが、セミナーは大学の講義と同じですね。閉じられ講義です。


この翻訳者は、谷 徹 氏と亀井大輔氏によって翻訳されたものです。これは、ポール・パットンとデリー・スミスの二人がまとめたものを翻訳したものです。しかし、訳者は親切にも巻末に『解説とキーワード』を載せてくれています。まさに、デリダを知らないものにとっては、大切なキーワードです。


デリダといえば、『脱構築』という言葉が有名みたいですね。その『脱構築』という意味ですが、字をそのまま解すると、『構築』から抜け出すという意味として捉えられます。一般の人がこの言葉をどう捉えるのか?試しに、哲学なんぞ糞食らえと考えている我が息子に尋ねてみました。「お前、『脱構築』って、どういう意味と思う?」すると、何を言っているのだろう?と言った顔で、「ふん!形にとらわれないことだろう?」と、答えました。


これは意外な答えで、それなりに感心しました。工学部で知能制御を勉強しているものとしては、文学的な表現だな・・・と思います。「構築しているものから抜け出すこと・・・」と言った答えでもするのかと思っていました。


しかし、デリダの、『脱構築』は、もう少し言葉の意味があるようです。『解説とキーワード』をちょっと引用させてもらうと、・・・さまざまなテクストにおいて(『現前』として)特権的・中心的に価値付けられているものが、じつは究極的な根源ではないということを示し、それよりもさらに根源的なはたらき(差延)を明らかにしていく。このような読解によって、テクストがみずからの中心点を解体していく(ように仕向ける)作業が『脱構築』と呼ばれる」と、説明してあります。


こうして、読んでいきますと、新漢語が新しい哲学のおかげで、どんどん生まれてくるのがわかります。つまり哲学によって、だんだん日本語が難解になっていきます。


最初に、セミナーが面白くないと言ったのは、その要因として訳者がそのセミナーの内容を、直訳されたからです。これをいったん訳者にて呑みこんで自分が語るようにして、かなり意訳すれば面白かったかもしれません。直訳であれば、こうした本で出版しなくても、わら半紙で仕上げて、ホッチキスで止めれば十分です。


話を元に戻すと、『解説とキーワード』に、脱構築の説明の後に、『差延』という新漢語と痕跡についての説明があります。この訳者の説明を取り上げてみますと下記の通りです。


{ 『差延』とは、差異と遅延を生み出す運動を意味する。『現前の形而上学』の閉域内では、起源(根源)はなんらかの『現前』として考えられるが、『差延』は、その起源以前にあるはたらきである。このはたらきによって、起源は、直観に現前せず、いつも逃れ去る。『痕跡』もまた、『差延』とともに、『起源以前のはたらき』を示す語である。たとえば言語起源論のように、言語が『いつどのように生まれたのか』と問うことは、言語や意味の起源が『現前』する、という考えを前提としている。この思考は、『現前の形而上学』的な思考の特徴であり、そこでは起源が現前として考えられている。それに対して、デリダは『痕跡こそが起源である』と主張する。『痕跡』は現前ではない。むしろ、『起源』は、「一つの非-起源、すなわち『痕跡』によってはじめて構成される」、つまり『痕跡』があってはじめて『起源』が(求められるべきものとして)成立するのであって、起源に先立つ『痕跡』がなければ『起源』を思考することはできない、というのである。したがって『痕跡』は、『起源』よりも起源的なもの、いわば『起源の起源』である。 }


最後の辺、お分かりですか?わからない?そうですか・・・これを意訳すると、『にわとり』と、『たまご』はどちらが先か?との問いと同じですね。『痕跡』を『にわとり』に置き換えて、『起源(根源)』を一部だけ『たまご』に置き換えて読むと、すると、『痕跡こそが起源である』のところは、『にわとりこそ起源である』という解釈と、「 『痕跡』があってはじめて『起源』が成立する・・・」のところは、「 『にわとり』があってはじめて『たまご』が成立する・・・」と解釈すれば、面白い。最後の辺は、「 『にわとり』は、『たまご』よりも起源的なもの、いわば『にわとりの起源』である。 」と、意訳できますね。この考え方は、にわとりのDNAは、痕跡であり、そのにわとりが産むたまごよりも、先立つものであると考えることは、現在の科学では当たり前のことです。


一般的には、『たまご』が一瞬、起源だと思いがちですが、そうではなく、にわとりのDNA中に、起源が含まれているということですから、『痕跡』が『起源』であるといいたかったのでしょう。すると、デリダの思想背景には、現在の科学的な思考を随分活用しているなと思います。


振り返ってみますと、近代からの西洋哲学は、古代の哲学から分化したはずの『科学』に影響されて、哲学を科学的に扱おうとしているような気がします。『分析』という言葉は、科学の得意な用語ですが、まさに現代哲学は『言葉』の分析を行っています。それは、科学が分析によって法則を見出すのと同じで、『哲学の文法』を探っています。( 何故、哲学の場合、法則が出てこないのかは?定量的に捉えられないからでしょう。)


でも、そうすることで、何がわかるのか?ということになりますね。私は、言語哲学など無関係ですが、これらを研究することで役立つことがあります。それは、自動翻訳機や、音声入力といったIT技術です。異なる言語間の翻訳、或いは音声で語ったことを自動的にテクストにしてしまう技術です。


ですから、だんだん哲学が技術としての学問に移行している気がします。『真理』とか、『存在』とかいう『現前の形而上学』を置き去りにして・・・・。デリダの役割は、もともと人がやっている当たり前な処理のことを、新しい言葉で、はっと気付かせる・・・そして、再度見直す作業を勧めているようですが、それが『哲学技術』へと陥っているような気がします。


難しい言葉で、哲学を語るのは簡単ですが・・・(どんどん、新しい哲学用語を独自に編み出して論文を書いて行けばよい)平たい言葉で哲学を語るのは難しい・・・それもテクストではなく、発声で語るのは難しい。


言語の研究をとことんやって、どんなに、先程の『哲学文法』を現代の哲学者が極めても、そのような哲学者には優れたポエムを書くことはできないでしょう。何故、詩人にはそれができるのか・・・何故でしょう?真の哲人は、分析に励む哲学者か、詩人か、どちらでしょうか?


by 大藪光政