チューリップ


古き良き時代に、高校の模試で作家の作品を挙げる問題がありました。その中で、今回の徳冨蘆花の作品は?といった問題がありました。当然、読みもしていないのに、ちゃんとその答えを書くことができ、丸を貰いました。


それは考えてみると無意味なことですね。所謂、受験勉強の弊害です。そうした罪悪感がずっとあって・・・たまたま図書館にその蘆花が書いた『不如帰』がありましたので読んでみることにしました。つまり、受験勉強のつけを支払う気持ちで・・・。


期待をして本を開いて読み始めると、なんと文体は今で言う超レトロです。まるで無声映画の弁士付きの活劇を観ている感じです。読み始めて・・・「とほほ・・・」といった気分になりました。

文章自体は特に難しさといったものは、まったくありませんが、とにかくスローで、どうしても主人公とこちらの気持ちが重なりません。これは最後までそうでした。

この簡単な内容の書物を読むのに、なんと期間の掛かったこと・・・つまり、一枚読んではため息を吐き、二枚読んでは、ぶつぶつ独り言を云って・・・家中では、その姿が余程滑稽に見えたのか、いい笑いものになりました。

これが仕事の専門書ならば、すぐに投げ飛ばすのですが、文学書ですから『ぐぐっと』我慢をして、どうかしますと、一日たったの一ページ読むと、次の日と言った具合です。

この物語は、実話を題材にされていましたが、今時珍しい妻(浪子)と、夫(武男)の純愛ストーリーなのです。結核に掛かった妻は、夫が軍務で出向いている隙に、意地悪な姑により離縁させられてしまうという悲しい?物語なのです。


しかし、疑問に思うのが、帰宅した夫の武男が一度も妻の浪子の元に出向かなかったことです。自分の不在中に起きた顛末を、自分自身が浪子本人に会ってきちんと把握すべきではないのか?

ところでこの前に、漱石の草枕について書きましたが、描写的には装飾技術がまるで違うけども似たものがあります。それは、読者が主人公になりきれなくて、遠景を眺めるような気分になるということです。だから、とても悲しい気分にはなれません。


こんな風に書けば、『不如帰』は、ボロクソになってしまいますが、この『不如帰』なんと、1992年までには、61刷も増刷されていて、当時は国民的ヒット作だったようです。

昔は今よりもっと嫁と姑との間でかなりの確執があって、その妻の立場としての同情がこの一点に集まったのでしょう。しかし、恐らく、福田恆存氏だと川端康成や谷崎潤一郎の文学がくだらない『子供の文学』と言い切ったように、この『不如帰』も『子供の文学』と言われるかもしれない。いや、大衆通俗小説ぐらいの扱いかもしれませんね。


不治の病にかかった浪子がかわいそう、姑の仕打ちで離縁させられたのがかわいそう、夫に一度も会うことなくあの世に行ってしまったのがかわいそう、つまり可哀想な物語なのです。

そうした可哀想な話は、時代に関係なく何時の世も、いろんな可哀想が沢山あるのが世の常です。可哀想だけでは文学として訴えるものがなさ過ぎる。そんな感情だけの小説では読者に対して文学としての訴求に欠けてしまいます。

こんな風に書いてしまうと徳冨蘆花のご親族に、きっと怒られるでしょう。この物語を文学としてではなく、解説であったようにノンフィクションとして、事実の話として捉えた場合、それでも夫、武男という男は、なんと冷たい奴だと思います。

自分の不在中に自分の母が勝手に、療養中の妻を離縁させた事に対して、どうして自らそのことについてのなんらかの対応をなさなかったのか?また何故、一度も会わずにいたのか?その疑問が残ります。この小説では、武男は浪子にとって良き夫として描かれていますが、そうかなあ?と思うのです。今とは時代が違っていると贔屓目に解釈しても、どうも疑問が残ります。

本当は、夫が離縁をすんなり受け入れたのではないかと思います。もちろん蘆花はそれとは逆に、解釈しています。浪子は夫が離縁をすんなり受け入れたことを知らずにあの世に行ってしまった・・・。

浪子は、夫が自分を決して捨てていないことを信じていた。ところが夫は、もう伴侶として連れ添うのに疲れていたので姑の処置で、実は渡りに船であった!知らないと云うことは幸せなことなのだ・・・。

となれば、これは本当に悲劇ですね。


しかし、蘆花の風景描写はとてもロマンチックで良かったですよ。こうした文体はもう今の作家ではありえないですね。今の作家は、会話調ばかりで、情緒がありません。そういう意味ではその時代の代表作かもしれません。古き良き時代の作家としていつまでも活劇として残るでしょう。


by 大藪光政